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 メソポタミアの土器文化

  シュメール人の文明に至るメソポタミアの文化的な発達は、土器による区分がされているようです。

文化区分 BC6000 BC5000 BC4000 BC3000 BC2000
9 8 7 6 5 4 3 2 1 0 9 8 7 6 5 4 3 3 2 1 0 9 8 7 6 5 4 3 2 1 0 9 8 7 6 5 4 3 2 1 0 9 8 7 6 5 4 3 2 1
ハッスーナ期
サマッラ期
ハラフ期
ウバイド期
ウルク期
ジェムデッド・ナスル期

  実際には、ハッスーナ期、サマッラ期、ハラフ期、ウバイド期、ウルク期は、都市遺跡の説明がされ、必ずしも土器様式の分類ではないようです。
  ウバイド期やウバイド文化は、ウルク文化(シュメール文明)の前段階として多くの遺跡が調べられ、面としての文化的な広がりを表す意図があるものと思います。それ以外は、ほぼ単独の遺跡の遺構や出土品について説明されています。

 ジェムデッド・ナスル期には、封泥に押された印章が出土し、物流の範囲を示す証拠となっています。しかし、これは例外的なことに思えます。土器自体は腐らないので残りますが、作成年代も、作成場所も分かるわけではありません。見た目の類似性や、同じ技術で作られたと言う判断は主観的です。
  窯跡が出土し、完成品と半製品があれば製造場所が分かりますが、離れた場所の土器と同じかどうかは分かりません。
  同じ場所から大量に同種の土器が出土すれば、その出土した地層の年代に生産、消費されたことが推測できますが、少数では判断ができません。

  他に見られない土器だと判断すると、遺跡の名を付けて、何々土器と呼んでいるようです。これは生産地であることを示しません。
  意匠の共通性から文化的な広がりを把握するもののようで、ロクロの使用の有無や、釉の成分、窯と言った技術的な点にはあまり説明されないもののようです。

  メソポタミアの初期の土器には、レバント北部のケルク(Tell Ain el-Kerkh)遺跡の土器があり、BC7646-BC7482の層から少数の破片が見つかり、無文のようです。
  土器の紋様には刻文と彩文があると言うことのようです。アカルチャイ・テペのBC6000ころの土器には線刻があり、おうとつで紋様が付けられるのが先のようです。この土器の特徴は石灰岩の破石が混入され、光沢を発するほど研磨されていることのようです。植物繊維(すさ)を混入するのは目的が分かりますが、鉱物の混ぜ物が先に登場するもののようです。

  彩文土器のハラフ期もBC6000ころに登場するので、無文、刻文、彩文の順に発達するのかどうかは分かりません。
  ハラフ土器は当時の西アジアで群を抜く美しい陶器だったようです。

  wikipediaのサマッラ文化の期間はBC5500-BC4800となっています。しかし、土器の話しでは、ハラフ土器に先行して上質な土器が作られたと考えられているようです。おそらくハッスーナ期とサマッラ期の土器を合わせてサマッラ土器と呼んでいるものと思います。この土器が南ではウバイド前期の土器となり、北、北西ではハラフ土器となったと考えられているようです。
  この考えに付随して、精製土器の概念があるようです。要は生活雑器ではなく、宮殿仕様の陶器が作られ、王朝間の贈答や献納に使われたと言う見方です。

  ウバイド期の土器は大変広範囲に大量に見つかるものらしく説明も様々です。BC4500にはシリアの地中海沿岸に近いテル・アブド・エル・アジズ(Tell Abd el-Aziz)でも見られ、「異なる特徴を備えている」と説明されるので、こうした土器は流通したのではなく、それぞれの地で生産されたものだと言うことだと思います。

  紀元前千数百年頃になると、メソポタミアの北部ではフルリ人がロクロを使用したハブール土器やヌジ土器を生産しエジプトでも使用されたことになっています。この話しは沢山の疑問を抱きますが、確かなことは森林資源の豊富な場所でしか陶器は焼き続けられないと言うことです。

※ジェムデッド・ナスル期の印章
  土器や、石の容器には、蓋をして粘土で覆う、封泥(シーリング)が行われました。この封泥には、石の印が押されることがありました。
  おそらく、輸送される場合や、共同の貯蔵場所に置かれる場合に区別が必要だったのだろうと思います。また、品質保証の意味合いもあったかもしれません。封泥や、それに「しるし」を付けることは一般的なことです。
  ジェムデッド・ナスル文化の説明には、円筒形の石に刻んだ紋様を転がして転写することが記されています。この紋様を刻んだ円筒形の石の印章と、それを刻した封泥の両方が出土し、物の移動が確認されるようです。 
  wikipediaにはハファージャ(Khafajah)遺跡、トゥトゥブ(Tutub、エシュヌンナ(Eshnunna)王国の都市)から出土した印章の写真が載っています。 

※ケルク遺跡の陶片
  ジェムデッド・ナスル期の印章は、BC3100以降の話しです。ケルク遺跡には、BC5300ころの印章の使用が確認されているようです。
  焼成された模様を刻んだ陶片が出土し、その印章自体も出土すると言うことのようです。それを陶片を作るための型とは見なさず、なぜ、印章と考え、封泥が焼成されたと考えたのかは分かりません。
  ウルク古拙文字の起源として、羊などの数を計数するための陶片が使われていたとされています。実際、ウルク古拙文字の字形と同形の陶片が発見されています。そして、広範囲に長い年月、使用されたと見られています。しかし、遺跡から出土と言うよりは、膨大な数が拾い集められ、お守りなどになっていたと言うことのようで、産地も年代も定かでないものが多いようです。
  こうした遺物のなかには封泥の欠片が含まれると言うことなのだろうと思います。これは、長い年月、広い範囲にあることを良く説明しています。封泥の印章部分を故意に焼成するとすると大変興味深いことです。円筒形のシールのような大きな図柄のものが焼成されて見つかるなら確かなことだろうと思います。

シュメール文明

  ウルク文化とそれに続く時代で、アッカド王朝時代(BC2350-BC2113)に入るまでは、シュメール人の文明の時代でした。最後のシュメール人の王朝はウル第3王朝(BC2113-BC2006)です。
  シュメール語を母語とする人々は、BC2000頃にいなくなったと見られています。
  ウルク古拙文字や楔形文字が使用されたことが最大の特徴だと思います。
  シュメール人は、チグリス川、ユーフラテス川の下流部分の南部を占め、北部はアッカド人が占めていました。
  さらに北は、アッシリアで、アッカド語の方言を話す人々がいました。

ウルク文化

  ウルクの遺跡にはウバイド期からの層があり、BC3100頃までの指標となっています。ウルク文化はシュメールとアッカドを合わせた地域の文化を指すようです。

ウバイド文化

 ウバイド期の区分は明瞭ではないようです。前、中、後の3期に分ける方法と、4期に分ける方法があるようです。4期に分ける場合も、1、2、3、4 と表記される場合と、I、II、III、IVと表記されるのは、全く別の区分のようです。
  「Ubaid 1」のように記されている場合は陶器(土器)の様式による区分のようです。この区分が適用される陶器は、ウバイドのあるメソポタミアの南の地域から、アナトリアや、シリアの地中海沿岸に至る広大な地域で見られます。指標としてエリドゥ、ハジムハンマド、ウバイドの都市の名前が挙げられています。
  おそらく、生産地や年代の明瞭でない土器に対して類似性から何らかの評価を与えるものなのだろうと思います。
  指標となる土器の産地や年代を決めること自体が困難なことに思えます。エリドゥの都市の建設時期は、BC4900頃のようですが、Ubaid 1 は、BC5200からです。都市の建設と土器の製造は同じことではないので一致する必要はありませんが、土器自体は年代を確定する方法がないだろうと思います。地層はそれより前に作られたことしか物語りません。おそらく、指標とされる場所では窯が確認され、年代が測定されているのだろうと思います。
  レバントを含めたメソポタミアの広大な地域では、ほぼ同年代に類似の陶器が使用され、文化的な交流があったことは確かそうです。
  陶器は、広い範囲を流通したと見られているわけではなく、それぞれの場所で、それぞれの特徴を持って作られたと考えられているようです。

ハラフ文化

  ハラフ文化は、ウバイド文化に繋がる文化と見られています。釉を使った彩文土器が当時の西アジアで突出して優れていたと考えれているようです。

シュメール文明より前の年代区分

  シュメール文明に至る過程の外観は以下のように捉えられているようです。

シュメール文明より前の年代区分
遺跡 年代 土器 備考
ハラフ
Tell Halaf
BC6000-BC5300 ハラフ式彩文土器 ・有土器新石器時代(Pottery Neolithic)
・多くが2色以上で幾何学模様や動物紋様が描かれた
・同じ様式の土器はニネヴェ(Nineveh)、テペ・ガウラ(Tepe Gawra)、チャガル・バザール(Chagar Bazar)で出土した
・アナトリアでも出土例がある・土器はこの遺跡で生産された。職人の村があり、家庭でも使用されていた
・粘土に押し付ける石の印章が見つかっており所有の概念が推測される
・乾燥地農業(Dryland farming)と呼ばれる灌漑を行わない降雨頼み耕作が行われ、エンメル麦、二条オオムギ、亜麻が栽培された・ヒツジやヤギが飼われた
・銅は道具としては使用されていない・研磨土器や煮炊きに使う土器も出土する
・トロス墓に似たアルパチャのトロスと呼ばれる円形の泥レンガの建物があり、儀式用もあるが多くは普通の居住用だった
・BC5000ころに廃墟となった
・ウバイド文化に継承された
・前10世紀にはグザナ(Guzana)、ゴザン(Gozan)と呼ばれるアラム人の都市国家が築かれた。新ヒッタイト国家群の王宮の様式(ヒラニ、Hilani)。旧約聖書の失われた10支族に関連した記述がある。アッシリアが捕囚を送った先。プトレマイオス朝はガフザニス(Γαυζανις)と呼んだ
ハッスーナ
Hassuna
BC6000-BC5300 サマッラ土器
(ハッスーナ土器)
・乾燥地農業(Dryland farming)に適した降水のある山麓へ移動してきた
・何処についてはサマッラ土器と呼ばれるようだ
サマッラ
Samarra

(BC5500-BC4800)
サマッラ土器

・チグリス、ユーフラテス川の上流から下流まで広い範囲で出土する
・サマッラ文化の年代とは合わないが、ハラフ土器に先行してメソポタミア全域で使用される土器となったと考えられているよう
・北でハラフ土器、南でウバイド土器に発達した
・精製土器(宮殿仕様の土器)の始まりとも

ウバイド1
Ubaid
BC5200–BC4800 ・エリドゥ(Eridu)
ウバイド2 BC4800–BC4500 ・ハジムハンマド(Hajji Muhammad)
ウバイド3 BC4500–BC4000 ・ウバイド(Tell al-Ubaid)
ウバイド4 BC4000–BC3500 ・この期間の終わりには次第にウルク土器に移行していく
・分業による量産化に伴って無文化していく
ジェムデッド・ナスル
Jemdet Nasr
BC3100-BC2900 ジェムデッド・ナスル
土器
・食料の生産や配給などを中央で集中管理していたことが建物や文書から分かる
・農耕と羊とヤギが飼育された
・小規模な物々交換が行われた
・装飾品や貴金属はほとんどない
・土器はウル、ウルク、ラルサと変わりがない。広く流通していた
・彩色された土器は大規模な中央の建物でだけ出土した
・シールと呼ばれる円筒に模様を刻んで、粘土に転写する方法が取られ、シールも出土している。製造場所と流通範囲が分かる
・ハムリン遺跡群のテル・ファラ(Tell Fara)、テル・グッバ(Tell Gubba)ではジェムデッド・ナスル土器が同時代に見つかる
・この時期はウルク古拙文字から楔形の形状への変化が見られる
・文書は、配給や食品、動物のリストと言ったものだった
・文学的な内容、王名表などはなかった
・計数には60進法が見られる(計数法は対象によっていくつかの方法がある)
・同時代のウルクやテル・ウカイア(Tell Uqair)でも同様の文書が見られる

ハムリン遺跡群

テル・グッバ遺跡

  イラクのハムリン(Hamrin)地域のテル・グッバ(Tell Gubba)遺跡は、最上部がイスラム時代のイマーム(廟)となっている。最下層はジェムデッド・ナスル期の遺構になります。
  都市の遺構と、カーレット・ウェアー(ディヤラ・ウェアー)が多く見られ、初期王朝時代(BC2900-BC2700))の特徴を表します。

テル・ソンゴルA遺跡

テル・ソンゴルB遺跡

テル・ソンゴルC遺跡

テルル・ハメディヤート遺跡


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