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原子力資料情報室創設主導 政府が隠した「原子力発電所被害」警告

登録:2011-09-01 10:04

原文入力:2011/08/30 20:10(1324字)
チョン・ナムグ記者
市民科学者として生きていった高木仁三郎
←「市民科学者」高木仁三郎(1938~2000)

 
「日本政府や東京電力の発表は信じられない。原子力資料情報室を見ろ」

今年3月、福島第1原子力発電所で放射能大量流出事故が起きた後、インターネットはこのような書き込みであふれた。

政府の放射能測定値に疑問が提起される中、資料室は3月14日から独自に東京新宿の大気中放射線量を測定してインターネットでリアルタイムに公開した。資料室が公開した信頼できる測定値は東京でパニックが起きるのを防ぐことに大きな役割を果たした。資料室はほとんど毎日、専門家記者会見を行って政府と東京電力、大手メディアが伝えない原発の情報を伝えた。インターネットで生中継されたこの会見は数千名がリアルタイムで接続して見守り、動画サイトにも継続してアップロードされている。

日本で原子力発電所に対して問題提起をしてきたこれらの「頭脳」と称されるほどのこの原子力資料情報室は、「市民科学者」高木仁三郎 (1938~2000・写真)の生涯をかけた努力の賜物だ。1961年、東大理学部化学科を卒業後、日本原子力事業株式会社を経て東京都立大学助教授とし て仕事をした彼は、自然界で人工放射性物質が絶えることなく検出されるのに驚く。成田空港建設に反対した農民たちとの出会いを契機に彼は「どんな言葉も言 えなくなるようにする」体制から独立した科学を追求することを決心して、1973年、大学教授職を辞した。

彼は原子力発電所専門家としての研究にとどまらず、活動家としても積極的だった。1975年9月、地域団体が各地の反原発運動を全国的に連係させるため に、共同資料室の役割を果たす機構を作ったが、それが原子力資料情報室だ。高木は唯一の無給常勤者として仕事をして資料室を育てた。

彼は1988年「原子力発電所を停止させるための1万人市民行動」と1990~1991年の「脱原子力発電法制定のための330万人請願運動」の中心に 立った。国際連帯研究と運動でも先頭に立った。全身を燃やした彼の活動が健康を害して、彼は大腸癌により62才で比較的若くして亡くなった。

彼が病床で生涯を回顧して書いた「市民科学者として生きる」という本によれば、市民科学者という言葉は、高木の友人で軍縮・環境問題専門家であったフランク・フォン・ヒッペル元プリンストン大教授が初めて使ったという。

高木は1997年、第2のノーベル賞と称される「ライト・ライブリフッド賞」(ドイツ系スウェーデン人の切手収集家ヤコブ・フォン・ユクスキュルが制定し た人権と環境保護および生活の質を向上させるのに寄与した功労者らに与える賞)を受賞した。高木が残した4000万円の遺産は「高木仁三郎市民科学基金」 の種子になり、今でも「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」の運営などの色々なプロジェクトを支援している。

東京/チョン・ナムグ特派員
原文:https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/494084.html 訳 M.S