奇跡の始まり━1979年~1980年 | 「松田聖子」という奇跡

奇跡の始まり━1979年~1980年

超大作です(笑)
長いです叫び
時間がある時に読んでくださいね得意げ

一体どれだけの幸運が彼女に微笑んだのだろう。

もし、CBSソニーの若松ディレクターが、ミス・セブンティーンの一地方大会の優勝者、それも全国大会を辞退した少女の歌など真面目に聴こうとしなかったら?

もし、サンミュージックの相沢社長が、もうデビューさせる新人は決まっている(中山圭子)から、と若松Dの誘いを断っていたら?

もし、サンミュージックの相沢社長が、面接する約束などしていないのに勝手に来てしまった蒲池法子と若松Dを、門前払いしていたら?

もし、蒲池法子の芸名が、プロダクションが用意した「新田明子」になっていたら?

もし、同じサンミュージックの先輩、香坂みゆきの仕事が忙しくならずに、ドラマ「おだいじに」の太川陽介の恋人役が回って来なかったら?

もし、中山圭子のデビュー曲のタイアップがご破算になり(タイアップするはずのシャンプーの成分に、日本には輸入できない成分が含まれていた)、本来中山圭子がデビューしてから2年間はデビューできない約束になっていた蒲池法子にチャンスが回って来なかったら?


間違いない。
幸運の女神は彼女に微笑んだのだ。


一体どれだけの困難が彼女の前に立ちはだかったのだろう。

父親は芸能界入り絶対反対で、せっかくミス・セブンティーン九州大会で優勝したのに、全国大会の出場を辞退。

渡辺プロダクションからは、ガニ股を理由にプロダクション入りを断られた。

サンミュージックには、すでにデビューさせる新人(中山圭子)が決まっていた。当時のサンミュージックは新人は一年に一人をデビューさせるのがやっと。

しかも中山圭子はレコード会社も同じCBSソニー。同じプロダクション、同じレコード会社から一 年に二人デビューなどあり得なかった。

蒲池法子に最初考えられていた芸名は「新田明子」。これは当初中山圭子の為に用意され、ボツになったものだった。

洗顔クリーム「エクボ」のCMソングを歌える事になったものの、エクボができない事を理由に違う女性(山田由紀子)がTVに映ることになる。

二人で一緒に握手会をやると、行列ができたのは、山田由紀子の方だった。

デビュー曲発売前のラジオの公開録画で、初めて披露した曲の名前は『ハイヌーンは熱く』。
プロダクションが用意した衣装は、大人っぽい服にハイヒール。
おまけに歌も、歌詞や入りを間違えてボロボロだった。

間違いない。
彼女の前には途方もない、困難という壁が立ちはだかっていたのだ。


 
                       *参考資料;中川右介『松田聖子と中森明菜』

人生など歴史と同じ、解釈によっていくらでも語りようがある。

「私は運が良かった」
━そうでしょうとも。
「私の人生は苦難の連続だった」
━その通りですね。

「松田聖子」の出現が、いくつもの幸運によって支えられた偶然だったのか、いくつもの逆境をはねのけて栄光をつかんだ必然だったのか、都合のいい事実を並べ立てれば何とでも言える。


$「松田聖子」という奇跡~ひとりよがり哲学-デビュー前


結局、法子さんはお父さんを説得するのに一年半かかっています。
一年半かけて説得するって大変な事ですね。
「歌手になりたい」っていう気持ちがどれだけ強かったかがうかがえます。
どうしても諦めきれなくて、毎日毎日一年半言い続けて、時には叩かれる事もあったとか。
あれだけ娘を大事にしていたお父さんが叩くなんて、お父さんも娘を守りたい一心で必死だったんですね。

でも、この一年半が、今考えるととても貴重な時間だったように思えます。
お父さんを説得する過程で、きっと自分を見つめる機会も多かったのではないでしょうか?
どうして歌手になりたいのか?
自分は歌手になったらどうしたいのか?
歌手になる為には何が必要なのか?

法子さん、アポも取らずに久留米から東京に出てきて、若松Dと共にサンミュージックの面接を受けます。
相沢社長の第一印象はAとBの中間ぐらい、やる気とパワーを強烈に感じたようです。
相沢社長に「来年3月に高校を卒業したら来なさい」と言われると、いてもたってもいられず高校に退学届けを出して上京してきてしまいます。
79年7月の事です。

結局、蒲池法子さんの芸名は、姓名判断の占い師の提示してきた「松田聖子」に決まりました。
よくぞ、この名前を選んでくれました。
12月から始まったドラマ「お大事に」で、松田聖子として出演します。
私、そのドラマちらちら観てましたが、その時は何も感じなかったなあ……。
この前TVで、ドラマの役名が「松田聖子」だったからそれをそのまま芸名にした、みたいな言い方をしてましたけど、あれは違いますよね。
「松田聖子」という芸名をドラマでも使っただけで。
とにかく、やっぱりこの名前しかない。

$「松田聖子」という奇跡~ひとりよがり哲学-おだいじに


「新田明子」じゃダメなんです。
「松田聖子」しかあり得ないのです。


当時、聖子さんは相沢社長の自宅にある寮に下宿していました。
同じ寮にいたのは、中山圭子さん。
父が俳優、祖父が映画監督というサラブレッドで、山口百恵さんを手掛けた酒井政利さんがプロデューサーになる事も決まっていました。
いくつものプロダクションから話があったけれど、サンミュージックに入る時に父親が出した条件が、「二年間は中山圭子に全てを賭け、その間は他のタレントをデビューさせない」。
タイアップの話は消えたものの、中山圭子さんは、80年2月に『パパが私を愛してる』でデビューします。
作詞は阿木燿子さん、作曲は南こうせつさん。
成功する為の、あらゆる条件が整っていますね。

この頃、CBSソニーがポスト百恵として売り出そうとしていたアイドルは、中山圭子さんの他に、浜田朱里さんがいました。
こちらも酒井プロデューサーが手掛けており、小学生の頃から児童劇団に所属して歌のレッスンを受けていて、ルックスもどことなく山口百恵さんに似た雰囲気を持っていました。
さらにドラマ「赤い」シリーズ(山口百恵さんが主演をずっと務めていた)への出演が決まっており、ポスト百恵の最右翼でした。
聖子さんはこの時点で、とてもじゃないけど「期待の大型新人」ではありませんでした。

そんな聖子さんにもチャンスはやってきます。
資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMソングを歌える事になったからです。
そのCMがこちら。



歌い方がレコードと違いますね。
♪秘密あげ~たあ~い~わ~♪
じゃなくて
♪秘密あ~げ~た~い~わ~♪
になってます。
何しろこの時点では、この曲は聖子さんではなく山田由紀子さんが歌っていると多くの人が思っていました。
「歌・松田聖子」みたいなテロップもないですし。
ナレーションは徳光さん?
当時はCMで値段も言ってたんですね(笑)

この曲のレコーディングの時の、編曲を担当した信田かずおさんの言葉です。
「デビュー曲のオケを作っているスタジオに、学生カバンを下げてやってきたんですよ。
まだ歌入れでもないのに、スタジオに来る歌手って珍しいなと思った」


ボロボロだった、というラジオでの公開番組の映像は当然ないでしょうが、それに近い時期のものと思われる動画を添付しておきます。
衣装がアイドルっぽくないですね。
どうもこの時の大人達は皆、山口百恵さんの影を追っていたようですね。



歌いだしてすぐ、マイクを右手から左手に持ち替えていますね。
「神の左手」のルーツはここにある?

こちらは歌詞がとんでしまいます。



しかし、ここから聖子さんが動き出します。
『ハイヌーンは熱く』は『裸足の季節』に変更になりました(これは聖子さん一人の意見ではないと思いますが)。
聖子さんは、フリルのついたドレスをスタッフに要求しました。
髪型も自分で決めました。
いわゆる聖子ちゃんカットです。
聖子さん自ら、自分なりのアイドル像を持っていて、それを具現化していきます。

*この辺りの事は、『松田聖子と中森明菜』しか手元に参考資料がないので、多少の事実誤認があるかもしれません。

これはやっぱり、お父さんを説得する為に費やした一年半という月日が無駄ではなかった事を示したものだと思います。
ミスセブンティーンの全国大会で優勝してトントン拍子に歌手になっていたら、自分なりのアイドル像も不鮮明で、プロダクションのなすがままだったのではないでしょうか?
18歳というタイミングでデビューしたのは、まさにこれしかない、というタイミングでした。
「松田聖子」という歌手は、やはり運命に導かれるように歌手になったのでしょうか?

幸運?
困難?
運命?
それがどうした!
一年半かけてお父さんを説得したのは誰だ?
どうしても面接を受けたくて、アポ無しで九州から飛んできたのは誰だ?
高校に退学届を出してまで、上京してきたのは誰だ?
まだ歌入れでもないのに、スタジオに行ったのは誰だ?
衣装や髪型を決めたのは誰だ?
そもそも一地方大会の優勝者に若松Dがそれほど惚れこんだのは何故だ?
この時のミスセブンティーン全国大会で優勝した人の名前を言える人が何人いる?


法子さんが東京にでてきた頃の話です。
お父さんも東京に出張で来ていて、久留米に帰る時、新宿でアイスを食べながらの二人の会話。
法子さん、一人で東京に出てきて寂しかったんでしょうね。
お父さんに弱音を吐いて、泣きだしてしまいます。
お父さん「一緒に帰ろうか?」
法子さん「……絶対頑張る。」

本気になった天才に誰が敵うものか!
努力する天才が伝説を残さぬはずがないではないか!
「松田聖子」という奇跡は、この時、この瞬間から始まったのだ!!


聖子さんの歌声は、まさに「奇跡の歌声」だと思います。
そこで、グーグルで「奇跡の歌声」と検索すると、この方の名前が出てきます。
そうです、スーザン・ボイルさんです。
確かに素晴らしい歌声ですね。
声量も半端ないですし。
47歳の一般人という事を考えれば、驚異的です。


*埋め込みが無効になっていますが、「YOU TUBEで見る」という所をクリックしていただければ、OKです。

でも、何かこの審査員の反応がわざとらしく見えてしまうのは、私だけでしょうか?
あらかじめ自分にカメラが向いているのがわかっていて、大げさに反応する「ビューティーコロシアム」のゲストみたいで。
いや、別に批判しているわけでもないし、スーザン・ボイルさんにケチをつけているわけでもないんです。
だって、彼らは気付いたんだもの。
スーザン・ボイルという才能に。
スーザン・ボイルの歌声の素晴らしさに。

果たして、私たちは何をしていたんでしょうか?
「松田聖子」という「奇跡の歌声」を持つ天才が、確かに出現したというのに、一体どれだけの人がその事に気付いていたのでしょうか?
「聖子ちゃんカワイイね」
「アイドルにしては歌上手いよね」
そんなレベルじゃないだろう!!
私なんてその奇跡を目の当たりにしながら、歯牙にもかけなかったのだから。

奇跡は、確かに起きていたのだ。
天才は、確かに出現していたのだ。
でも、人々がそれに気付かないかぎり、奇跡も天才も「無」になってしまう。
そういう意味では、もし、「松田聖子」に幸運の女神が微笑んだとしたなら、それは若松Dとの出会いだろう。
彼こそ、「松田聖子」という奇跡に気付いた、ただ一人の人間なのかもしれない。


今、もう一度振り返ってみたい。
天才、松田聖子の奇跡が始まった瞬間を!
31年の時を経て、今こそ驚き、歓喜し、ありったけの称賛を贈るのだ!

                             *ヘッドフォン必着です


聖子さん、今あなたは、歌手としての第一歩を歩きはじめました。
この先、数えきれない困難が、試練が、障害が、あなたを襲うでしょう。
その為に、普通の人の数倍のつらい思いもすると思います。
でも、聖子さん、覚えていてくださいね。
今から31年以上経った遠い未来でも、あなたは歌い続けているのですよ。
そして、その遠い未来でも、ファンはあなたを見守り続けているのですよ。
あなたは、これから素晴らしい楽曲の数々にめぐり逢い、その奇跡の歌声で私たちを幸せにしてくれるのですよ。


お父さん、あなたは正しかった。
これから法子さんに訪れる苦難の道のりの事を考えれば、あなたが歌手になるのを反対したのはまぎれもなく正しかった。
でも、お父さん、ごめんなさい。
大事な娘さんが傷つく姿を見るのは、さぞや辛かっただろうと思いますが、それでも私たちには、歌手・松田聖子が必要だったのです。
どうしても必要だったのです。
だから、歌手になるのを許してくれて、本当にありがとうございます。
そして、本当にごめんなさい。

お母さん、法子さんを産んでくださって、本当にありがとうございます。
それが、私達の人生をどれだけ豊かにしてくれたのか、語るに語りきれない程です。
そして、今でも、法子さんを支えてくださっているんですね。
これからも、よろしくお願いいたします。


$「松田聖子」という奇跡~ひとりよがり哲学


聖子さん、あなたのいない人生なんて考えられません。
歌手になってくれて、心から、心から、ありがとう!!!