基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ハドリアヌス帝の回想 by マルグリット・ユルスナール

大震災が起こった時に、だれもそれを「たいしたことなかったね」という人がいないように、芸術のような価値判断の決まったものさしが存在しない分野でも、誰もが足を止め隅々まで制御の行き届いた、それでいて常に想像の範囲外に逸脱しつづけていくような、だれもが圧倒される作品というものがある。「たいしたことなかったね」なんて、誰が読んでも本書にたいしてはつぶやけないだろう。圧倒的な質量を誇る描写、文章、一人の皇帝の人生の前に、ただねじ伏せられる。

本書が本国で出たのは1951年のことである。日本で出版されたのは2001年だったようだ(その後2008年に新装版出版)。今更この本を読んだのはブックファースト新宿店での『名著百選 私が今年、出会った一冊』という作家がみなそれぞれ自分の今年出会った一冊を上げている中で、円城塔さんの推薦文が目を惹いたからだった。それは次のようなものである。短いながらも円城塔さん以外誰も書かないような推薦文で素晴らしい。

「コウモリであるとはどのようなことか」を人間にわかるように書くことはできないが、「皇帝であるとはどのようなことか」を皇帝の視点から描くという不可能事を、ユルスナールは成し遂げている

本書は分類でいえば歴史小説といっていいだろうか。推薦文にもあったように、ローマの五賢帝のうちの一人に数えられるハドリアヌス帝が、その死を目前にしたとき、のちの皇帝となることを期待しているのマルクス・アウレリウスへ向けて自身の人生を振り返っている、一人称視点の回想がそのまま物語になっている。出来事は史実によっているとはいえ、歴史小説だ。史実では「あった出来事」しか語られないが、歴史小説は、その空白を埋める。ハドリアヌス帝は62歳にして亡くなっている。その事実はわかるし、変わらない。しかし死をいざ前にして、ハドリアヌス帝が何を思ったのかは誰にもわからない。

しかし一人の人間を描き出すというのは大変なことだ。それが皇帝という特殊な立場ある人間であれば尚更のこと。「絶対に正しい」「立体的な」描写が限られた文字数、制限された言語の中では不可能な以上、そこには無限の想像力と、絶えざる限界への挑戦が必要とされる。著者のユルスナールは驚異的な執着力と誠実さで見事ハドリアヌスを描き切ってみせた。最後、死へと向かうハドリアヌスの心情の描写は今まで読んだどんな作品よりも優れた迫真さと、高貴さをはなっている。

ユルスナールの文章はなめらかだ。しかしなめらかだからといってそれをすぐに通りすぎることができるわけではない。細心の注意を払って構築されたローマの情景、ハドリアヌスの心境に寄り添っていくうちに、ほんの一行を書くのにいったいどれだけの時間が費やされたのだろうと思うほど思考が凝縮されることに気がつく。ただしそうした力み、「歴史公証とかがんばったよ」ということを一切感じさせないからこそ、するすると読めるのである。そしてそうした歴史考証的な正しさと負けず劣らず、美しい語句の使い方に引き込まれる。

ダメな歴史小説のような、人物造形に関して行き過ぎた理想化はなく、極端な卑下もない。ディティールを派手に誇張したり、書くべきことと書かずにいることのバランスを崩したりもしない。注意深く、ハドリアヌスという存在がなにをなしたのか、何を考えたのか、そしてどんな存在になろうとしたのかを描写していく。ユルスナールが本書に着手したのは二十歳の頃だったが、中断をいくどもはさみつつ最終的に書き上がったのは48歳の頃であった。発表するや否や絶賛の嵐であっという間にユルスナールは本書で評価を揺るぎないものにした。ユルスナール自身は覚書の中で下記のように語っている。

いずれにせよ、わたしは若すぎた。四十歳を過ぎるまではあえて着手してはならぬ類の著書というものがある。その年齢に達するまでは、人と人、世紀と世紀とを隔てる偉大な自然の国境を誤認し、人間存在の無限の多様性を見誤る危険性がある。あるいは反対に、単なる行政区画や、税関や、守備隊の哨舎などに、重きをおきすぎるおそれがある。皇帝とわたしとの距離を正確に計算することを学ぶために、わたしにはそれだけの歳月が必要だったのだ。

二十八年もの間自分の中にハドリアヌス帝を存在させ続けるというのはどのような効果を著者の中に産むのだろうか。より親しみが増すのか、より理解が進むのか、あるいは自分自身との同一化が進むのか。なんにせよそうした著者の長い長いハドリアヌスとの付き合いは作品にとってよいことだったのだと思う。僕は読み終えた時に著者が女性だというのを知って驚愕した。この文体、この皇帝の人生を、異なる性別の身で書けるものなのかと。ジェンダーの差は多くの場合思い込みだとは思っている。人間の能力はそんなこと軽く超えてみせる。しかし、それでもだ。それでも驚いてしまった。

ユルスナールはブリュッセルで1903年産まれ。そしてその十日後に彼女の母親は亡くなった。まだ子供を産むことが今ほど安全でなかった時代である。その後ユルスナール9歳の頃にパリへ移り住み、学校へはいかずに幾人かの家庭教師に教わっている。このあたりの生い立ち情報はNew York Timesの記事を参照しているのであしからず。*1。優れた作品を世に放つ作家が努力や理屈を超えて幼少期からその才能をいかんなく発揮していることがあるように、ユルスナールもまた才能としかいいようがない幼少期からの特別な文章能力を発揮していた。9歳の頃には自身で学ぶ方法を覚え、詩を書き始めていたが、その詩が既にすごい。

彼女はバイセクシャルであった。その影響か、作品の主人公には同性愛者が多いという。本書の主人公ともいえるハドリアヌスもまた有名な男色家だ。当時はとくに禁じられたことでもなかったこともあって、美男子への愛があけすけに描かれている。様々な書き手のタイプがいるが、ユルスナールは自身を作中人物に重ねあわせ没入していくタイプの作家だったのだろう(キャラクタの内面に没入しないで書ける人間なんてそうそういないのかもしれないが)。彼女もまた一時期において相手を男女に問わず性に放逸だった時期があったが、その間でさえも絶えず書き続けていたという。

僕はハドリアヌス帝がどんな人間であったか、どんな皇帝であったのか、といった知識をほとんどもっていない。賢帝出会ったらしいことは知っているし、男色家であったことも知っている。平和を築き上げたことも知っているが、実際にどんな人間だったかなど知りようがないのだから。だからこそハドリアヌス帝にたいする「リアリティ」みたいなものの判定基準を持っていない。漠然と「皇帝はこんな人なのだろうか」というイメージを持っているぐらいだ。が、ユルスナールが描くハドリアヌス帝は信じられないぐらい魅力があり、力ずくで納得させられてしまう。

自身の人生への絶対的な納得感。自分を世界の中でのたんなる一皇帝、されど一皇帝であるとして、その権限と能力が後世に及ぶ範囲を冷静に見つめている客観性。周りにいる人間の個性と考えを把握し、人間に存在する限界を正しく把握し受け入れることの出来る知性。完璧な人間ではなく、いびつな部分があるのだがそれもまた皇帝のスケールに見合ったようなとんでもなさだ。

愛する美男子が事故で死んだ時などは神殿をつくり都市をつくり帝国中に彼の像を建てた。いったいその時彼の治世下にいた人々は何を思ったのだろうか。皇帝ご乱心どころの騒ぎじゃない、愛する人が死んだからといってその像を街中にたてられたり神殿をつくられたりしたらたまったものではないぞ。しかしそれがハドリアヌス帝だった。ある部分においては賢明であり、ある部分においては狂っていたのだろう。

皇帝自身が自覚していたと書かれているように、彼は決して普通の人ではなかった。こんな陳腐な表現の数々じゃ決して表現しきれない、人間性の描写はあまりにも素晴らしく、冒頭から本をとりおとしそうなほどの震えがくる。人間が時間をかけて、そして才能をあらん限り費やして構築された文章は、時間を超えて人間を震わせ、なんてことのない場面でさえ一瞬で涙を出させるのだ。これだ、これが文章の力なんだよ、文章ってのはここまでできるんだ。

医師の面前で皇帝たるは難い。人間としての資格を保つこともむずかしい。職業的な目はわたしのなかに、体液のかたまり、リンパ液と血液のあわれな混合物をしか見ていなかった。今朝、こんな考えが、はじめて心に浮かんだ──肉体、この忠実な伴侶、わたしの魂よりもわたしのよく知っている、魂よりもたしかなこの友が、結局はその主をむさぼりつくす腹黒い怪物にすぎないのではないかと、だがもうよい……わたしは自分のからだを愛している。このからだはあらゆるやり方で私によく仕えてくれたのだ。いまとなっては世話のやける彼の面倒を見ないわけにはいかぬ。しかしわたしはヘルモゲネスがいまなお当てにしていると主張するようには、薬草のすばらしい効能や、東方にまで彼が求めに行った鉱物塩の的確な調剤などを、もう信じてはいない。頭がよいくせにこの男は、だれもだまされないほどつまらぬ気休めの曖昧な処方をわたしにすすめた。彼はわたしがこの種のペテンをどんなにきらっているか知っているのだが、しかし全然いんちきなしに三十年以上も医術を施すことは人間にとってまず不可能なことなのだ。わたしの死をわたしから隠すための努力を、わたしはこのよき僕にゆるしている。ヘルモゲネスは学があり、懸命ですらある。誠実さにおいても彼はありきたりの宮廷医よりはるかにすぐれている。幸いなめぐり合わせによって、わたしは病人として最善の看護をうけることになろう。しかし何人も定められた限界を超えることはできぬ。もはやわたしの腫れあがった足は長々しいローマの儀式のあいだじゅうわたしを支えてはいられないし、呼吸も苦しい。そしてわたしは六十歳である。

すべてを把握し、未来を見通しているかのようなハドリアヌス帝だが、いくどかの失敗、挫折を味わっている。そうしたことも含めて彼は回想として語っていく。何もかもが常軌を逸していたわけではなかった。よき軍人ではあったが偉大な武人ではなく、芸術の愛好者ではあったが突き抜けた芸術家ではなかった。数百年は残るであろういくつかの改革をしたが、何千年残るような改革を行うことは出来なかった。かといって誰もがたどるような中庸な道を歩んできたわけではない。こうした絶妙なバランス感覚はユルスナールの絶えざる努力の賜物だろう。

詩人はまるでこの世とは思えないような甘美な世界を歌い上げてみせる。歴史家はすっかり血の気を失った死体のような、完全な体系をつくりあげようと苦心を続けている。ユルスナールは片足を歴史の中に、片足を神秘的な詩の世界へとおきながら見事にその両者を融合させている。本書は死、つまりは歴史から非現実に至る物語であるが、まさにその死へと向かっていくハドリアヌス帝の描写は優しく、心境は愛情に満ちている。この愛情は無根拠な、博愛的なものでなく、他人に対しても自分に対しても、これまでたどってきた失敗や成功や喪失を何もかも把握した上での愛情なのだ。

『人生は無残なものだ。それはわかっている。だが、人間の条件からたいしたことを期待していないからこそ、まさにそのゆえにこそなおさら、幸福な時代、部分的進歩、再開と継続の努力が、もろもろの悪や失敗や怠慢や過誤の膨大な集積をほとんど償うに足るほどのすばらしい脅威と思われるのだ。』皇帝という畏れられ、敬われ、神のように扱われる存在。『人々はわたしを崇めている。わたしを愛するにはあまりにわたしを敬いすぎている。』それはある意味では絶対的な孤独だが、彼は自分や他人に関わらず、その弱さをも愛したのだった。

偉大な皇帝の死へとのぞむ皇帝の心境に、最後は涙が止まらなかった。悲しいのではなく、その偉大さにたいして。

ハドリアヌス帝の回想

ハドリアヌス帝の回想

新訂 福翁自伝 (岩波文庫) by 福沢諭吉

これはもうべらぼうに面白い一冊で古びれるどころか当時(福沢諭吉時代)の雰囲気が外部にいる知識人といった主流派から離れた立場からみられて(維新だなんだの言っている奴は馬鹿だし、幕府も引きこもりばかりで馬鹿ばっかりだ!!)たいへんおもしろいのだ。坂本龍馬、ひいてはその維新は今でこそ成功したかのように見えるので讃えられることが多いが当時からしてみればゴロツキは増えるわ理不尽な暗殺は増えるわでアホまるだしのように見えもしただろう。福沢諭吉などは英語を早くから英語を使いこな海外との折衝に最初期から関わっている人間であったから身もずいぶん狙われたようだ。

福沢諭吉といえばなんといっても慶應義塾だしお札にもなっているしなんだかとっても偉い人だという認識が強い。ところがその実大酒飲みで若いころからろくでもないことを山ほどやっている。本書は速記者に向かって話したことを福沢諭吉が直すといった形で作られているが、もう言いたい放題、馬鹿にしたい放題。それで自慢をした他者を見下した嫌なやつに見えるかというとそうでもなく理屈が通った文句のつけ方なのだから素晴らしい罵倒芸だといえよう。教育システムから何まで福沢諭吉が<発明>したことは実に多いのだがそれらにも極々、まるで近所に散歩にいったんだけどさ〜ぐらいのさりげなさで触れられていていい。

福沢個人の体験談としては、勉学に対する姿勢、知的探究心が読んでいて面白い。どうにも知的探究心というやつは、飢餓感と表すのがいいように思う。情報的に飢え、知りたいことがまったく知ることが出来ないという時に念願の情報が目の前にやってきたときにむさぼりつくようにして食らいつく。そうした情報的飢餓感のエピソードが本書には何度も出てくる。時はまだ江戸時代であり外国人もたまにはくるしこちらからもたまに使者がいくものの洋書のたぐいはめったに入ってこない。福沢諭吉も英語をやり洋書を読めるようになるが、珍しい洋書などなかなか手に入らない。

たまにどれだけ働いても買えないような高価な洋書が近所で手に入ったと聞けば、ほんの少しでいいから貸してくれないかといって借りてきて不眠不休で本を書き写す。当時福沢が所属していた塾では、珍しい原書がたまたま数日間だけ借りられたりすると、読むのではなく「一人が読み上げ、一人がそれを疲れ果てるまで書き続け、疲れきったらそれぞれ交代する」というやり方で昼夜を問わずに書き写し続け「いやあ読ませてもらいました。ヨカッタですよ」とかなんとかいって原書を持ち主に返すのだった。

当時の福沢諭吉の学問キチガイエピソードはすごいもので、体調を崩して枕を探したら家に枕がない、捨てたのかといえばなんのことはない、たんに毎度崩れ落ちるようにして本を読むまま机に倒れこんで寝ており、布団でなど寝たことがなかった、などと平気でいってのけるのである。しかも当時はそうした人間がいくらでもいたのだという(もちろん謙遜の可能性は否定できないが、あまり意味のない謙遜だからたぶんほんとだろう)。

当時はそうした自国以外の情報があまり手に入らない状況であるから、洋書を手に入れその科学をしるということはまた情報の価値が違っただろう。日本という国で自分以外知らないかもしれない情報が山ほどあるのだから。自分がなんとかかんとか読み込んだ物は今とは比べようがないほどの情報価値を持っていたし、そもそもそうした情報がなかなか手に入らなかった。いまは不眠不休で書き写さなくたって洋書なんかいくらでも手に入る。むしろ情報は溢れかえっており、情報に対する飢餓感などというものはほとんど感じないものだ。

まわりに食べるものがいくらでもあれば、無理にがっついて食べる必要がないのと同じように、知的探究心というやつもまわりに環境が整っていればそうそう欲求エネルギーに変わらないのであろう。まあそのわりに今日ふと駅のホームを見回していたら8割ぐらいの人間がうつむみてスマートフォンの画面を覗きこんでいて、これは情報に対する欲求じゃないのかという反論もすぐに浮かんでくる。ただなあ……これに関しては飢餓感から携帯(スマートフォン)をみているというよりかは、中毒患者のそれのように思える(それもまた飢餓感といえばそうだ)。

しかし1800年台前半から後半にかけてといえば知識レベルも今とそう大差ないレベルにまでいっているところも多くあるわけで、実際福沢諭吉らがほとんど初めてといってもいいぐらいにアメリカにわたって「馬が車をひいてるぞ!! なんだこれ!!」と驚いたり「うわあ絨毯がある!! まじで!!」と驚いたり超田舎者だが彼らもアメリカにヨーロッパ諸国をまわることと、夜も昼もなく知識を入れ続けるといった特殊な環境下にあった人々だったこともあるだろうが認識が世界最先端まですぐにおいついていく。

優雅にタバコを吸って科学談義をして月や火星にいるかもしれない生命の話をしながら日々を過ごす国民がいる一方で、自分たちの国に帰ればやれ刀をさしてないなんてしんじられないだとか攘夷だなんだ、責任をとって切腹しろだのといっているやつらがいるのだから当時の福沢諭吉のうんざり感がよく伝わってくる。現代人が突然江戸時代にタイムスリップしたらこんなことを思うだろうなあ、ということを当時既に福沢は味わっているのだ。だって刀をさして歩いてるんだよ、馬鹿丸出しだよね。

福沢諭吉という男は本当にすごかった、そして当時の状況と福沢諭吉らの先進性のズレはそのまま現代人と江戸時代のズレでもあるように感じられる。200年も前に生まれた男の人生記のようなものが今読んでもおもしろいのはそうした理由があるからだろう。混沌と革命の時代を生きた一人のアウトサイダー(これ、お札になっているような人間がアウトサイダー? と思うかもしれないが、読めばわかる)の冒険記。これはオススメだ。

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

マリアビートル (角川文庫) by 伊坂幸太郎

「あのさ」真莉亜がほとほと呆れた声を出した。「何がどうなっているのか分からないけどさ、どういう新幹線なの。トラブルばっかりじゃない。」

これは…………素晴らしかった!! いろんなところで偶然が左右し、プロット的にもサービスなのかなんなのか、おさまりが悪い部分がある。どうにも納得出来ないところだってある。といろいろ気に食わないところがあるにもかかわらず、そうした不満がすべてぶっ飛ぶぐらい楽しい。プロットのおさまりのわるさは人物と場面ごとのディティールの面白さで完全に消え去ってしまうし、偶然の要素が強すぎるのはその後に訪れる最高の場面によって帳消しどころかプラスになって返ってくる。

なんてったって、「殺し屋」が「新幹線」という密室に乗りあわせて、そいつらがお互いにお互いの目的のために潰し合う物語なのだ。狭い閉鎖環境下での殺し屋同士のバトル! リアリティなんかぜんぜんない! 理想を新幹線の中に詰め込んだ一冊で、緊迫感みなぎる、あらゆる場面がは極上のご褒美のようにさえ思える。エンターテイメント性という意味では、いままで読んだ伊坂幸太郎作品の中で最大級に楽しませてもらった!

あらすじについて

元殺し屋。人殺しをなんとも思わない、頭だけはよくまわり、自分の年齢を利用し他人をコントロールすることが生き甲斐の腐れ中学生。ベテランで妙なこだわりを持っている腕利きの殺し屋二人組。極端に運が悪く、さりとて追い詰められたときに飛ぶてんとう虫のように能力を突如発揮させる主人公気質な殺し屋、そしてその相棒でありおちゃらけた仲介屋である真莉亜。業界ではもっとも畏れられている裏稼業のドン。顔どころか性別、人数すらも知られていない「スズメバチ」という名の殺し屋──。

そんなやつらが一同に新幹線で介していて、しかもこれは新幹線からまったく出ずに進行する。そんなやつらが集まっているのにも、当然ながらそれなりの理由がある。全員が同じ理由で集まっているわけではない。二人組の殺し屋はドンの息子と身代金のトランクをドンに運ぶのが目的で新幹線に乗っている。運の悪い男とその相棒は、中身も経緯も知らずに金の入ったトランクを持ってとっとと新幹線からの脱出を狙っている。

中学生は元殺し屋を脅しつけ、自身の目的のために新幹線にのっている。スズメバチはなにもかも不明だ。乗っているのかどうかすら、実在しているのかどうかすらわからない。各々の思惑はまったくもって異なるが、一組が動けば別の組に影響を与え、その影響がどんどん雪だるま式にふくれあがっていき、問題はカオスへの一途をたどる。状況はどんどん複雑化し、こんがらがり、絶望的になっていくがそれと比例して生き残りの数も減っていく。

凝縮されたエンタメ性

相手の思惑も能力も目的もわからない密室環境下。この新幹線の中に「どんな危険なやつがいるのか」をまず知らなければいけないし、「なぜ」いるのかを思考する必要がある。それを把握したら自分の目的を有利にするための「騙し合い」「読み合い」がはじまり、いよいよ避けがたいとなれば「戦闘」がはじまり、そして最終的には生きて「脱出」するための脱出劇であり、ありとあらゆるエンターテイメントの要素が「新幹線」の中にぶちこまれている。

その少し前の時間、王子のいる七号車に来る手前でのことだ。五号車を出たところで檸檬が、「仙台まであと三十分しかないぜ」と腕時計を見た。デッキのところで立ち止まる。
「眼鏡君は、三十分もある、と言っていたけどな」蜜柑は言う。

同じ列車の中で、同じ時間を過ごしているのに、立場と目的が違えば時間の感覚も異なってくる。追う者、追われる物の立場はめまぐるしく入れ替わり、敵だと思っていた奴と共闘し、味方だと思っていたら狂い出し、目的はころころとうつりかわっていく。新幹線といえども時々はとまる。そのたびごとにあらたな殺し屋の登場、状況を一変させるような外部からの圧力が加わり、刻一刻と移り変わっていく状況が混沌を加速させていく。

まさに冒頭で引用した真莉亜の言葉通り、「トラブルばっかり」だ。それでも渦中にいる「プロフェッショナルな」殺し屋たちはまったく引くことなく自分の目的に突き進んでいく。その衝突が最高にエキサイティングなのだ!

プロフェッショナル同士の物語

僕は「プロフェッショナル」の物語が好きだ。素人でも考えつきそうなミスをおかして死んでいく殺し屋や、明白な弱点がありそこをつかれてやられていく奴らなんかみたくない。

僕はプロフェッショナル同士がぶつかりあう物語が大好きだ。どちらも最善の手を打ち続ける。お互いがお互いに考えうる最高の手を打って、ポカなどでどちらかが負けるようなことがあってはならない。それでこそ、両者が出会った時に、いったいどんなことが起こるのかという興奮につながるんだ。本作に出てくる殺し屋たちは慌てず騒がず、ピンチにあっても冷静さを崩すことはない。生き残りをかけて常に最善手を放ち、準備を怠らない。まさにその「プロフェッショナル」な殺し屋としての流儀をみせてくれる。

そして実際に殺し屋なんかを見たことがないからこそ、物語の中で殺し屋が出てくるんだったら、どんなことにこだわっているのか、どんなふうに準備するのか、どんなふうに予備の手を打っていくのか、逃走手段を用意するのか、そういった詳細な手順が読みたいのだ。そうした詳細な点をいかにして構築していくのか、といった点で伊坂幸太郎の人物造形にはいつも驚かされる。普通じゃ考えつかないような癖を描写してみせたりするのだ。でもそれが妙にありそうな癖のようにも思えて、うそ臭い人間が一挙に本物らしさを帯びる。

「蜜柑」と「檸檬」と果物の名前をもった二人組の殺し屋が特に素晴らしかった。もうこの二人のディティールだけで興奮がとまらない。檸檬はなんでも機関車トーマスにたとえて話す。機関車トーマスのことならなんでも知っている。『「蜜柑、前にも教えただろうが。ドナルドとダグラスは、双子の黒い蒸気機関車だ。丁寧な言葉で喋るんだぜ。おやおや、これはヘンリーではありませんか、とか言ってな。あの口調は好感が持てる。ぐっと来るよな」』

一方蜜柑は文学を愛する男だが、普段から引用の多い男だ。特に感情がたかぶってくると過去に読んだ名作から手当たり次第に引用をしはじめる。『「ウルフの、『灯台へ』に、スズメバチスプーンで殺したって文章が出てくる」「スプーンで? どうやったんだよ」「俺も毎回、読む度にその一文がきになるんだ。いったい、どうやって殺したんだろうな」』トーマス含めて、どちらもなんでもないような会話だ。でもこのやりとり、なかなか発想できそうにない、実に細かいところをついてくる。

この二人が暗号について交わすやりとりが素晴らしい。誰だっていつかは死ぬ、その時はヒントを残せ、という会話のあとのやりとりだ。

「分かった。もし、万が一俺が殺されそうになったらな、おまえにはちゃんとメッセージを残すように、努力する」
「犯人の名前を血で書く時は、ずばり、分かりやすく、書けよ。イニシャルとかなぞなぞみてえなやつじゃなくてな」
「血で書いたりはしない。そうだな、もし、その犯人と喋る余裕があったら、伝言を頼んでおく。というのはどうだ」蜜柑は少し考えた後に言った。
「伝言?」
「その犯人が気になるようなことを、言い残すんだ。たとえば、『檸檬に伝えてくれ。おまえの探していた鍵は、東京駅の荷物預かり所にある、と』とかな」
「俺は鍵なんて捜していない」
「なんでもいいんだ。その伝言を頼まれた奴が、興味を持ちそうなことを、言う。もしかするとそいつがいずれ、おまえに素知らぬ顔をして、こう言うかもしれない。『鍵を探していますか?』もしくは、東京駅の荷物預かり所に、ぶらりと現れるかもしれない」

もちろんこれは伏線のひとつである。それがどう機能するかはここには書かない。しかし本作にはそういう「もし万が一こうなったらこうしよう」あるいは「こうなってくれたらラッキーだからこうしよう」という殺し屋たちの細かい知恵がたくさん含まれている。たとえば狭い新幹線内だ。仮に追っかけあいになったときに、逃れる場所なんてトイレぐらいしかないと思うかもしれない。しかしその可能性を、傘を広げたり飲むかもしれないペットボトルに睡眠薬を入れたり、寝ている男の顔に雑誌をかぶせてみたり、足元に紐を張ってみたりとあらゆる手管で拡張しようと試みる。

実によく練りこまれていて楽しい。そういう意味で言うと、タイトルの元にもなっている運の悪いてんとう虫君がやはりこの「用意周到さ」でもトップだろう。運が悪い男だ。様々な不運が彼にはふりかかる。でもだからこそ彼は、自分の不運に備えて最善の準備をする。これは抽象論だけれども、プロほど確実、絶対安全な、失敗の少ない手段でやろうとするものだ。あらゆる不安要素があったらできるだけ潰しておく。アマチュアほど技巧にこったり、あるいは「予測される事態」への対処がおざなりになる。「長く続けられる人間」と「長く続けられない人間」の違いは、たぶんそうした地道なところにあるのだと思う。

まとめ

新幹線という密室環境下で繰り広げられる心理戦、推理合戦、殺し合い、騙し合い、脱出劇のエンタメ要素極盛小説である。プロフェッショナル同士の衝突は、どっちが勝つか、誰が目的を遂げるのかがまったくわからない不確実性に満ちていて、めちゃくちゃ刺激的だ。プロフェッショナルな殺し屋同士の物語という意味で、ジョジョ第五部を新幹線の中に凝縮させたような感じ。「え、殺し屋の話? ばかじゃないの?」なんて思わない人に対してなら、ちょっとこれ以上のエンタメ小説は思いつかないので、オススメいたします。

最高の効率で、最高の金儲けを『WORLD END ECONOMiCA』 by Spicy Tails

ぐあー最高に素晴らしい物語だった。終わった後の余韻も冷めやらずすぐさまこれを書いている。『WORLD END ECONOMiCA』は狼と香辛料などで知られる支倉凍砂氏シナリオによるサークルSpicy Tailsによる同人ゲーム(だけどAmazonで買える)で、月を舞台にした株取引の熱狂を書いたもの。第一部、第二部、第三部と一年おきに発表されて、その最初の発表から完結編が出るのを心待ちにしていたのだけど、つい先日完結したので一気にやったのだが……。

金融ドラマ

これがもう素晴らしいのなんのって! 株取引ちうのは、月にいかなくてもフィクションにすらしなくても、現実の取引からしてすでにドラマだ。世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち (文春文庫) - 基本読書 を詠むがいい。アメリカ国民が住宅バブルに沸き立って熱狂しているさなか、「これは絶対に破綻する」とマイナスの方に賭けた人間たちがいた。狂気の渦の中唯一理性的であった彼らでさえ「自分は頭のネジがはずれちまっているんじゃないのか?」「もしくは自分たちは知らない決定的な(破綻につながらない)情報を相手方は持っているのではないか?」とブルっている。

みんなが「Aだ!」といっている中ほとんど唯一「いや、Bなんだ!」と強行に主張しなければならないのだ。参加者は全員身銭を切っており、その中で情報をやりとりし、政権の動きや不正の発覚などで一瞬で値が上下する。それを見越して稼ぐ人間もいれば、一瞬で信じられないぐらいの金を失ってしまう人間もいる。金=生命だなどというつもりはないけれど、金を理不尽に失われるのは身を切られるように痛いし、実際に破産なんてなったら殺されはしないかもしれないが持ち物はパーだ。そして確実な値動きは誰にも予測できない。

だからこそ値の動きはドラマチックなものになるし、そこで賭けをはる人間だって「絶対勝つ方法」がない以上そこには伸るか反るかといった「決断」が常に絡んでくる。株取引なんて単なる数字を右から左へ動かして利ざやを稼ぐなんとも悪党商売のようだが、その過程には実に人間らしい苦悩があって、それがドラマを創る。株取引は、身を切るような決断の連続なのだ。

大雑把なあらすじ?

大雑把にいえば物語の第一部は、一人の少年が「株取引の罠」に陥っていく話だ。いわずもながだが、そこでは金が賭けられている。自分一人の金だったら、仮に全部失ったとしても無一文になるだけだ。でもそこに他人のお金までが載ってくるとしたら、自分の決断がひとつ間違えただけで多くの人間を露頭に迷わせることになるかもしれない。個人が取引をする上でも、そこには決断の連続があって、ようは第一部は「個人投資家」のドラマなのだ。

目の前の相場でどう賭けるのか。そこには確実な予測などたてられないが、でもだからこそ「絶対安全な情報」とされているものが目の前にぶらさげられるとしっぽをふってついていってしまう。そうした心理的な罠、人の金を預かるというプレッシャー、金を失うとはどういうことなのかといった実感していく部になっている。

すごいな、とおもったのが月面の描写。軌道エレベータがあり、これを基軸として月に都市ができ月産まれ月育ちの生粋の月市民が生まれるまでになっている。で、株取引の話だったら別に月である必要なくないか? SFである必要もないし、と短絡的に思ってしまうがその後の展開で月で株取引をやるという突飛な設定になった利点が数々と出てきて、ようは「現在ではもはや考えられないような規模の投資が起こる状況」設定として「月」が重要になってくる。

物語上のネタバレになってくるので多くは明かさないが、軌道エレベータがある世界での月の描写、月の電力問題、土地の問題と、月であるからこそ発生するギミックがいくつも存在していて、もうどっからどうみても「SF」だ。そしてなんといっても月面都市とそのバックに浮かぶ地球のCGは凝っていてたいへん素晴らしい。SFはやっぱり絵だねえ。このCGを一枚みるだけで、もうその世界がぶわっと頭に浮かんでくるものだ。

第二部は取引の落とし穴を身をもって体験した主人公=ハルが、今度はマクロな視点で物事を捉えていく物語になる。投資家の物語から、企業の物語へ。株価は人々の期待を反映したものだが、実際にはその中身をみて決められているというよりかは、名前が出ているもの、有名なもの、アナリストが推薦するもの、そうした文字通り「期待」だけを煽って集められるものもある。ようは実質的な企業の資産価値にたいして株価が高すぎる場合が往々にしてある。

物語はそうした虚飾織り交ぜられた「月金融の裏側」に迫っていくものになる。テーマはたぶん「取り返せないものを、取り返す。」

第三部では個人投資家としての痛みを知り、マクロな企業活動の虚飾も知ったハルがより一段と大きな問題へと突っ込んでいく。文字通り「世界の終わり」を賭けに使った大舞台、今までの経験と、今まで失って、同時に得てきたものがここで炸裂する。タイトルの伏線もここにきてついに回収され伏線回収の大盤振る舞いである。ああ、成長したハルと、その周りの人間達、そして戦える手持ちの金が増えてデカい賭けにのめり込んでいく様が、ほんとうにかっこいい。

金融の物語はこれだからやめられない。規模がデカくなり桁が違ってくると、そこにはもう人間の狂気とか思惑を超えたものがみえてくる。極端なことをいえば、1000兆円あれば国が創れるのだ。⇒羽月莉音の帝国 - 基本読書 できることも変わり、またそれだけ起こる危機の質、対処できる問題のデカさも変わってくる。強すぎる力を持った人間が、その力を持っていない人間とくらべて大きな責任を感じざるをえないように、金も同じ「責任」を持ち主に押し付けてくる。

金融工学

本作には数々の具体的な金融工学による手法や、詐欺的な手法、破綻の仕方が出てくるがそのほとんどが現実に同様の事が起こっている。有名なのはサブプライムローンによる世界金融危機だが本作でも同じような揉め事が起こる。用語も一貫して現実とリンクしているので、ついに第三部では用語の意味がポップアップしてくるようになったので経済の勉強にもなるだろう。

ただ問題はこれが「未来」の話なのに出てくる金融工学のレベルが現実とさほど変わらないところだが……。かといって「未来に起こりうる金融工学の手法」なんてものをリアリティをもって描き出せたらそれは「それを現実で使って稼げよ」という話なので仕方がない(もっとも僕が勘違いしているだけで、本作で用いられているものはずいぶん違うものかもしれないけれども)。

まとめ

書いていなかったがキャラクタが誰も彼も魅力的だ。月並みの言葉だけど「信念」をもって描かれるキャラクタは男でも女でもかっこよく見える。「投資家」であることを第一義におき、最高の効率で、最高の金儲けを企てる理性の塊のようキャラクタは、やはりその合理性がとてつもなくかっこいい。はたまた一方で「自分のやりたいことを、やりたいようにやる」という信念にのっとって、と数学的な能力に賭けて物事を決断していく女の子もやはり最高にかっこいい。みなそれぞれに自分の信念と戦いがあって、それが男も女も魅力的にしている。

本作は金融世界での冒険譚であり、少年の成長譚でもある。金融ねー、人間の業や感情がうずまき、一瞬の決断が生死を分ける、ほんとに面白い題材だよなー。それでいて本質的に「絶対に儲かる」ことがいえない以上ギャンブルの要素までもっていて、おもしろくないわけがない。それがどういうことかといえば、結局のところ「人間ドラマ」なんだよね。不確実な状況の中で、いったいどんな決断をするのかといったところに、人間の本質が現れるからだ。

途中でちょっと出した至道流星さんの作品も珍しくライトノベルで経済をがっつり語るものだけど、それが現行の経済システムや政治システムがどうなっていてどんな抜け道が考えられるのかを重点に考えられている一方で、本作を中心とした支倉さんのシナリオはそうした経済の中における人間の感情の動きを描く。

プレイ時間は一部につき6時間ほどで、三部やればつまるところ18時間ぐらいだろう。長すぎず、短すぎず。長すぎるノベルゲームが多い中、ちょうどいい塩梅なのではなかろうか。土日を費やせば終わるような量だ。完結したのだから、一気にやることをオススメする(それぐらい各部の引きが強い)。

本当に素晴らしい物語だった。それにちゃんとSFだしね。設定の穴なんてどうでもいんですよ。さいきんラノベ系の作家を次々と引き込んでいるハヤカワ文庫などは一刻も早く支倉凍砂氏にオファーを出すべきだと思った(もうとっくに出ているかもしれないが)。

ちなみに、エピソード三にはすべてのエピソードが入っています。 追記。現在完結記念でエピソード1が無料だそうです。探してみてね。さらに追記。2014年12月10日に電撃文庫からノベル版が出たようです。書き足しなんかもあるみたいじゃよ。

WORLD END ECONOMiCA (1) (電撃文庫)

WORLD END ECONOMiCA (1) (電撃文庫)

謎の独立国家ソマリランド by 高野秀行

これはもうちょーーーー面白くて読んでいる間何度もげらげら笑い、驚き、そして最後には笑いながら泣いた。無政府状態が続き海賊が跋扈し「リアル北斗の拳」状態と噂されている崩壊国家の北に、十数年も平和を維持しさらには「まっとうな」民主主義を行なっている奇跡的な国がある。その名をソマリランドという。しかし国際社会では国として認められていない。ソマリア内でも、その独立をまったく認めていない人間、怒っている人間、認めている人間と雑多極まりない。

わざわざ「まっとうな」民主主義と書いたのは、実際民主主義制度にしたがって選挙を行なっているように見える国でも、その内情は不安定であり、まったくシステムとして機能していないことがありえるからだ。先のエジプトで軍が実質的なクーデタを起こしたように、気に入らねー大統領がいて、気に入らねー政策が実施されそうになったら選挙を待たずに「引きずり下ろす」ことが当たり前とかしている国の民主主義は、形だけ同じでも「まっとう」とはいえまい。

ソマリランドはまこと正しい意味でまっとうな民主主義国家であるようにみえる。そうした不思議国家ソマリランドに著者は取材を敢行し、現地に密着することでその国の「肌触り」みたいなところまで文章に起こそうとする。その体験記がもう、楽しくて楽しくて。思わず氏の他の著作を買い集めてしまったぐらいだ。どれもおもしろいが、やはり本書が技の冴えも、取材先のとんでもさも群を抜いていると感じる。

ソマリランドではカートと呼ばれる麻薬のようなものがあるのだがこれに浸りきりになったり、平和なソマリランドだけでなく危険な南部ソマリアにいって銃火をくぐりぬけたり、海賊国家プントランドにいって自分が海賊を雇い日本の船の航路をゲットしていくら利益が出る……というような見積もりを始めたりする。

難民キャンプにいってみればガイドに金をちょろまかされ、追求してみれば捨て台詞として「タカノ、いいか、俺には俺のやるべきことが何かわかっているからな」と残される。「あれは”お前を殺す”って意味よ」とまりあんがまた耳元でささやいた。「わかってる」と答えるしか無い。 プントランドでは銃声がひっきりなしに聞こえ、著者が注意を向けると護衛の兵士が「心配するな。ガルカイヨ・ミュージックだ」と笑うなど、なんて恐ろしい世界だ。絶対に自分で行く気分にはならない。しかし人の体験談として聞くと面白い。

行ってみなければわからないようなその国の内情に満ちているのも楽しいところだ。たとえば海賊国家プントランドでは、身代金が支払われると現地の人間にはすぐにわかるという。それというのも海賊は身代金をもらったことなど公言しないが、海賊はそれをシリングに両替するため、ドルレートが一気に下がる。だからレートが下がると現地の人は「あー身代金が支払われたんだな」とわかる。

海賊の雇い方もかなりパターン化されているようで見積もりもかなり簡単に出せる。必要なのはざっと海賊街での根回し経費、ボード代と海賊の日当、アタック期間中の諸経費、武器レンタル代。ここまでで合計400万ぐらい。それから成功報酬として通訳代(身代金交渉の為)が8%、協力者への支払いが500万円、現地の有力者への取り分が全体の40%。身代金として1億円儲かるのならばざっと粗利で4000万円以上でることになる。

身代金の引き渡し方や身代金の額は「船の大きさ、人の数、オーナの国籍」ではなく「積荷の種類(ベストは石油、洋服とか食器とか日用品はカネにならない)」であるとか、そうした細かいところの話が面白いではないか。人や国籍じゃないんだね。まあたしかに洋服なんかいくら奪われたってそう大した損失にもならないだろうが……。とまあこれぐらいパターン化されて情報が出てくる、それぐらい海賊業が一般化しているのだ。

問題は船の積荷やルートを確認するすべがないことだが、著者は日本で関係者に情報を横流ししてもらえばその問題も解決すると考える。驚いたのは、僕は著者がこれを純然たる取材の為に見積もりを出しているだけだと思っていたのだが、文章だけ読むと本気でこの海賊行為を働こうとしていたようにみえるところだ。まあ著者流のギャグだろうが読んでいてびっくりしたのは確か。

この晩は興奮でほとんど眠れなかった。俺はものすごいチャンスを掴んだのだという興奮だった。だが、カートの効き目が薄れるにつれ、テンションは下がっていった。冷静になってしまうからだ。
 どうしても引っかかるのは、この映像取材が海賊行為そのままだということだった。

カートをやっているとそんなこともわからなくなるのか!! と驚愕だがカートはどれだけ嗜んでも酒や他の麻薬とは違って明晰さは失われないらしく、よって車の運転中でももりもりやるという。本当に大丈夫なのか、カート。でもしょっちゅう著者がカートをやる場面が出てくるので、自分も是非いつかやってみたいものだと考えるようになってきてしまった……。

現場のリアリティ

危険過ぎる場所のレポが面白いのと、現地にいってしかわからない情報が面白いと書いた。テレビから伝わってくる情報だけではわからないことだらけなのは言うまでもないが、実際に自分でいって触れ合うわけにもいかないのでそうした体験記は貴重である。映像をとるマスコミは基本的にはわかりやすく伝えるために、既に人が持っている先入観を利用するからなおのことだ。難民=つらい=悲惨=やせこけているみたいな。

実際にはそこまでやせこけた人間はいなかったり、そもそも難民はひと目で難民とわからなかったり、カメラを向けると笑顔を返してくれたりすることが多いという。背中一面が爆弾が炸裂して真っ赤に焼けただれている子どもを背負っているにも関わらず母親がうれしそうに微笑んでいる写真もあるという。ようするに、こちらとは感覚がまったく異なるのだ、当たり前だが。

著者は難民が悲惨な状況から逃れてきて、ようやくたどり着いた「安全地帯」にいるから、そしてそこにいるカメラをかまえている外国人は、自分たちを助けてくれる人と認識するからこそみんな笑顔を向けるのではないかと考える。まあ、実際どうなのかはわからない。わからないが、そんな状況でも笑顔を見せるのが「現場のリアリティ」というものなのだろう。

本書には学術的なまとめや、ある事象に対する科学的な検証などはみられないが、まさにここまで簡単に述べたような「現場のリアリティ」に満ちている。高野秀行という作家は、この本を読んだあと片っ端から読み漁った結果わかったことだが、徹底的にエピソードの人なのだ。現場にいって、現地の人と深く交わって、そしてそこで起こったこと、見たこと、聞いたことを、面白おかしく文章に仕立て上げる。

彼の凄いところは徹底的に深く交わるところ、その為に言語を覚え、伝統に溶け込み、なんでも一緒にやるところ。そしてぎらぎらと目を光らせて(読んでいる時のイメージ)自身の持っている「テーマ」に沿った情報をあちこちから引き出そうとする、その異質な行動力と、普通人が見ないところに目を向ける「視野」と、高野秀行にしか出せない「文体」が彼の作品にしかない魅力を与えている。

そのあたりはぜひ本書を読んで確認してもらうとして……何よりよかったのはソマリの人間との交流だった。著者自身がカートをガシガシ食いながら交流をはかっていっただけあって、実に様々なソマリ人が出てくる。国とは制度であり、制度は伝統から産まれ、伝統は人間から産まれるんだなあと、ソマリの人間と著者とのやり取りをみていてよく感じた。とんでもな人間たちだが、とんでもなく魅力的だ。

いつか行ってみたい。そしてカートを食べてみたい。 ちなみにこっちもおすすめ⇒ダーク・スター・サファリ ―― カイロからケープタウンへ、アフリカ縦断の旅 - 基本読書

謎の独立国家ソマリランド

謎の独立国家ソマリランド

メディア × 政治『大日本サムライガール』 by 至道流星

かつてマクロス河森正治監督はインタビューの中で異質なもの同士を掛け合わせることで、未知のものが生まれていくと語った。⇒空を「青以外」で塗らせるのは意外に難しい:日経ビジネスオンライン また有名な『アイデアのつくり方』という本ではアイデア作りの基礎として次の2つをあげている。一つは『アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ』であるということ。二つ目は『既存の要素を新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性をみつけ出す才能に依存するところが大きい』ということ。 ⇒ アイデアのつくり方 - 基本読書

大日本サムライガールは小説家至道流星による小説作品である。まだ完結していないので心苦しい。しかし傑作なので紹介しよう。

その題材はびっくりするようなもので、右翼で日本の独裁政治かを目指す女子高生が、政界に打って出るための手段として「アイドル」としてデビューし、その覇道をゆくというものだ。決して「アイドルとして知名度を得たから政治でもやってみるか」というようなおまけ的な要素ではなく、あるいは何の根拠もなくアイドルが政治をやらせたら面白いんじゃない? という思いつき的な組み合わせで選ばれたわけでもない。

政治家となり、国を変えるために、その為の最短のルートとして「アイドルになる」という必然性がこのシリーズの肝だ。そしてそれを書くのは 羽月莉音の帝国 - 基本読書 を書いた至道流星羽月莉音の帝国はもう大傑作で、こんなもん書いちゃって残りの作家人生どうすんの!? これを超えられんの!? というようなシリーズなのだけど、大日本サムライガールはまたまったく別ベクトルで傑作なので驚いた。

一見突飛なアイドル×政治というのがアイデアのつくり方における原則その1だとしたら、その組み合わせにおける合理性こそがアイデアのつくり方における原則その2だ。もっともこのシリーズの場合、記事タイトルにつけたように描き出していくのは「アイドル」ではなく現実の世界を動かしている「メディア」である。メディアがどのように馬鹿な大衆を扇動し、コントロールし、莫大な利益と力を生み出していくのかが物語の核になる。

あらすじ

物語は冒頭、凄まじい美少女である神楽日毬が防衛省の正門入口付近にて「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。有権者諸君、我が国は今、大きく舵を切るべき瞬間を迎えている。日本が取れる指針はもはや少なく、残された時間には猶予もない。それ故、真に国家を愛する私──神楽日毬は、日本の独裁者となり国家を正すことに魂を尽くす所存である」と拡声器片手に声をはりあげているところに遭遇する。

当然だれも関わりあいになるはずがなく、彼女が自分でつくった政党に参加している人間もいなければ主張に賛同してくれる人間も居ない。そこに通りかかるのが日本最大の広告代理店である蒼通の社員二人……蒼通というか電通なので、今後は電通と表記する。そしてひょんなことから電通の二人と独裁者を目指す日毬はかかわりあうことになっていくのだが……その論理がこの物語の肝だ。

メディア×政治

さっきも書いたように本書を付き動かしていく核は「メディア」と「政治」だ。物語の冒頭で電通マンで主人公の男はこうやって「政治家にとって、最も重要で効果的な仕事とは何か」と日毬に問い、彼女は「それはもちろん、自分の政策を実行することではないのか?」と答える。それへの返答がこれだ。

「違う。本質は実に簡単で単純だ。いかにマスメディアに取り上げられるかがすべてなんだよ。それが彼らの最大の関心事で、唯一無二の政治的な仕事なんだ。メディアに露出している政治家の方が有能だという錯覚を多くの人が持つから、献金だって集めやすい。いや、もっとハッキリ言えば、政治活動とは、対マスコミ向けのアピールのことを指している。中身なんて関係ないんだ」 〜中略〜
「メディアの露出していない政治家なんて、存在していないのと同じこと。民衆は誰も気づかない。心底バカげてると思うが、一人一票の民主主義である限り、この構造は変わらないだろう。おそらく、永遠に」

そもそも知らなければ投票しようがないし、熱心に政策を読んであの人に投票しようなんて層は極僅かでしかない。ネットの意見ですらほとんど意味が無い。日本人口からいえばネットの意見なんか影響力が皆無といっていいほどのパーセンテージしか占めていない。テレビの影響が1000万単位の人間に届くとしたら雑誌はせいぜい10万、ネットの情報を熱心に収集する層はその半分ぐらいだろう。

殆どの日本人はテレビなどのマスコミを通して影響を受け、自身の行動を決定する。つまり、民主主義とはテレビなのだ。というのがこのシリーズの基本骨子だ。だからこそ神楽日毬は自分の独裁政権を築きあげるためにメディアの世界──まずは自分の容姿を利用した地道なアイドル活動に打って出ることになる。

右翼アイドルは行き過ぎに思うかもしれない。基本政策は核を持ちアメリカとの同盟をいったん対等なものにしきりなおし保証などはすべて一括してベーシックインカムにするなど鋭すぎるものも多くとても多くの人間が受け入れられるものではない。しかし主人公は政治的に中道の思想を持っていることが最初から明かされているのでバランスよく読める(後ほど中道寄りの左翼アイドルも参加する)

メディアの描き方

地道なアイドル活動も読んでいて楽しい。最初は当然知名度がないから交通費がでないようなレベルの地道な雑誌の仕事を受注して、地道に地道に名前をうっていくしない。たまに声がかかればマイナなテレビにちょい役で出してもらったり、といった経験を通じてレベルアップしていくが、大半のアイドルはそんなレベルに達しない。本作はヒロインが最右翼かつ主人公が元電通マン(物語冒頭でアイドルプロダクション社長に転職)のぶっ飛び具合なのであっという間だが、次第に所属するアイドルも増え、そうした地道な出世も書かれていく。

しかし──アイドルというのはメディアの力の一面に過ぎない。本作が描き出していくのは、メディアがいかにして大衆を操り、力を持っているのかだ。メディア間のヒエラルキー、大衆がどのように反応するのかというのは『羽月莉音の帝国』でも書かれていたが、あくまでもサブテーマの一つといった扱いだった。このシリーズではそれを真っ向から書く。なんといっても主人公は電通だし、何度も電通と協力してことにあたるのでその辺の描写がおもしろい。

たとえば3巻ではアイドルとしてひとまずナンバーワンの知名度を得た日毬を武器に、アパレルのブランドビジネスを仕掛ける。一流どころの洋服デザイナーを雇い、そのデザイナーがデザインした服を日毬がデザインしたといってブランドを立ち上げ、売るのだ。資宝堂(以下資生堂表記)、電通、それからひまりプロダクションに、2巻でひまりプロダクションが過半の株式を取得してほぼ取り込んだ製造工場を使ってビジネスを立ち上げていく。

順調にデザイナはデザインをあげて、お店もオープン。しかし最初は何一つ宣伝しない。

「これはこれでいいの。のっけから芸能人を起用し、大々的に告知して、盛り上げに盛り上げて事業をスタートするなんて三流も三流よ。素人さんたちが考えそうなこと。正直そういうのはね、もう顧客に見飽きられてるの。私たちはプロだから、任せといてよ」

そうだったのか! 僕は超ド素人なのでそうやってやるんだと思っていた。というかこれも別に小説なのでフィクションなんだけど。もっともそういうやり方も、テレビの主要な視聴者である低IQ層(こういう言い方は本シリーズで何度も出てくる)の広いところを狙うならばそれでもいいが、流行るだけ流行ったらあっという間に忘れ去られてしまう。ブランドを確立するための事業の起こし方がここからは実践される。

で、面白いのが火の付け方なんだよね。最初はこっそりはじめる。サクラと気づいていないサクラを雇って、自然に盛り上がっているところを演出する。モニター調査と称して自分のお金で最近オープンした謎の店で服を自腹で買ってもらい、後でその分の費用を伊勢丹の商品券で払う。アンケートに答えればさらにお金がもらえる。しかし服もアンケートも1日1回だけ。友達も自由に読んで良い。なのでみんなこぞって毎日買いに行くし、演技をするわけでもなく自分の好きなものを選ぶから自然と盛り上がる。

盛り上がってきたところで日毬が実はデザイナだと知らせるパンフレットを置き始め、自然と「いま話題のあの店は、実はアイドルである日毬がデザイナだった!」とメディアが勝手に騒ぎ立てるようになる。ウマく行きすぎだがこれは別に実話ではない。実話ではないがマーケティングやそうした一つ一つの手法が実に面白く、しかも全て「アイドルとしての知名度をあげる」「活動資金を得る」「プロダクションもついでに大いに儲かる」と物語の盛り上がりに繋がっている。

政治×メディア

メディアの話ばかりしてきたけど、政治の話もきっかりやっている。しかしメディアの力を利用して政治に切り込むとはいっても、そうそう変えられるものでもない。日毬はなにしろ立候補すらできない。主張は突飛すぎ、冷静な人間なら誰もが戸惑うような内容だ。利権も複雑に絡んできてスムーズにいくとはとても思えない。小説としてそこをホンキでやろうと思ったら、ぐだぐだになるか荒唐無稽な内容になるかの二者択一になるのではないか。

実際4巻5巻と政治的な内容をついに積極的に語り出したが、その進みは遅い。政治家と有権者の相互作用を目的としたウェブサイト制作や、日毬に好意的な記者たちを集めた内輪の記者クラブ、日毬を中心に据えた政治討論番組のスタートなど、有効な手はうっているものの決定打ではない。ポイントを押さえてメディアを動かせば、世の中は意外と簡単に動くというのは本シリーズというか至道流星作品の中心原理だ。問題はどれだけそれを説得力をもってやることができるか。

普通に考えれば途中でそれなりのオチをつけて終わりにしてしまうこともありそうだが、羽月莉音の帝国でたったの10巻で無一文から国家を建設させてみせた至道流星なら、本当にこの右翼アイドルが日本の独裁総理になるストーリーを、説得力を持って書きだして見せてくれるはず。

そうそう、メディアでタレントを売り出すにはイメージ戦略が大事だが(インテリタレントとして売り出したいのならゴーストライターを使ってそれっぽいビジネス本を何冊も出していくとか)そのためには徹底したイメージコントロールが必要になる。

そうしたイメージの演出を著者自身もしていて、あとがきや経歴だけ読んでいると何一つ具体的な情報がないにも関わらず「なんだか世界中の経済をまたにかけて常日頃から何十億もの取引をしている大物」のイメージが湧いてくるし、いうことも無茶苦茶だ。

 さまざまな小説を執筆して参りましたが、とりわけ本シリーズには、かつてない本気で取り組んでいます。版元である星海社から、いずれ国会に何人も送り込むくらいの腹づもりです。私に対するあらゆる政治的抗議活動は、すべて逆効果になると思って貰いたい。
 日本を変える──その想いは、読者と共有できるはず。最後まで描ききれるよう、万難を排して臨むつもりです。どうぞよろしくお願いいたします。  あとがきより引用

わお、かっこいいが意味がわからない! なんにせよ今最も期待しているシリーズだ。

大日本サムライガール 1 (星海社FICTIONS)

大日本サムライガール 1 (星海社FICTIONS)

大日本サムライガール 2 (星海社FICTIONS)

大日本サムライガール 2 (星海社FICTIONS)

大日本サムライガール 3 (星海社FICTIONS)

大日本サムライガール 3 (星海社FICTIONS)

大日本サムライガール 4 (星海社FICTIONS)

大日本サムライガール 4 (星海社FICTIONS)

大日本サムライガール 5 (星海社FICTIONS)

大日本サムライガール 5 (星海社FICTIONS)

マージナル・オペレーション

これは予想外の出会い。日本の30歳ニート民間軍事会社に入ってその才能を開花させるという一文ぐらいの情報は知っていてどこかのタイミングで読みたいと思っていた。いっぽう、それは飛び道具すぎないか? というのと主人公が強い系のライトノベルの流れを民間軍事会社へ当て込むことへの難しさも想像したりして、「まあそんなにうまくはいってないだろうなあ」と優先順位は低く、なんとなく買ってまで読む気にならなかったのだが……(あと星海社の本は高いんだよ……。場所もとるから最初から文庫で出すか早く電子書籍で出してほしい)

いやあ予想は完全に外れだ。こういうのは読書という行為における一番嬉しい誤算である。最近お金を無駄遣いして困っているので本屋で立ち読みして面白いかどうか保険をかけるという学生時代以来の姑息な手段に出たが、面白すぎてそのまま読みきってしまった(その後ちゃんと買いました)ちなみに物語としては先日四作目が出て、次に五作目が出たら完結らしい。読むタイミングとしてはまあそう悪くもない。五作目がだいぶ待ち遠しいだろうが、そんなに遠い未来でもない(今年の11月だ)。

物の見事に30歳ニートのオペレータとしての異能さの演出、そして民間軍事会社が必要とされる政治、軍事状況、武器の調達方法、作戦の進行、各国の状況、文章上の演出など、どれも十全に書いていて、どこを取り上げても絶賛しかない。ほんとに驚いてしまったよ。ステージからしてばらばらで一作目は中央アジア、二作目は日本、三作目はタイ、四作目はミャンマーとよくそこまで移動できて、それぞれの国を書けるものだ。

すべてを理屈で割り切ってやる! というような執念すら感じさせる緻密さ、論理的構造でその点も非常に興味深い。そこにういてここからちょっと書いていこう。

ガジェットについて

舞台は2020年〜2022年ぐらいのお話ということでガジェットなどは未来的なものが採用されているんだけど。兵の視点や敵の資源情報、こちらの位置情報などを一律にタブレットで管理し指示が出せるような情報取得手段など。そうした道具立てのおかげで本作の主人公のようなオペレーションだけを担当する役割が活躍するようになっている。知らないだけで似たようなものはすでにあるのかもしれないが。

主人公について

30歳の元広告デザイン会社に勤めていたが倒産したニート(専門学校卒)というわりとどうしようもない男が年収600万に惹かれて民間軍事会社に就職する。ずっと彼の一人称語りで話が進んでいくが、これが最初はとんでもなく淡々としている。現実に、目の前で起こったことを淡々と1つずつ受け入れ、解析し、自分の道を作っていくといった感じで、感情的な部分の挟まるところがほとんどない。

そしてその行動がすごく理屈で割りきれている。問題を列挙してみせて、コストと便益を比較し、より優れている案を採用する。そしてそれを全部一気にやるわけではなく、一つ一つ着実にこなしていく。記憶力がよいだけが取り柄だったと主人公は自分を何度も何度も回想し、それ以外は普通かそれ以下の人間であると繰り返すが、状況を常に鳥のように俯瞰しながら手を打っていく様は異能そのものだ。

日本で平和に暮らしていた男が突然民間軍事会社で活躍できるわけ無いだろ、っていう大前提を「オペレーションだけの職務」をつくり、さらにそうした冷静に俯瞰視点で物事をひとつひとつ着実に処理できる理屈で割り切れた男を主人公に据えることでそうした「フィクションっぽさ」を消しているといえるだろう。それを反映させるように文体は最初、味も素っ気もない。

それは主人公がそうした俯瞰視点を持っているそもそもの理由でもあると思うが、他人と自分とを切り離して考える、自分の主観といったことをほぼ廃して目標をたて状況をそこへ向けてコントロールしていくその能力に起因している。戦闘では利点ではあるものの、そのおかげで地面を這いつくばっている=自分一人の主観から逃れられない キャラクターたちとの間のコミュニケーションがうまくいかない(まあライトノベル風にいえば鈍感主人公といったところか)理由付けになっている。

ただ──いつまでもそういう俯瞰視点から物事をみているだけではいられない。民間軍事会社に就職し、その後いろいろあって子どもたちを戦場ビジネスから抜けださせるために戦場に送り出すという「子ども使い」としてその立場をつくりあげていく主人公だが、子どもたちや周囲の人間とのかかわり合いの中で地面にまで彼が降りつつある。それが彼の能力を失わせることになるのか、はたまた自由自在に視点を切り替えられるようになるのかは五巻の展開次第だろうか……。

主人公の変化に伴って文体が変化していくのも面白い。最初は無機質だった感じ方がだんだんくずれてくるところとか、主人公が英語がうまくなるにつれてI thinkが減っていくところとか(基本は日本での話ではないので会話はすべて英語で行われている。なんでも最初会話文は英語で書いた後日本語に翻訳しているらしい。)

異常なディティール

そもそも民間軍事会社なんてものが書けるものだろうか。参考資料なんかはあるにしても、実際にそれをフィクション、物語として成立させ同時にリアリティを担保することなんて無理なのではなかろうか。と最初に思っていたわけだけど前述の通りいくつかのフィクションの導入によってそれは可能になっている。とすると次の問題はどうやって実際の状況を臨場感たっぷりに書くかだが……。

ここでまた驚く。異常に細かいところが描かれていて、そのどれもが本当っぽい。耳をエルフ型に改造してその手術代が払えなくて逃げてきたアメリカ人の女性とか、凄まじく嘘っぽいがいてもおかしくなさそうだ。タイで武器を調達するときに警察署にいって押収された武器を金でやすやすとゆずってもらうところとか、どこで調べてきたんだ。

それだけでなくメインのストーリーラインになっている少年少女を使った兵が生まれてしまう状況というのも、政治的な問題や経済状況をからめて描いていて切実なものになっている。一巻や二巻はどちらかというと巻き込まれ型だが、三巻や四巻は特に主人公一行が金を稼ぐ手段としてそうした政治・経済状況に自分たちから乗り込んでいくので特にそうした「国ごとの状況の違い」が面白い。

性的な虐待や、単にコストが安いからという理由で弾避け、地雷の試しに使われるなど実態は反吐が出るほどひどいものばかりで、真正面から書くには重たいテーマだ。しかも本作は少年少女をそうした状況から、自前の大人たちを使って解放するヒーローではなく少年少女たちを戦いの中に突き落として状況を打開しようとするある意味矛盾した状況下におかれる。

少年少女たちをそうした状況から解放するためには金がなければならない。金がなければ民間軍事会社で傭兵をやるよりもっとひどい状況におかれるような存在ばかり。かといってその金を稼ぐ手段(日本にいて国籍があるならばことは簡単だが、そうでない場合)が本作では戦闘に限定されてしまっている(本当にこの手段しかないのかというのは疑問だが)。

一歩ずついい状況を奪い取っていくだけです

「ファンタジーが現実を壊すでしたっけ。いえ。全然。僕が思ったのはですね、ランソン。現実の壁はとても厚くて、素人考えですぐに変わるなら誰も苦労しないってことです」
「そうかね」
「そうです。だから少しでもマシな方向になるように、一歩ずついい状況を奪い取っていくだけです」

本シリーズの3巻で行われたやり取りだが、本作の方向性をよく示している。少しでもマシな方向になるように、一歩ずついい状況を奪い取っていく。それは主に彼が抱えている少年少女兵たちの話だ。理想的には殺し殺されから足を洗い、自分たちの望む人生を手に入れさせてやりたい。しかしそのためには金がない。

金を稼ぐためには仕事を得なければならない。営業をして、情報を得て、できるだけわりのいい、自分たちに得のなるような仕事をしていく。大所帯を養うためには食事の補給や基地、補給経路に装備の確保が必要だ。そして邪魔をされない周囲の政治状況の最低限なコントロール。利用されて最終的に切り捨てられないだけの立場の確保。そうして教育を施し、子どもたちを野に放っていく。

少年少女たちを使って民間軍事会社をやり、できる限り損害を出さないようにして子どもたちを卒業させる「仕組み」をつくりあげる。考えなければいけないことは多岐にわたりる。途方もない夢物語、フィクションでしか無い。でもそれが現実にありえるとしたらどういう手段、理屈の上にそれが成り立つのかといったことを、本作は信じられないぐらい緻密に書いていると思う。わくわくするような偉業だ。

マージナル・オペレーション 01 (星海社FICTIONS)

マージナル・オペレーション 01 (星海社FICTIONS)

マージナル・オペレーション 02 (星海社FICTIONS)

マージナル・オペレーション 02 (星海社FICTIONS)

マージナル・オペレーション 03 (星海社FICTIONS)

マージナル・オペレーション 03 (星海社FICTIONS)

マージナル・オペレーション 04 (星海社FICTIONS)

マージナル・オペレーション 04 (星海社FICTIONS)

マージナル・オペレーション 05 (星海社FICTIONS)

マージナル・オペレーション 05 (星海社FICTIONS)

ルワンダ中央銀行総裁日記 (中公新書)

初出は1972年で、増補版が2009年に出ている名著なのだが、いまさら読んだ。そして、めちゃくちゃ面白い! 日銀に長らく努めていた服部さんがアフリカ中央の小国ルワンダ中央銀行総裁にODAの一環で送られたあとの6年間が語られているのだが、日銀で培った経済的知識を、そうした知識をまったくもたないルワンダに適用し、ぼろぼろだった財政、物資も何もなかった残念な状態から見事国を立て直していく。

「ああ、経済って、本当に人の役に立つんだなあ。そしていまの状況はそうした経済的前提の上に成り立っているんだなあ。」と心底実感させてくれる内容でとにかく凄まじい。ろくに働かず好き勝手帰ってしまい、誰一人として経済に関する学問的知識をもたない中央銀行職員たちの中に降り立ち、ばっさばっさと改革を成していく。すべてはルワンダのために行い、ルワンダ人の意見を聞き、有効な対策を打っていく。

まあとにかく服部さんの着任当時のルワンダは貧乏そのものといったかんじで、市内の見学が30分で終わってしまう。五十軒ほどの商業地区に少し大きい家程度の外務省、郵便局、大蔵省、国税庁に百戸あまりの住宅街。そんな貧相な物質で構成されているのがルワンダキガリであった。しかも銀行は設立当初から破綻寸前で悪化の一途をたどっている。ぎりぎり他国の援助で経済が破綻せずに済んでいるような状況だった。

服部さんはそこからこの国の経済を立て直していくことになる。もはや何をやっても有効な改善になるであろうという状況でがしがし手を打っていくわけであるがこれがまた痛快。主要な方針としてはルワンダ経済の諸悪の根源とかしていた二重為替相場制度(特定の貿易外取引において使われるドル=ルワンダ・フランの交換レートと需給関係で決まる自由市場の二つがあった)の廃止による外国人優遇税制(優遇しようという意図のもとというわけではなく、自然と誘導されてそうなっていた)の消滅。

また経済を市場経済へと移行させることになる。生産増強の重点はこれまでルワンダ国民がやってきた農業において、農業生産を自活経済から市場経済に引き出すための準備として市場機構の整備をおこなっていく。その為にルワンダ農民の欲するものを安価で豊富に供給しなければならず、そのために輸入の自由化を決定する。ひとつの方針から無数の行動に手がうつっていくわけではあるが、その中心になる理屈は非常にシンプルなのがおもしろい。

基本的な方針を自活経済から市場経済への引き出しという形に定め、それを農民の自発的努力によって達成する。そのために農民のモチベーションが発揮されやすいように普通にやればなんとか生活出来るだけ儲かり、少し頑張れば頑張った分だけ利益として計上されるように仕組みをつくり、必要な農具、肥料、殺虫剤などが適宜意欲に応じて対応できるように整備を行なっていく。

「国民の自発的努力を信じる」というと聞こえはいいが、これは「信じる」なんて生易しいものではなく、動機面から物資面まで含めてあらゆる側面において「やる気をなくすような」障害をできるかぎり排除していくのが服部さんの改革の数々の骨子になる。

言葉にするとほんの二三行で治まってしまう簡単なものだが、実際その中で服部さんが行った数々の改革はどれひとつとりあげても考えぬかれたものばかりだ。ルワンダの主な輸出製品だったコーヒーの立て直しからバスの整備、それからビールの消費者価格の設定まで、動機面から人間をコントロールしようとする思想は当時どれぐらい知られていたのかわからないが行動経済学の実践編のごとくうつる。

一人の漢による国の建て直し記であり、経済学が本当に人々の役に立つのだというわかりやすい実証例であり、経済学的思考法で物事を改善する事例で本作は溢れている。先進国の論理を振りかざした無根拠な援助や市場主義や関税の撤廃を推し進めるのではなく現地に密着し障害を一つ一つ排除していく、地道な在り方が成功につながっていくのは、本書が出版されて40年以上が経つ今でもまったく衰えることなく使用できる考え方だろう。

最適な中間を探す旅『インフォメーション: 情報技術の人類史』

500ページを超えるなかなかの大著だが、それだけの価値はある。

情報なんてそこらへんにありふれているもので、すごく身近な存在というものですが実際に「情報ってなんなの」ってことを厳密に説明してくださいと言われると難しいことに気がつくわけです。「情報ってのはね、たとえばいまこうやって話していることも情報なわけで、うん、つまりはこういうのが情報なんだよ」ということはできるが、なんだかよくわからない。とくに、科学で扱うにはこんな定義では不十分である。

たとえば──遺伝子だって情報である。こうして今まさに書かれ続けている文字の羅列も情報であり、0と1の羅列だって情報である。アルファベットを符号とし、六十億ビットで人間一人が構成されている。経済だって情報であり、物質から今まさに情報量へと経済の本質が移行しつつある。仮にそれが物質であったとしても、それは誰が何を保有しているのかという、情報だった。

情報を真に科学的に幅広く使用に耐えうる客観的指標として使うためには、そうした例すべてに耐えうる定義が必要になった。

たとえば「運動」は「情報」と同じく、元々はよくわからない単語だった。多くの意味が「運動」にはこめられていて、説明自体は簡単にできてもそれを科学として表現、使用することは出来なかった。科学として使用するということは誰が、どのように使用しても変わらぬ結果を約束できるということだ。桃が熟すこと、石が落下し、子どもが育つこと、すべて運動だった。

自然哲学者らが”運動”や”エネルギー”といった言葉に具体的な意味付け、数式化をおこなって、意味の純度をあげ、誰もが共通して使用出来る客観的な尺度を持った自然観の土台することができるようになったわけで、こうした過程が情報理論にも必要とされるように成ったわけだ。本作『インフォメーション: 情報技術の人類史』はシャノンの理論を中心にして、情報の定義の歴史をおっていこうという野心的な一冊。

なぜなら情報は今ではiPhoneに、iPadに、時刻表にあり、加工手段もさまざまに、並べ替え、同時再生し、解析し、圧縮し、とあるけれど、情報自体はずっとむかしから存在していたのだから。ある日文字がうまれて、あるひ情報を科学的に定義できるようになり、そして今や情報はそこら中にあふれかえって「情報の過負荷」ともいえる状況に陥っている。

本書の第一章はトーキング・ドラムからはじまる。太鼓はおもに突撃、撤退、集合などの簡単な意味を伝えるためにつかわれていたが、実はその一方、少数民族たちは1800年頃、ドラムを叩くことで修辞的文章を湧き出させ、情報を伝えていた。たとえば出生告知をやけに複雑な文章で伝えている。「茣蓙が巻かれ、われらに力みなぎり、ひとりの女が森より出て、広々とした村にいる。さしあたり、これ以上望むものなし」

いっけんこうした修辞まみれの文章はとても無駄なように思える。ただしこの時代、ドラムを叩く以上に早く伝達される情報通信の技術はなかった。徒歩や馬にのった人間がメッセージを伝えるより圧倒的に早かったのだ。これと似た技術がモールス信号になる。とん、つーつーのように短点と長点で意味を伝える。

たとえばAだったら「・」Bだったら「・ー」のようにすれば容易く意図を伝えられる。ただしこれらはアルファベットのかわりであり、ようするにいったん文字を経由してまた別の信号に置き換えている。しかしトーキング・ドラムを使用していたアフリカの人たちは、書き文字を持たなかった。だからかれらはモールス信号とはまったく別途の情報伝達手段をつくりだしていたのだ。それがトーキング・ドラムだった。

かれらのトーキング・ドラムはまったくちゃんと定義されていなかったので、情報が抜け落ちひとつの表現が複数の意味につながってしまうようになっていた。たとえば高音の開口部を二回叩けば父、サンゴ、月、鶏、魚の一種、と。それだけでは意味がわからないので、文脈を不可したのだ。ようは長ったらしく修辞的な通信は文脈をつくることで意味の判別をしやすくするためであり、ちゃんと意味があったのだ。

そしてこの「情報に冗長性をわざともたせて、情報が損なわれても最終的には相手に伝わるようにする」という通信の手法に関しては現代の通信にもいかされていて、僕らのネットや通話が途切れずに伝わるのは冗長性が持たされているからでもある。過去から連綿と受け継がれてきた情報の通信手段だが、これを理論化したのがシャノンだった。

情報理論の父と呼ばれた男で、情報における通信、暗号、データ圧縮や符号化といったまさに今つかわれている定形の基礎を築いたのだった。本書では何度もこのシャノンはとりあげられ、常に核となって存在している。たとえば彼が提唱したのが『メッセージの意味は一般に重要性を持たない』ということだった。

これだけ読むと何を言っているのかよくわからないが、ようはやり取りをする時という意味ではなく、情報を理論として扱うときに「意味」にこだわっていても意味が無いということだろう。とん、つーといったモールス信号もどんどんかっというトーキング・ドラムもThis is a pen! も共通の土台に載せるためにはひとまず意味を排除し情報を定義しなおし必要があった。

シャノンによれば情報は不確実性、意外性、エントロピーだという。可能な送信メッセージが1つだけである場合、そこには不確実性はなく情報はない。英語にはあるアルファベットのあとに続く確率がだいたい統計的に出されており、たとえばtに続く文字はhの可能性が高い。そしてその通りになった場合、意外性はなく情報はあまり伝達されない。

また010101010と延々と続いていく文字列と010010011100101とランダムに記述が続いていく01が、まったく同じ数だけあったとした場合。それらは同一のビット数だが、前者に関しては01を◯回続けよと命令するだけで情報は圧縮することができる。どれくらい乱雑かという問いはそのままどれくらいの量の情報かという問いにこたえることができる。

情報をから意味をひとまずとりさって、数量的に扱えるようにしたのがシャノンの功績だったといえるだろう。先ほどのトーキング・ドラムでみたようにシャノンはメッセージを遠くまで通信させるために、誤り訂正のための余分な記号を使って雑音を克服する方法を考察するなど、今にまで残る理論の基礎をほとんど独力で創りあげたのだから恐ろしい男だといえる。

誤り訂正の理論は符号化理論といって、これがなければコンピュータ科学はなかったといってもいい。モデムもなければ、CDも、デジタル・テレビもなかっただろう。ほかにも未来のコンピュータ設計の基礎として、必要不可欠な理論をいくつか記している。はじめて総当りではないチェスのプログラムを発表したのもシャノンだったのだ。

その後のコンピュータ史はこちらに詳しい。はじめにコマンド・ラインがあった『チューリングの大聖堂: コンピュータの創造とデジタル世界の到来』 - 基本読書 コンピュータが一般的になって、その後どうなったかは僕らが経験している通りだ。信じられないぐらい大量の情報が保存できるようになり、日々Twitterでは大量に文字列が流れていく。

かつて情報は生み出された後はそのうち消えるものだった。文字がなければ話した先からきえていく。しかし文字がうまれ、石にきざみこまれる。紙がうまれ、紙に記載されるようになる。映像化がうまれ、音楽も保存できるようになり、いろんなことが記憶できるように成った。だんだんと情報が残るようになってきたのだ。

情報が多すぎて、それゆえそのかなりの部分が失われる。索引のないネットサイトは、図書館の誤った棚に置かれた本と同じく、忘却の淵にある。だからこそ、強力な情報経済事業の成功例は濾過と検索を土台にしている。ウィキペディアでさえ、そのふたつが組み合わさったものだ。つまり、おもにグーグルが駆動する強力な検索、そして真の事実の収拾と誤った事実の排除に努める大規模な協同フィルター。検索とフィルタリングこそ、この世とバベルの図書館を隔てるものにほかならない。

今のネットの動きは「行き過ぎた情報の氾濫」をなんとかしてどこかで押しとどめようとするものにみえる。グーグルの検索がその代表例だが、NEVERまとめやTogetterのように、雪崩のように押し寄せてくる情報をなんとかしてまとめようとする涙ぐましい努力がある。かつて記録されなかった情報は今では記録されすぎるようになった。

トーキング・ドラムだって、修飾が多すぎれば何を言っているのかさっぱりわからなくなってしまうであろうに違いないことを考えると、情報があまりに多すぎる状況では僕らも何を取得したらいいのかがさっぱりわからなくなってしまうのは自明なり。よって僕らは今、その最適な中間を探す道程の中なのだろう。

インフォメーション: 情報技術の人類史

インフォメーション: 情報技術の人類史

山賊ダイアリー

休日の午前中、なんとなくコーヒーでも飲みながらこれからの活動に備えてまったり漫画でも読もうかと思ってKindleで『山賊ダイアリー』を購入。*1こうやって即座に買って読み始められるのは読み手にとっては素晴らしい。衝動買いが増えて本代がかさむけれど。どうも猟師の実録漫画らしい、とだけ情報を得ていて気になっていたのだ。*2そしてこれがめちゃくちゃ面白かった。

狩猟免許をとるところからはじまって、どこでとったらいいのか、銃にはどんなものがあるのか、とっていい動物ととってはいけない動物、そうしたことをレクチャーしてくれるというよりかは、作者の行動を追体験していく形で知っていくことができる。銃を買ったら次はついに狩猟で、山に分け入り川上のカモを狙い、時には農家の依頼を受けてカラスを仕留め、スズメバチを駆除し、ときにはイノシシを仕留めるための罠を仕掛ける。

いやあ、これが実に面白いんだよね。チームで警戒心の強いキジをいかにして仕留めるかの作戦を立てるのも、これまた警戒心の強いカラスをいかにして仕留めるか、自分の姿が見えないように葉っぱで即席のカーテンを作って隠してみたりとそうした試行錯誤の数々。自然が相手だからすべてが計算通りにいくわけではもちろんない。イノシシを仕留めるための罠にたぬきがかかっていたり。

そう、トライアンドエラーがみていて面白いんだろうな。イノシシの足跡を追い、罠を仕掛け、クマに怯え。うまくいかない時期が続いたり、肉がいっぱいとれたりする。そしてうまくいった時はちゃーんと仕留めた動物を家に持って帰って、捌く! 食べない動物は殺さない! これが猟師なのか! 捌き方まで載っていて親切な上に、それを食べているところは下手な料理漫画よりうまそうだ。

最初の方に、作者がデート中に猟師になるといったら「野蛮人」といってフラれるところがギャグっぽく書かれているが*3実際捌いたりしている場面はかなりショッキングだし、つぶらな瞳をした動物を撃ち殺したり叩き殺したりするのは漫画であってもじゃっかん心が痛む。しかし狩って食うっていうのは生きていくための根っこのところだからなあ。

きれーにパッケージングされて、整えられたものしか基本的には売り場には並ばない為に、そうした本質的な部分は今ではすっかり覆い尽くされてしまっている。*4

しかし極言してしまえばそうした能力さえあれば日本政府が明日崩壊しても生きていくことが出来る*5。そうした「自分のやっていることを隅々まで把握して、結果が自分にそのまま跳ね返ってくる」という感覚は僕の生活にはあまりないものだから、そうしたところも読んでいて面白かったのだと思う。

徒手空拳でスズメバチの駆除をするのとか、あまりにも危険過ぎるのだが笑えて仕方がなかったし。車にのったままスズメバチの巣の真下までいって、ちょっとだけ窓を開けて殺虫スプレーを吹きかけるのだがあまりにびびりまくって殺虫スプレーを落下させてしまう! はたしてどうやってスズメバチの巣の真下に落ちたスプレーを奪還すればいいのか!? 

小学生の遊びみたいなことを知識のある大人が大まじめに作戦を立ててやっているので面白い。アホだが。しかも結局そのまま生身で取りにいって刺されているという知恵のなさでこれもまた笑える。全然作戦立ててねえじゃねえか。あとちゃんと病院にはいったほうがいいとおもうよ。*6

感覚としてはリアルオンラインゲームに近いのではないか。一人で狩りに行くこともあるけれど、狩猟チームを組んでチームワークで狩りにいく描写がこの漫画では多い。ほぼ全員初心者からのスタートなので、段々と獲物がレベルアップしていくのだ。たとえばM地区のイノシシは、罠にかかったあと足を引きちぎって逃げ狩猟用の犬を2匹食い殺して、人をみれば襲い掛かってくるという恐ろしい存在らしいのだが、飲みながら「このグループがレベルアップしたらチャレンジしてみよう」といって話をしている。

レベルをあげてミッションをクリアしていくのはそのままゲームのような構造を持っている。そしてとった獲物は実際に自分で食えるのだ。それを肴にまた次の獲物の話をみんなでする。うわあ、なんだか楽しそうだなあ。わくわくしてくる。猟師になろうとか、猟師に興味がなかったとしても、動物を狩って、食うというのは僕らの生活の本質にあたるのだから、読んだらきっと面白いはずだ。

山賊ダイアリー(1) (イブニングKC)

山賊ダイアリー(1) (イブニングKC)

山賊ダイアリー(2) (イブニングKC)

山賊ダイアリー(2) (イブニングKC)

山賊ダイアリー(3) (イブニングKC)

山賊ダイアリー(3) (イブニングKC)

*1:紙では3巻まで出ているが、Kindleではとりあえず2巻まで

*2:作家の野尻抱介先生がTwitterで絶賛していた

*3:あと狩猟仲間の親族の女性がみんな狩ったりさばいたりするのを過剰に嫌がったりするところも描かれていておもしろい

*4:と真面目に書くとそうなる。あまりそんなことを意識して読むような漫画ではないのかもしれないが

*5:冬になったらしらんが

*6:結局行かなかったらしい

This is a comedy,not a tragedy『All Clear』Connie Willis

い、いかんかった。信じられないぐらい面白かった。

もどってくるのが困難なほど引きこまれ、世界に没入して、最後の10%は涙が枯れ果てんばかりに泣きはらした。ありとあらゆる物語がこの世の中にはあるけれど、ここまで長大な物語にも関わらず、読者を飽きさせずに引きずり回し、追体験させ、そして最後にちゃんとオチをつけてみせられる作家が、他にいるだろうか(金庸が思い浮かんだ)。どんなタイミングでも読む手が止まらず、忙しい時には憎むべき敵ですらあったが、本書を読んでいる間は至福の時間でした。

2060年、オックスフォード大学の史学生三人は、第二次大戦下のイギリスでの現地調査に送りだされた。メロピーは郊外の屋敷のメイドとして疎開児童を観察し、ポリーはデパートの売り子としてロンドン大空襲で灯火管制(ブラックアウト)のもとにある市民生活を体験し、マイクルはアメリカ人記者としてダンケルク撤退における民間人の英雄を探そうとしていた。ところが、現地に到着した三人はそれぞれ思いもよらぬ事態にまきこまれてしまう……

↑はブラックアウトのあらすじになる。本書『All Clear』はConnie WillisによるタイムトラベルSF小説。Connie Willisはベテランの小説家で、その長いキャリアの中で長編の出版は数少ないものの、そのどれもが読者を飽きさせずに進めていく最高のエンターテイメント小説であり、SFならではのテーマまで備えた作品に仕上がっている。しょうじき僕はこれほど惚れ込んでいる作家は他に例がないぐらい、ハマり込んでいるわけです。

All Clearはまだ日本語訳がないのだが(2013年6月についに完結)、4月に分冊されて1が出るようです。そしてAll Clearには姉妹編というか、前編にあたる『ブラックアウト』(こちらは既に翻訳が出ている)が出版されているので、興味を持った方は絶対、なんとしても、読むと幸せな時間を味わうことが出来るだろう。ただその前に、……。

実を言えばこのBlack Out/All Clear は『ドゥームズデイ・ブック』『犬は勘定に入れません』に続く、3冊目の「オックスフォード大学史学部タイムトラベル・シリーズ」に連なる作品になる。しかもそのどっちも文庫版にして上下巻のぶあつ〜い物語なのだ。ただそれぞれ単独の作品として成立しているので、Black Out/All Clearを読むために読んでおく必要はないのだけど、舞台とキャラクタが一部共通しているので読んでいるとなお楽しめる。

実際僕は『犬は勘定に入れません』を読んでから前作のドゥームズデイ・ブックを読んだので、順番はたいして関係がないと思う。そして、どっちも超傑作なので、力を込めてオススメしたい。特に『犬は勘定に入れません』は、僕が読んできたラブストーリーの中では最高の一冊になる。今でもこの話を思い返すと幸せな気持ちになるんだ。本作はそれを超えたかもしれないと思ったけれど、もうなんか複合的な意味で好きすぎてうまく考えられない。

ブラックアウト:1940年のイギリスから脱出せよ - 基本読書
過去と未来を横断する傑作パンデミックSF──ドゥームズデイ・ブック - 基本読書
喜劇の大傑作──犬は勘定に入れません−あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎 - 基本読書

↑このへんの記事が参考になるかもしれない。このAll Crear、ヒューゴー賞/ネビュラ賞/ローカス賞という主要なSFの賞を総なめにしている。これだけ果てしなく長い(どちらも合わせると1600ページを超えると思う)小説にも関わらず受賞できるってのは、それだけ本作の底力を感じるではないか。

これまでの作品でコニー・ウィリスは悲劇と喜劇を書き分けてきた作家になる。たとえば犬は勘定に入れませんは、基本コントみたいなかけあいをベースにした喜劇ともいえる作品で、ドゥームズデイ・ブックは悲惨な状況を書いた悲劇的な作品になっている。これについて著者はシェイクスピアを理想の作家に挙げていて、その理由は「シェイクスピアは悲劇と喜劇、どちらもこなしたから」だという。

本作にもシェイクスピアの引用が各所に出てくる。そして単なる引用ではなく、物語中その台詞や劇は、常に重要な演出として物語内で機能する。コニー・ウィリスは、悲劇と喜劇、その両方の側面から歴史を観ることでより立体的に、相対的に語ろうとしているように思える。そしてコニー・ウィリスが書いてきたこのタイムトラベルシリーズは、非常に単純化してしまえば最初は悲劇で始まり、次は喜劇だった。では三作目となる本作は──どうなんだろうか? これは悲劇なのか、喜劇なのか?

Black Out/All Clearの大長編二冊の中で、主軸として書かれる3人、メロピー、ポリー、マイクルはそれぞれの目的を持って歴史の中に飛び込んでいく。しかし思いもよらぬ事態が起きて、彼らは自分たちの身に何が起こったのかもわからないまま、歴史の中に取り残されてしまう。そして自分たちにできる最善のことを探しながら、その歴史の中に身をうずめていく。

本書には本当にすごいところがいくつもある。多くのことが起こる。第二次大戦下のイギリスには毎日のように空襲があり、そのたびに人々はシェルターに隠れ、不安な日々を送っていた。文字にしてしまえば「不安な日々を送っていた」で流されてしまうところが、本書では執拗に書かれる。常に空襲に襲われる不安。いつ友人や家族が死んでしまっているのかわからない不安。その状況下でも人を救おうとがんばっている人々がいること。

そして何よりある時代には、当然ながらある時代に生きている人達がいる。アガサ・クリスティがいる。アラン・チューリングがいる。パットン将軍がいるし、そこには多くの人達の生活があった。親を失った子どもたちが居た。度重なる避難に疲れ果てた人々を勇気づけようと演劇を始める人達がいる。そしてそれは先行きがいっさいわからない不安の中で行われたのだ。

本書のほとんどはそうした世界の中で生きている人達と、未来からやってきた3人がいかにして交わっていくのかを書いていく。そしてその状況は絶望的で、英語だから読むのに結構な時間がかかったのだが、そのおかげで僕もその絶望を、時間を費やすことで追体験することができた。彼ら彼女らが、闇の中でさまよい、自分たちの道を見つけていく。

その前に進んでいく姿と、この時代に不安の中で生活を送って、それでも小さな勇気を発揮して状況を変えてきたすべての人間たちが、だから本当に、最後には愛しくなった。何事にも別れはくる。果たしてそれは悲劇なのか? 喜劇なのか? 見る人間によって変わってくることでは? あるいはそれはどう捉えるかという意志によるものでは?

本作でコニー・ウィリスは悲劇と喜劇の両面を同時に書いてみせた。考えてみれば僕らは日常的に悲劇と喜劇に遭遇している。悲劇があって、だからこそ喜劇があるし、喜劇があるからこそ悲劇が起こったりする。人生はクローズアップでみれば悲劇だが、ロングショットでみれば喜劇だ、とチャップリンは言ったが、それがつまり人生であり、運命というものだろう。本書には喜ばしいことも、悲しいことも、そのどちらか判断がつかないよくわからないこともある。

そうした物事の連続を扱うにあたって、考えてみればタイムマシーンというのは非常に都合がいい。悲劇も喜劇も流れの中に含まれる俯瞰的な目線からみた「運命」を書くことが出来るからだ。だからこれは、運命とどう向き合っていくのかという物語なのだと思う。長い、長い物語だ。それだけ読者は登場人物たちと親密になる。友人といってもいい彼ら彼女らの決断と覚悟が、すべて嬉しい。

魂を震わせるんだ。

ブラックアウト (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

ブラックアウト (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

オール・クリア 1(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

オール・クリア 1(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

オール・クリア2 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

オール・クリア2 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

All Clear

All Clear

はじめにコマンド・ラインがあった『チューリングの大聖堂: コンピュータの創造とデジタル世界の到来』

チューリングの大聖堂 上: コンピュータの創造とデジタル世界の到来 (ハヤカワ文庫 NF 491)

チューリングの大聖堂 上: コンピュータの創造とデジタル世界の到来 (ハヤカワ文庫 NF 491)

チューリングの大聖堂 下: コンピュータの創造とデジタル世界の到来 (ハヤカワ文庫 NF 492)

チューリングの大聖堂 下: コンピュータの創造とデジタル世界の到来 (ハヤカワ文庫 NF 492)

分厚く、内容は詰まっていて、かつお高い。がここにはデジタル・コンピュータの創世神話がまるごと入っていて、それを思うと値段も分厚さも気にならなくなる。ひとことで言えば信じられないような大傑作で、この本の中で描写されていく科学者たちの描写に、葛藤に、何よりフォン・ノイマンを筆頭とする「天才」たちに、身も震えんばかりだ。

本書の言葉を借りて言えば、デジタルコンピュータが織りなす世界がこの先どこへ、どれほどの速度で向かうのかはさっぱりわからないけれど、この革命がどうやってはじめたかを知ることはできる。そしてこれだけの革命に携わった人間たち、その思考を知るだけでもとてつもないものに触れることが出来る。

本書の構成は通常のように時系列順にデジタル・コンピュータの創世を追っていくのではなく、時間は関係なくそれぞれのトピックに関連する形で、時代を切り取っていく。たとえば第九章の『低気圧の発生』ではコンピュータによる未来予測、およびその課題としての天気予報の予測は可能なのか不可能なのかといったことを題材にしている。

章ひとつとっても刺激的な逸話になっていて、時々で出てくる専門家も違う。しかし一貫して出続けているのがフォン・ノイマンで、彼はどんな話題でもデジタル・コンピュータに結びつき、そしてどんなことでも理解していて、常に物事を前に推し進めていく立役者として存在している。

デジタル・コンピュータの創世神話として、ライプニッツからチューリングへ、チューリングからフォン・ノイマンへと大まかな流れとしては進んでいくことになるが、フォン・ノイマンはチューリングから実際にフォン・ノイマンがチューリングマシンを現実のものに置き換えていく過程で必要不可欠な接着剤のような人間だったように本書を読んでいると読める。

彼はデジタル・コンピュータをこの世に出現させて、役立てるためには最適の人間だったのではないか。ありとあらゆる科学的知見を一瞬で理解し、自身でも想像し、あらゆる問題を定義し、問いかけ、それらの問いを解決するために必要になるであろう各分野の専門家に接触し、そして誰もがフォン・ノイマンに惚れ込んだ。

もちろんフォン・ノイマンだけが重要な存在だったわけではないそこにはひたすら研究に邁進するための環境として純粋に研究に撃ちこむことだけを目的に創られたブリストンの高等研究所という特殊な場所があり、携わった多種多様な天才たちがいて、そして何より兵器へと利用されていく歴史的な事情もあった。

実際コンピュータは核爆発を起爆させるため、そして爆発のあとに何が起こるのかを把握するために不可欠な存在だった。

フォン・ノイマンは兵器への転用に熱心に関わり、その死に際して娘から「あなたは何百万人もの人々を亡き者にすることを沈着冷静に考える人なのに、自分自身の死に直面することができないのね」とまで言われるようになるのだが(返答は「それとこれとはまったく違うんだ……」)、素晴らしいものが素晴らしい結果を残すということもないのだ。

人間の発明品のうち、最も破壊的なものと最も建設的なものがまったく同時に登場したのは偶然ではなかった。コンピュータのおかげで発明することができた兵器の破壊的な力からわれわれを守ることができるのは、コンピュータの総合的な知性以外にはないだろう。

とにかくフォン・ノイマンはそれをやり遂げたといっていいだろう。そしてそんなことが、フォン・ノイマン以外にできただろうか? たぶん、時間さえあればできあがったのだろうと思う。でも、今ほど急速には進化しなかったかもしれない。ぐだぐだと無意味とも思えるような時間を経てようやく出てきたかもしれない。歴史にifはないが、もしこうだったら、といろいろ考えてしまう。フォン・ノイマンの天才性を伝えるには、本書はエピソードが事欠かない。

彼には、「数学者としては珍しいと言えるであろう」一つの才能があったと、スタン・ウラムは説明する。それはこんな才能だ。「物理学者たちと打ち解けあい、彼らの言葉を理解し、それをほとんど瞬時に数学者の図式と表現に変換するのだ。さらに、このやり方で問題を処理したあと、今度は逆にそれを物理学者たちが不断使っている表現に戻してやることもできた」。

「どんなカテゴリーに分類しようとしても、彼はどうしてもそこに納まらないのです」とクラリは説明する。「純粋数学者たちは、彼は理論物理学者になってしまったと言い張りました。理論物理学者たちは、彼のことを、応用数学分野の偉大な支援者・助言者と見なしました。応用数学者たちは、象牙の塔に住んでいるこんな純粋数学者が自分のテーマを応用数学に敷衍することにこれほど関心を抱くのに畏敬の念を抱きました。そして、政府関係者のなかには、彼を実験物理学者、あるいは、場合によっては技術者と考えていた人たちもいたのではないかとわたしは思っています」

そして天才はフォン・ノイマンだけではない。チューリングもいる、アインシュタインも、ウラムにバリチェリにビゲロー! みんな信じられないような発想と、そして信じられないような能力でもって仕事に当たっている。そしてフォン・ノイマンの号令の元、プロジェクトに関わってきた幾人もの人たち。

まだコンピュータの有用性が今ほどはっきりしていない時から、みんなフォン・ノイマンが「コンピュータの計算能力が科学のすべて、そしてほかの多くの分野を席巻し完全に変貌させてしまう」ことをはっきりさせてくれ、だからこそ確信を持って進められたとプロジェクトのメンバーによって書かれている。

そして……本書は後半に向かうにつれて、最初に「コンピュータの未来を予測するのは不可能」といっていたが、今後起こることの予測、問われるべき問いが現れてくるようになる。機械知性は産まれえるのか。答えることが可能なすべての問いに答えることのできる機械は実現できるのか。

その為に必要になってくるのが、「問い」に対する「答え」だけではない、「答え」から漠然とした問いや概念を把握するような「アナログな」捉え方ではないかというのが本書の未来への過程だと思われる。現実の世界では、答えを見出すほうが質問を定義するより簡単である。たとえばネコのようなものを書いたほうが、何が揃った時にネコにみえるのかを定義するより簡単である。

こどもはねこをたくさんみて、あるいは自分でかいてみてはじめて「ねことはこういうものである」と気がつくだろう。今ではサーチエンジンが、デジタルからアナログに変わろうとしている。ひとつの問いにひとつの答えは、常に何らかの痕跡を残して次の質問へと役立てられる。常に現実から学び取っていく知性体であるといえる。

はじめにコマンド・ラインがあった。人間のプログラマが指令と数値アドレスを与える。そこにはコンピュータは自分で考え実行する動作はないが、しかしそれを阻むルールもなかった。指令のあと、今ではプログラムは勝手に考え始めている。勝手に考えた結果を人間の側にフィードバックする。サーチエンジンやページランク、ソーシャルグラフなどはまさにそのような手法だろう。

コンピュータは人間の能力をどんどん、もっと高いレベルで置き換えていっているように思える。はたして人間の要素をどんどんコンピュータが置き換えていって、人間に最後に残すであろう「考えること」さえももはや自分たちの専売特許ではなくなった時に、恋をすること以外に何かすることがあるだろうか?

フォン・ノイマンやチューリングが構想したコンピュータは、まだまだその途上に過ぎないのだろう。はやくもっと未来がみてみたい。いったいなにが起こっているんだろうか。しかし、何が起こるにせよ、すべてはここからはじまったのだ。

「われわれが今作っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っているんだ、歴史と呼べるものがあとに残るとしての話だが。しかし、やり通さないわけにはいかない、軍事的な理由だけにしてもね。だが、科学者の立場からしても、科学的に可能だとわかっていることをやらないのは、倫理に反するんだ、その結果どんなに恐ろしいことになるとしてもね。そして、これはほんの始まりに過ぎないんだ!」──フォン・ノイマンが言ったとされる言葉