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#アイドルマスターシンデレラガールズ #三船美優 6/25歌姫庭園発行予定かえみゆ本サンプル - 支倉薪 - pixiv
支倉薪人
6/25歌姫庭園発行予定かえみゆ本サンプル - 支倉薪人の小説 - pixiv
6/25歌姫庭園発行予定かえみゆ本サンプル - 支倉薪人の小説 - pixiv
27,694文字
6/25歌姫庭園発行予定かえみゆ本サンプル
以前、Pixivに投下していた『クリティカルエラー』の完全版を6月25日の歌姫庭園で文庫本で出します。

投下済みだった文章を大幅に加筆修正し、アフターストーリーも追加しております。



サンプルは始まりから4章分、そしてアフターストーリーから1章公開させていただきます。



サークル名『有限会社連理』

歌姫庭園【歌11】

文庫本サイズ216p(予定)

本文、支倉薪人

表紙+挿絵、㈲もぺ



DL販売始めました

https://renrikei.booth.pm/items/604260
1211113904
2017年6月14日 15:53

 それは、私の初恋だった。

 二十台半ばで初恋だなんて口にしたら笑われてしまうだろうか。それでも私が美優に対して抱く感情を一言で表現するのなら、この言葉以外にはどうしても思い浮かばなかった。
 別に今までの人生で誰にも興味を持たなかったわけではない。あの人は良いなぁと、あの人は素敵だなぁと思う事は確かにあった。
 ただそれは恋愛感情とは程遠いもので、どちらかと言えば友情だったと思う。更に言葉を神聖化するなら、尊敬に近いものだったとも思う。だから例えば私がその人の恋人になりたいとか、恋人にしたいとか、そういう感情にまでは結び付いた事は今までに一度もなかった。
 だからやはり、私にとって美優は、この人生で初めて恋をした相手なのだと思う。美優に対して抱く感情が、何もかも私にとって初めてのものばかりだったから。
 何か決定的に恋に落ちた瞬間があったわけではない。ただ一緒にいる時間がとにかく心地良くて、その瞬間が永遠に続けば良いと思えた。美優が笑ってくれると何故だか嬉しくて、どういうわけだか胸がきゅっとした。独りで居ると、途方も無く会いたいと思ってしまった。この世界で誰よりも幸せにしてあげたいだなんて、傲慢だと笑われるかもしれないけれど、本気でそんな事を思ってしまった。
 そして会いたいと思う気持ちに『常に』なんて一言が付与された時、私は自分の恋を自覚した。
 恋の概念は人それぞれに依ると私は思っている。
 私にとって恋とは、その人の事を欲しいと思ってしまったら、それはもう恋しているのだと思う。
 例えば、その人の隣に自分以外の誰かが並んでいる事を想像して、そして切なく思ってしまったなら、恋をしてしまっているのだと思う。更に付け加えるのなら、自分の隣に並ぶ人がその人以外の誰も想像出来ないと思ってしまった場合も同じだろう。
 何が言いたいかといえば、私にとってその人とはつまり、美優の事だった。
 だから今日のように、仕事が終わってから美優と二人でお酒を飲みに行けて、私はとにかく幸せだった。
 何か理由を付けては夕食を一緒にして、私は少しずつでも美優との距離が近付いていっているような気がした。私は恋愛に関しては完全に初心者で、どうやって物事を運べば良いかなんて全然分からなかった。
 それはパズルゲームをやっている感覚に近かったかもしれない。ピースを嵌めてみては外し、試行錯誤を繰り返して、何度も悩みながら一歩ずつ進んでいく。しかし心から悩ましく思ってしまうのは、パズルゲームとは違って正解かどうかが全然分からない事だった。
 恋がこんなにも苦しくて、どうしようもなく切ないものだったなんて、私は自分が陥るまで思ってもいなかった。
 何が正解で何が不正解なのか分からないまま、それでも美優への気持ちだけを頼りにして歩んでいく。行き着く先が幸せだったら良いと思い、いつか美優と恋仲になれたら良いと願いながら。
 そんな酷く幼いまま夢を見て、とても覚束ない私だったけれど、それでも明確に理解出来た事が一つだけあった。
「実は私、付き合ってる人がいるんです」
 初めてだった私の恋は、その瞬間に終わりを告げたのだと。
 お酒の注がれたグラスを両手で持ちながら、美優は少し照れたようにはにかんだ。きっと美優にとっては、秘密の共有こそが私に向けた親愛の証だったのだろう。
 それに気付けない程に、私は幼くなかった。しかし突きつけられた言葉を愚鈍に飲み干せる程に、大人でもなかった。
 私は手にしていたグラスを必死になって両手で包み込んだ。指先だけを浅く交差させ、手のひらでグラスの内にある氷の冷たさだけを必死に掻き集め続けた。
 その冷たさだけが私を冷静にしてくれると思った。適うのなら私の恋心までも冷やして凍結させてくれたら良いのにとすら思った。
 だけど残念ながら、そこまで簡単に冷え切ってしまう程、私の恋情は低い熱量ではなかったらしい。美優の事を想えば想う程に、美優の言葉は事実として私に突き刺さり、私は現実を見せ付けられた。
「ごめんなさい、急にこんなこと言われると戸惑いますよね……」
 静寂を続けた私を見て、美優は不安気に言葉を連ねる。曇り気味なその表情を見てしまって、私は酷く心を痛めた。
 違う。私がさせたいのはそんな顔じゃない筈なのに。
 私は誰よりも美優の幸せを願っていた筈だったのに。
 だけど、どうしても、私は事実を受け止められないでいた。
「……どんな人、ですか
 必死になって紡いだ言葉は、そんなものだった。声が震えなかった事だけ、自分を褒めてあげたい。それくらいに頼りなく、今にも掻き消えてしまいそうな声だった。
「えっと……以前の仕事をしていた時から付き合ってる人なんです」
 美優が、辿々しく、一つ一つ言葉を繋いでいく。
 以前の勤めていた職場で知り合って、済し崩し的に付き合い始めた事。そろそろ交際期間が二年目を迎えるという事。今の仕事、つまりはアイドル業には少なからず反対された事。立場上、かなり周りに気を付けながら、それでも交際を続けている事。
 そんな事を、まるで綿菓子を舌の上で溶かす様に、美優は幸せそうに口吐いた。
「楓さんにだけは、その……話しておきたくて」
 極め付けは、この言葉だった。
 思っていた通りの、親愛の証だったらしい。堪えきれず、私の唇から細く溜め息が溢れた。
 美優は、私だけには、なんて言う。私だったら分かってくれると思って、とそんな風に言ってしまう。
 何が一体、私だったら良かったのだろう。
 私は、美優が、良かったのに。
 美優と付き合っているのが私だったら良かったのに。
 詰まる所、美優は楽になってしまいたかったらしい。秘密を抱えるばかりの毎日に辟易としていたと言う。私に吐き出してしまって、少しでも気持ちを軽くしてしまいたかったのだと。
「すいません、急に何を言ってるんだって思いましたよね……」
「いえ、大丈夫です……誰かに話して楽になるってこともありますから」
 気持ちは分かります、と末尾に付け足すと、美優は嬉しそうに笑みを零した。そこで私は、口惜しい程に思い知らされてしまう。
 私はどうしたって美優が幸せで在って欲しいし、それを一番に願うべきなのだと。
「秘密の定義って、美優さんは知っていますか
「えっと……すいません、何でしょうか」
「一人で抱えていたら成り立たず、三人以上に知られたら破綻する……二人で抱えているからこそ、秘密は成立するんですよ」
「なんだか、なぞなぞみたいですね」
「元を辿っていくと、クイズだったのかもしれないですね」
 祈るような姿勢のまま握り締めていたグラスが、とっくに生温くなってしまっているのに気付いた。氷が溶けて、注がれていたアルコールを薄めて、とても飲めたものじゃない味へと変化させてしまっていた。
 私の気持ちも、いずれこんな風になってくれるのだろうか。元の形が分からないくらいに溶け出して、揺らいで、最後には透明になって消えてくれるだろうか。
 そうであってくれるのなら、ただただ時間が過ぎるのを待ち続けるしかないのだろう。胸を刺す痛みから必死に目を背けて、幸せな形を創る夢を圧し殺して、必死になって気を紛らわせ続けるしかないのだと思う。
「美優さんの秘密って、私だけに話してくれたんですよね
「ええぇ、そうですね……なかなか人に話せる事でもありませんから」
「それじゃあ、ちゃんと秘密は守ってあげないと、ですね」
 私は、美優の幸せを願い続ける一人の友人に成り下がろうと思う。初めての恋愛で親友にまで辿り着けたのなら上々じゃないか、と必死に自分自身に言い聞かせて。
 何より、それこそが美優の気持ちに応える事の出来る唯一残された道だと思うから。
「本当にありがとうございます、楓さん。話を聞いてくれて、それを秘密にしてもらって……」
「いえいえ。でも、恋人さんがいるんでしたら、早めに帰らないと不味くないですか
「えっと、その……」
 言い淀んでしまう美優を見て、私は勝手に色々と察する。一方的に話だけをして帰りを催す言葉は確かに口吐き難いだろう。腕時計で時間を確認してみると、まだ閉店にも終電にも時間はある。だけどもう夜は深くなるばかりなのだから、そろそろお開きにしてしまった方が良いだろう。
「そろそろ帰りましょうか」手を伸ばして上着と鞄を手繰り寄せていると、美優が慌てて声を上げた。
「今日は、良いんです……実は昨日、喧嘩しちゃって、あまり家に帰りたくないので……」
「そういう時こそ早く帰るべきだって思うんですけど……」
「その……駄目ですかもう少しだけ、一緒に飲んでもらえたら嬉しいんですけど」
 美優は少しだけ顔を俯かせながら、此方の顔色を窺ってくる。上目遣い気味に見つめられて、私は思わずたじろいでしまった。
 その顔はずるい。本当にずるい。縋る様な顔をされてしまって、私が断れるわけがじゃないじゃないか。
「……それじゃあ、終電まで良いでしょうか」
「すいません、御迷惑ですよね」
「美優さんの気分転換に付き合えるなら私は嬉しいですから」
「本当に優しいですよね、楓さんは」
「そんなことないですよお酒を飲めるのは私も嬉しいですからね」
 本当は、美優さんと一緒に、と付け足される筈だった言葉。それが形になる事は、恐らく一生在り得ないのだろう。
 確かに最近の私は、独りでお酒を飲んでいても何処か味気無く感じてしまう様になってしまっている。しかし、それでも美優に優しくしてしまうのは、今も美優の事が好きで好きで堪らないからだ。
 その気持ちを、その想いを、今となっては美優に届ける術は何一つ見つけられないけれど。
 恋なんてものを自覚してしまってから、私の頭の中はずっと美優の事ばかり。
 美優がお酒を飲みたくなる気分も分かってしまう。酔って忘れてしまいたいと思えるような夜も、確かに在る。
「本当に、気分転換も大切ですよね」
 店員さんにお酒の追加をお願いすると、暫くしてまだ少しも薄まっていないカクテルが運ばれてきた。鮮やかな色を映すグラスを見つめて、私の気持ちも新しくなってくれたら良いのに、と思う。美優にとっての親愛なる友人的位置に私自身の居場所を落ち着けて、一刻も早く美優の幸せを切に願ってあげられるような強い人に成り果ててしまいたかった。
 その夜は終電間際まで美優とお酒を飲み、家に帰った。
 玄関を潜り、肩からバッグを擦り落としながらふらふらとベッドに辿り着き、そのまま倒れ込んだ。着替えることも億劫で、そのまま枕を抱きかかえる。
 数分、何も思考が追い付かず呆けて、その後に涙が溢れた。
 美優の言葉が今でも鮮明に思い出せてしまう。
 話の流れで「相手はどんな人なんですか」なんて訊くんじゃなかった。困った様に、だけど何処か幸せに満ちた顔で話を進める美優の顔を見て、胸が痛んだ。必死になって涙を堪え続けていた。今になって、抑えていた歯止めが決壊して、瞳から涙が零れ落ちていく。
「うぁ……あぁぁ……」
 嗚咽が何度も喉に引っ掛かり、呼吸が苦しかった。顔をくしゃくしゃにして、枕に顔を埋めながら泣き続けた。
 涙が溢れる程に、流れ落ちる程に、自分はこんなにも美優の事が好きだったのかと思い知ってしまう。行き場の無い感情が胸の中でぐるぐると渦巻き、吐き気すら催した。
 胸が苦しいのは、きっと心が胸に在るからなのだと思う。焼け焦げてしまうんじゃないかと思う程に、胸が熱い。そうじゃなければ、胸を掻き毟って心臓を取り出してしまいたい衝動に説明がつかない。馬鹿な事だと、とても愚かな事だと自分自身が分かり切っている。それでも、今すぐにそうしなければ、この感情が私の身体を焼き尽くしてしまうんじゃないかと錯覚を抱いてしまう。自分が抱いている恋心をどうにか私と切り離さなければいけないと、強迫観念すら覚えそうだった。
 夜が更けていくのを感じながら、一刻も早く次の季節が訪れる事を願った。通り過ぎて行く時間だけが自分を癒してくれると思った。
 傷だらけになってしまった心をいつか瘡蓋が覆い隠して、癒して強い形に創り変えて欲しい。失恋も綺麗な思い出だったと笑えるくらい、強い人間になりたい。
 明日から、私は一人の友人として美優の恋を応援しないといけない。先程まで出来ていた事だから、きっと明日も上手に出来る筈。いや、絶対に上手にしなければならない。
 だから今だけは、失恋の苦しさで涙を流す私を、どうか許して欲しい。
 ベッドの中で、私は子供みたいに丸くなって、延々と泣き続けた。もしかしたら明日瞼が腫れぼったくなってしまうかもしれないけれど、そんなことも気にせずに。
 ひょっとしたらお仕事だって休まないといけない。だけど、そんな全部が、どうでも良かった。
 いっそ明日なんて来なくても良いとすら思えた。こういう時、どうしたら気持ちが楽になるのか、私には分からない。
 美優が私の初恋だった。そして初めての失恋だったから。
 そして、一睡も出来ないまま朝が訪れた。
 頭が重たくて身体中が気怠るさで悲鳴を上げていた。夜を通して流し続けた涙のせいで喉もからからに渇いている。それでも私は重たい身体を引き摺り、ずるずるとベッドから降りた。
 この瞬間に、私は生まれ変わらないといけない。昨日とは違う、強い人間に。
 私はもう充分に泣いただろう。充分に悲しんだだろう。充分に傷付いただろう。だから、前に進まないといけない。必死になって、そう自分に言い聞かせ続けた。
 それに昨日の今日で仕事を休んでしまったなら、美優にも心配を掛けてしまうだろう。美優の事を想えば、余計な気掛かりを与えたくはなかった。
 随分と長く時間をかけてようやく服を脱ぎ、シャワーを浴びる。食欲はあまり無かったけれど、無理をしてオレンジのジャムを塗ったトーストとヨーグルトを食べきった。腫れぼったくなってしまった目元を隠すように化粧をして、何もかもをいつも通りに取り繕っていく。
 鏡を見ると、今にも泣き出してしまいそうな自分が映り、すぐに目を逸らした。ゆっくりと深呼吸をしてみると、その吐息すら震えた。奥歯をきゅっと噛んで、溢れそうになる涙を必死で堪える。何度かゆっくりと深呼吸を繰り返し、瞼を閉じて数秒間、心の中で大丈夫だと自分に言い聞かせ続けた。
 暫くした後、鏡に向き直り、無理矢理に笑顔を作ってみる。映り込んだのはとてもぎこちのない笑顔だった。
 思わず、ふっ……と吐息が溢れた。昨日あんな事があって、あれだけ泣いた後だというのに笑顔を作れる自分は、確かに笑えた。
 外に出れば、何一つ変わらない朝の光景が広がっていた。雲を少しだけ残した快晴。絶好の洗濯日和。青々とした空の下は、煌々と日に照らされた明るい街並みが視界いっぱいに広がる。
 そう、思えば美優にとっては何も昨日と変わっていない。
 変わったのは私だけなのだから、私だけが上手く出来れば良い。
 そんな風に、何度も何度も、自分自身に言い聞かせた。

 そして、結果……私は失敗した。何もかも、全てに。
 美優にとっての友人に成り下がる事も、私自身の恋を諦める事も。



■■■

 美優がキスしている所を目撃してしまった。

 朝の出勤途中に、私は美優の姿を見つけた。
 とても目敏いもので、私の視線はいとも自然に美優を捉えてしまっていた。
 美優の姿を見つけただけで、私の心は独り手に浮ついていく。昨夜の事があったばかりなのに。恋はどうしてこんなにも面倒なものなのだろう……そう、思わず溜め息を零してしまった。
 一息吐いた後、美優に声を掛けようとして、しかし私はそこで声を詰まらせた。
 美優の隣に、見知らぬ男性が並んで歩いていた。
 その男性が美優の交際相手なのだとすぐに気が付いてしまったのは、昨日の夜に美優から外見の特徴を聞いていたからだった。
 ぐらり、と地面が揺れた気がした。当然それは気のせいで、揺らいだ様に感じたのは私の両足から力が抜けてしまったからだった。その場に崩れそうになり、慌てて近くにあった街灯に手を付いた。
 喉が詰まって、息すら止まりそうな感覚に陥る。浮ついていた筈の心は一気に下降して、急激に冷え切っていく。胸が痛い。張り裂けそうなくらいに、痛い。昨夜の内に覚悟していた筈だったのに、それでも私はどうしようもない現実に打ちのめされた。
 張り裂けそうな胸の痛みに、叫びだしたい気分になってしまう。今すぐにその場から走り去るべきだと思った。何処か遠く、せめて美優の姿が見えない所にまで逃げ出すべきだとも思った。
 だけど、私は出来なかった。
 直後、二人は人の波から離れるように、視線を帯びない横道へと入り込む。一見したら人目は避けられるだろうけれど、しかし私の立つ場所からだと丁度見通せてしまう所へ。

 そして私は、美優がキスしているところを見てしまった。

 映画みたいな空想的なものではなかった。人目を避ける所で性急に済まされる触れるだけのキスだった。
 キスなんてたかが触れて離れるだけ、それだけの行為だというのに、しかし私にとってそれは、まるで一秒を何百にも切り取られたかのような果てしない時間を感じさせた。
 永遠の様な一瞬の中で、私は自分の恋愛感情を思った。
 私は、ただ美優の隣に居られたら幸せだった。
 だからそれは例え恋人関係になれなくとも、ただ傍に居られたら良いのだと思っていた。
 間違いだった……その考えは、何もかもが、間違いだった。
 私にとって美優は欠け替えのない存在だった。
 だけど、美優にとって私は、どうなのだろうか。
 私の胸の中は美優でいっぱいだった。
 だけど、美優の中に、私の居場所は無いのだろう。
 私は思い知ってしまった。
 自分の抱く感情が、どれ程までに大きかったのかを。
 美優に対しての独占欲が、如何に強かったのかを。
 恐らくは美優の交際相手も出勤途中で、少しでも時間を見つけて一緒に過ごしていたのだろう。キスを終えるとすぐに離れて歩き出し、美優は一人その場に取り残された。
 随分と確かになった足で、私は歩き出した。先程の男性と入れ替わるように横道へ入り込み、美優の元へと近寄っていく。
「……美優さん」
 びくっ、と美優の肩が跳ねた。恐る恐ると言う感じに此方を振り返り、私の姿を捉えた。そしてその瞳が私を確認すると、「楓さん……」と、酷く安堵したように溜め息を零した。あぁ見られてしまったのが貴女で良かったとでも言う様に。
 少しの間、静寂が私と美優の間に在った。美優一人だけがばつの悪そうな顔をして、居た堪れないようにそわそわとしている。
「……その、楓さん」
 その空気に耐えられなかったのはやはり美優の方で、怖ず怖ずと唇を開いた。
「なんですか
「えっと……お願いします、黙っておいてもらえませんか
 立場上の問題もありますから、と美優は言葉を紡いでいく。申し訳無さそうにしながら、それでも私だったら分かってくれる、と信頼しきった顔で私を見つめていた。
 それが、酷く私の不快感を煽った。
 その時の私は、何もかもがどうでも良かった。
 自分の事も、美優の事も、どうにかなって欲しいと心の底からから思っていた。

 だから本当に、どうにかしてしまおうと思った。

「……分かりました、私と美優さんだけの秘密です」
 安心した様に、美優はまた溜め息を溢れさせた。
 美優はきっと私の事を信じ切ってくれているのだろう。確固たる友情なんてものが私と美優の間には在るのだと思っているのかもしれない。そんなもの、私の中からはとうに消えて無くなっているというのに。
 友情なんて、全然違う。私が美優に対して抱いているのは友情じゃなくて、膨れ上がって収まりの利かない恋愛感情だった。
「でも、私からもお願いがあります」
「お願い……ですか
 私の願いは、たった一つだけ。
 美優の心の中に、私の存在を置いて欲しい。
 どれだけ小さくて、どれだけ隅っこでも構わない。
 ただ一生、どうやっても消し去れないような痕を、美優に残してやりたかった。
「そうですね……黙っておいてくれるのでしたら」
「えぇ、約束します」
 美優は、また飲みに付き合って欲しいとか、そんなことを言われるとでも思っているのだろう。今日まで私達の距離はそうやって縮まっていったのだから。
 私は少しずつでも美優との距離が縮まっていけば、何時の日かきっと何かが届くのだと信じていた。しかし残念なことに、縮まりきった距離の末、決して向こう側へは行けない壁に辿り着き、永遠に隔たれてしまったのだと思い知った。
 だから私は、その壁に穴を穿つしかない。
 ほんの小さな、辛うじて手が入るかどうかくらいの小さな穴で構わない。私は必死になってその空洞に手を差し入れ、美優の事を捕まえるしかなかった。
「私にも、してください」
「……えっ
 そして捕まえた後は、美優がもう何処にも行けないようにするしかない。
 例え私がどれだけ傷付いたとしても。どれほど美優の事を傷付けてしまったとしても。
「さっき、美優さんがあの人にしたみたいに、私にもしてください」
「か、楓さん……
 美優の表情が、困惑の色に染まっていく。何かの冗談ですよね、と誤魔化しの笑みを浮かべた後に、まるで懇願する様に私の顔色を覗ってきた。だから私は分かりやすくする為に、一度自分自身の唇に人差し指で触れて意図を示してやった。
 しかし美優はそれでも何度か首を横に振って、理解する事自体を拒絶する様な仕草を見せた。悪い夢でも見ているのだと言いたげに瞳を揺らし、そして今にも消えてしまいそうな弱々しい声を零した。
「どうして……ですか
「理由なんて、必要じゃないと思います」
「必要ですだって、意味が分からないです
「それじゃあ分かり易く美優さんに教えてあげますね」
「……」
「美優さんがキスしてくれなかったら、私は先程見てしまった事を、隠しません」
「なっ……」
 いよいよ、美優は言葉を失くした。夢なら醒めて欲しいと、頭を何度も横に振るばかりだった。
 何もかもがどうでも良かった私はそんな美優を見て、思わず笑んでしまった。笑わないとやっていられないくらいに、全てが馬鹿馬鹿しく思えたから。
 自分でもどうしてこんな事になってしまったのか、よく分からない。利己主義を突き詰めたらこうなるのだろうか。気分が良いかと問われたら、決してそんなことはない。それでも私が笑っているのは、自分自身への精一杯の誤魔化しだった。
 美優はきっと傷付いているのだろう。嘘みたいな話だけど、私は傷付けたかったわけではない。優しくしてあげたかった。誰よりも、美優を大切にしたかった。今となっては、二度と叶わない話だった。
 だからもう笑うしかなかった。笑って、笑って、これが私の本当に望んでいた事なのだと思い込むしか無い。衝動ではなくて、本意から連なった結果なのだと。
「もう一度言いますね美優さんが私にキスをしてくれなかったら、私はさっきの事も、美優さんに付き合っている人がいる事も、絶対に秘密になんてしてあげません。たとえ美優さんがどうなっても、私がどうなっても」
「どうして……なんで……」
「どうしても、なんでも、ですよ」
 どうしますか、と私は試すように小首を傾げて、美優の顔を覗き込む。美優は一瞬怯えたような表情を浮かべて、私から目線を逸らしてしまった。
 美優は相変わらず狼狽えてはいたけれど、時間が過ぎていくに連れて少しずつ思考が回り始めたらしい。そうなると、人間は真っ先に損得勘定を始めていく。
 そしてようやく、「キスしたら……」と確かめるように美優は小さく声を零した。
「キスしてくれたら、何もかも、元通りです」
「……分かりました」
 口を噤んでいた美優が、再度私に向き直る。私は何も言わず、ただその様子を見つめていた。
「いつでもどうぞ」と一言だけ紡ぐと、美優はきゅっと奥歯を噛み、私に身を寄せた。
 微かに踵を浮かせて、体勢が崩れてしまわぬようにと私の胸元に両手を添えてくる。
 唇が寄せられ、美優の瞼が伏せられる。そして、触れた。
 最初に感じたのは、震えだった。柔らかい、なんて感じたのは随分後の話。
 私は、先程のキスを拭えたのならそれで良かった。上書きされて、今の美優の頭の中が私でいっぱいになってくれたなら、それだけで良い。
 今までずっとキスはもっと情熱的で、感情的なものだと私は思っていた。だけど現実は、本当に触れて離れるだけの行為なのだと知ってしまった。
 急激に冷え切っていく脳内は、何処か絶望に似たそれを感じさせる。ただそれでも、私は微かにだけど幸せを感じてしまっていた。友情に縋っていたなら、美優とキスをする未来なんて永遠に訪れなかった筈だから。
 幸福感を覚えてしまっている自分に気付くと、私は酷く零落れてしまったのだと自覚させられた。キスを強要するなんて、強姦魔とまるで違いが無いじゃないか。
「……これで、良いですか
 唇を離した美優が、怖ず怖ずと訊ねてくる。何処か怯えた表情を浮かべる美優を安心させる為に、私は意図して笑みを浮かべた。
「えぇ、これで何もかも、元通りです」
 その言葉は、何もかも全てが嘘で出来ていた。。
 何もかも元通りになんて、絶対になってくれない。
 私と美優の関係が今まで通りで在れる筈がなかった。
 だから私は美優を絡み捕り、繋ぎ留める為だけに言葉を連ねていく。
「それじゃあ、また私がお願いしたら、してくださいね
「か、楓さんっ!?
「美優さんが私のお願いを訊いてくれたら、私も美優さんのお願いをちゃんと聞いてあげますから」
 もう戻れない所にまで、私は堕ちてしまっていた。だけど其処に美優まで引き摺り込んでしまおうとまでは思ってはいなかった。
 キスを終えてほんの微かに理性を取り戻した私は切に思った。
 これでも私は美優の幸せを願ってしまっている。
 美優自身が、誰よりも幸せになって欲しいと、どうしても想ってしまっている。
 だから少しだけ、ほんの少しだけで良い。私の我が侭を聞いて欲しい。
 私がちゃんと失恋を出来るまで、ほんの少しだけで構わないから。
「……わかりました」
 美優は、諦めを含んだ顔のまま、静かに一度だけ頷いた。その表情が酷く私の胸を射ち、痛みを与えてくる。
 もっと幸せそうにして欲しいと思っていた筈なのに。友人として見守っていてあげようと思っていた筈なのに。何もかも失敗した今となっては、もう叶わないものばかりだった。
 それでも、大切に思っていた事を思い出せた辺り、触れて離れるだけの行為にも意味があったのかも知れない。私はそんな風に割り切らなければ、居た堪れなかった。
 いつか心から美優の幸せを願える時が訪れたら良いと思う。
 そう成れる様に、今は恋愛モラトリアムに浸らせて欲しい。
 ほんの短い時間でも、偽物の幸せを夢で見ていたい。
「お仕事、行きましょうか」
 いつか私が傷付けた美優を私の知らない誰かが癒して、心から幸せにしてあげて欲しい。身勝手に思い願うのは、美優の幸福ばかり。何度か想像してみたけれど、どうやってもその光景に私が写っていなくて、酷く笑えてしまった。
 私が癒してあげられて、私が幸せに出来たならどんなに良いだろうか。そんな叶う筈の無い夢を暫く思い浮かべ、切なくなり、昨夜のように私はまた泣きなくなった。
 こういう時にこそキスが必要なんだろうなぁと、私はそんな事を考えて、もうどうやっても手遅れな関係性から目を背けた。



■■■

 昼過ぎから降り始めた雨は午後三時を少し過ぎた辺りでぴったりと止んだ。強く吹いていた風が雲を攫い、随分と遅れてお日様が顔を出す。それが恥ずかしかったのか、暫くすると空は赤面して街を紅く染め上げた。照れて恥ずかしがってしまうそれがなんだかとても可愛らしく思えて、私は思わず溜め息混じりに笑みを零してしまった。
 やがて夕焼けが夕闇へと移り、いよいよ恥ずかしさに堪えられなかったのか空は濃藍色に染まった。透き通るくらいに見えていた蒼色だったのに夜空には一つも星が見えなくて、ひょっとしたら星も空に似て恥ずかしがり屋なのかもしれなかった。
 いつの間にか点いていた街灯が目立ち始めて、街を橙色に染めていく。雨で濡れたアスファルトは未だ渇かず湿っていて、街が降らす灯りを反射させていた。足元で反射する光は薄寂しい空よりも余程星空らしかった。
 夏が過ぎ、残暑も顔を潜めて本格的に秋が訪れ、夜はもう肌寒さを覚えさせた。歩道橋を渡る際に視線を降ろせば、車のライトが早送りで揺れ動く蛍火の様に軌跡を残していく。交差点で停止している車は揃って赤色を点灯させ、流れ降りていくのを待つ灯篭を思わせた。
 眠らない街を歩く人の波に逆らわずに、私もゆらゆらと流されていく。
 世界は何も変わらない。変わるのは精々季節に伴って色を併せるイルミネーション。気付かない内に潰れていたパン屋に代わって新しく開かれたアクセサリーショップ。そう言えば、と気付いてようやく変化を感じられる程度のものが繰り返されていく。
 少なくとも私と美優が変わった所で、何一つ変わらない日常が流れ続けていた。
 あれから、何度も何度も美優とキスをした。それ以外、私と美優も、何も変わらなかった。
「美優さん、今夜空いてますか
 仕事終わり、帰宅途中。隣に並んで歩いていた美優に訊ねてみる。美優との距離感は縮まることはなく、しかし何故か離れることもなかった。
 キスをしてしまったあの日より以前と変わらず、お酒を飲みに行ったりしている。お仕事も変わらない、プライベートも変わらない。もっと距離を置かれると思っていた私は何だか拍子抜けしてしまって、少なからず混乱もしていた。
 ひょっとしたら慣れてしまったのだろうか。それとも秘密を洩らされるのを恐れているのだろうか。美優は私のキスを拒みもしないし、触れている最中に彼女から震えを感じることもなくなっていた。本当に触れて離れるだけの口付けを意味も無く繰り返して、最近の私はそんな行為が一体何になるのだろうかと頭を抱えてしまっていた。
 それでも私が美優にキスを強請るのは、未だに美優に対しての恋心を少しだって棄てられていないからだった。触れる度に、私の中に未練が募っていく気がする。美優の幸せを願うならば、今の関係自体良くはないと分かりきっているのに。それでも私は自分の欲望に抗うことは出来ず、自分の心に囚われ、美優の事を捕らえてしまっている。
「今日は……ちょっと不味いですね」
「あぁ、恋人さんですか
 何となく、こういう所で変に気を使ってしまう辺りが美優との距離感が変わっていない原因なんじゃないかとも思っている。最初は美優も色々と警戒心を出していて、それでも私が当たり障りなく接してしまっていたから、今はもうそんな気配は微塵も感じられなくなっていた。
 美優は私とのキスをどう思っているのだろう。その事が私は心から気になっている。キスをするだけで、何も変わることのない平穏な日常が送れるのならそれで良い、とでも思っているのだろうか。
 それとも何か私の気持ちでも察して、気を使わせてしまっているのだろうか。どうしてもそれを問い質す勇気が沸いてきてくれなくて、何もかも宙ぶらりんなまま、私は今日も変わらず美優に甘えている。
「いえ、そうじゃなくて……最近いつもご一緒してるじゃないですかちょっと、お財布事情が……」
「あぁ確かに……それじゃあ家飲みにしましょうか
「えっでも私の部屋は……」
「私の部屋で良いですよ。お酒を買って帰りましょう。あぁ、もちろん泊まっていってもらっても構いませんから」
「……楓さん、自分の部屋だからってかなり飲む気ですよね」
 可笑しそうに笑みを零す美優を見て、どうしても私は愛しさを抑えられない。街の灯りがきらきらと美優の周りに降り注いで見える。私の瞳には美優がこの街で一番綺麗な女性に映ってしまう。そして同時に、やはりどうしても恋心を棄て去れそうにないと、改めて思わされてしまった。
 ──いけない、そう強く思った。いつかは諦めないといけない恋なのだと、分かっている。それなのに、胸の中にはどうしたって、雪のように恋情が募っていってしまう。
「……脅迫相手の部屋にお酒を飲みに行くって、なんだか可笑しな話ですね」
 いっそ突き離してくれないものかと冗談めかしてそんな事を言ってみれば、美優は微かに困った様に笑みを浮かべた。
「そんな風に思っていたら、こんな風に隣にいませんよ」そんな言葉を、何処か諦めたように零した。
 だったら尚更の事、美優は私の事をどんな風に思っているのだろうか。キスだって本気で拒んでくれたのなら、二度と求めたりしないのに。私は、どれだけ脅迫染みた事を口吐いたとしても、心までを落とし込もうとまでは思っていなかった。
 本当に、どうしたら良いのだろう。何もかもが思っていた通りの展開にはなってくれない。恋はどうしてこんなにも難解な上に、模範解答すら無いのだろうか。
「……実は家にちょっと良いスモークチーズがあるんですよね」
 ただ今は、恋の衝動に駆られて、その衝動にだけは逆らわず生きたいと強く思った。
「それはまた魅力的ですね」
「ちょっと良い日本酒もあったりするんです」
「凄い誘惑されちゃってますね」
「えぇ、誘惑しちゃってます」
「悩みますね……」
「……美優さんと飲む為に用意した、って言ったら揺らいでくれますか
 言ってしまってから、少しだけ後悔した。酷く顔が熱くなって、つい美優から目線を逸らしてしまった。本当に美優といつか飲めたら良いなぁと思って用意した物ばかりで、困ってしまう。これだと、気持ちが完全に透けてしまうじゃないか。
「……本当に困りました。くらくらしちゃいます」
「無理強いとかじゃなくて、えっと……本当に、嫌じゃなかったら、ってことで……」
 随分と辿々しく、それに力無い声が自分の喉から溢れてくる。それが可笑しかったのか、美優はくすくすと笑みを零した。
 美優を直視出来ない私は怖ず怖ずと盗み見るようにして、その笑みの元を辿っていく。そこには何処か諦めを含んだ優しい表情を浮かべた美優が居て、私はまた胸がきゅっと痛くなってしまった。
「それじゃあ、終電に間に合うくらいの時間まで、お邪魔させてもらいます」
 私は、この恋を諦められるのだろうか。
 美優の表情には何処か幸せな色が滲んでいて、私は泣きそうになってしまった。この表情が好きで、何処か呆れたような口調が好きで、私は美優に恋してしまった。
 どうしたらこの恋を諦めることが出来るのだろうか。
 そんなことばかりを悩みながら、同時に鼓動が駆けていくのを感じる。
 これは所謂お持ち帰りというやつなのではないだろうか、とそんな言葉が脳内を巡っていく。浮つく心を感じて、あぁ私はなんて単純な人間なんだろうと笑えてしまった。
 それでも今夜も美優と一緒に過ごせるのだと思うと、単純でも何でも良いと思えてしまうくらい、私は嬉しくて仕方が無かった。



■■■

「何か軽く作りましょうか」
「良いんですか
「冷蔵庫の中の物を使っても良ければですけど」
「どうぞどうぞ。本当に何でも好き勝手にしてあげてください」
 私の言う些細な冗談で笑みを零してくれる美優の事が、どうしても愛おしく思えて仕方が無かった。
 部屋に戻り、上着を脱いで、私の方はテーブルの用意をしていく。別に部屋を汚して使っているわけではないので、やることはお酒を用意するだけ。グラスを並べ終わると、私の方はすぐに手持ち無沙汰になってしまった。ぼんやりと台所に立つ美優の背中を見つめて、自然と色んな事を想像してしまう。
 美優は、自分の部屋に居る時にもこんな風に台所に立って、料理をするのだろうか。私の知らない誰かの為に二人分のご飯を用意して、やがてテーブルに運んでいくのだろうか。
 そんな事を考えると、どうしようもなく切なくて、苦しかった。
 私の脳内は、常に二つの幸せが混濁している。
 一つは私個人の欲望で、もう一つは私が想像する美優の日常。
 どうあってもその二つの幸せが重なり合う事は無いのだと分かっている。今、こうして美優と一緒の時間を過ごせているのも、都合の良い夢を見ているだけなのだと思えてしまう。
 いつかその夢が醒めてしまった時、私はどうなってしまうのだろう。
 私は、何もかもが全部壊れてしまったなら良いと思えてしまう。そうしたら、二度と恋なんて出来ず、私は美優と交わしたキスだけを思い出にして生きていけるのに。
「お待たせしました」
「……あの、美優さん」
「はい
「軽くって言いましたよね
「えぇ、冷蔵庫の中にあった物でさっと作っただけですけど」
 確かにあっと言う間に作ってはいたけれど。冷蔵庫にあった物だけで作られてはいるけれど。
「……美優さんって、凄いですね」
 並べられた料理を見て、私は唖然としてしまう。これは確かに、独り身でいる方が不思議になってしまう。
「……これ、何ですか
「えっと、グラタンもどきです」
「もどき
「ジャガイモを軽くマッシュした後に牛乳で浸して、チーズを乗せてオーブンで焼いただけですから」
「……これは
「冷蔵庫にトマトとたまねぎがありましたからサルサみたいな物を作りましたけど、軽く摘まむ分には良いかなぁと」
「じゃあこっちは何ですか
「それはオーブンで焼いてる間に作ったお豆腐を卵と一緒にフライパンで焼いて、葱と鰹節を乗せただけです」
「……」
「あ、ちなみに味付けはめんつゆですけど、良いですか
「良いも何も、美優さん凄いとしか言えないです……」
「おだてても何も出ないですよ、もう」
 もう既に充分過ぎる料理が出て来てしまっているのだけども。
 正直、少しも躊躇わずに思ってしまう。
 一家に一人、美優さんが欲しい。
「良い日本酒って聞いてしまったので、ちょっとだけ頑張っただけですから」
「正直、美優さんの料理には適わないって思いますけど」
「だから本当に褒め過ぎですってば……頑張ったって言いましたけど、本当に簡単な物ばっかりですからね
 冷やしておいた日本酒を開け、グラスにそれぞれ注いでいく。テーブルに向かい合って座って、静かにグラスの縁を当てた。からん、と小さく音が響いて、二人して小さく微笑んだ。
 何もかもが揃っている夜だと思った。
 美味しいお酒に、料理もあって、美優もいる。
 何もかもが本当に揃っている筈なのに、一つだけがどうしても足りない。
 一見したら幸せに満ちた夜だと言うのに、私と美優は恋人じゃない。ここに愛情が一匙でも在ったのなら、もっと良かったのにと、私はどうしても思ってしまう。
「これ、本当に美味しいですね」
 美優が驚いた様に口元を押さえて、何度かグラスに注がれた日本酒を見つめた。それから視線を私の方に向けて、本当に飲んでも良いんですか、と小首を傾げて訊ねてくる。なんだかその仕草がとても可愛らしくて、可笑しくて、私はさっきまでの悩みがとても馬鹿馬鹿しい物に感じた。
 美味しいお酒があって、料理もあって、美優も居てくれる。充分過ぎるじゃないか。それだけで私は幸せになれてしまうのだから。
 どうぞ、と手のひらの仕草だけで意図を伝えると、美優は朗らかな笑みを浮かべてくれた。ああもう本当に、やっぱりこれだけで充分だと私が感じてしまうくらいに、綺麗に笑ってくれた。
 私は、もう酔ってしまっているのかもしれない。
 どうしても今の瞬間が幸せ過ぎて、夢を見ているような気持ちにさせられてしまう。この時間だけを切り取って、ずっと繰り返していたいと思ってしまうくらいに。
 もし私が酷く泥酔しているのか酩酊してしまっているのなら、もっと酔いたいとすら思えてしまう。アルコールに溺れるなんて逃避だって笑われてしまうかも知れないけれど、逃げ道があるだけで充分だろう。
 行き場の無い、寄る辺も無い感情だってある。立ち往生を続けるしか出来ない私の恋情より、ずっと余程ましなものだろう。
「スモークチーズ、手を入れなくて良かったですね」
 ぽつり、と降り始めた雨みたいに美優は言葉を零す。
「とても良い物でしたから、このままでとても美味しいです」そしてほんのりと朱に染めた頬で笑んでくれた。
 暫く、在り来たりで他愛の無い会話が続けられた。
 そろそろ本当に秋物の服を出さないといけない。次は冬の服も買わないと。まるで地球と『ひまわり』みたいだった。延々と回り続ける人工衛星の様に、肝心だろう事柄には触れず、一定の距離を保ちながら私達は言葉を交わす。
 それがとても心地良くて、堪らなかった。
 暫くすると、美優は手首に着けた時計に視線を落とす回数が増えていった。何度も時間を確認していて、その度に少しだけ困った様な顔をする。
 私は、夢が醒めてしまう時間が近付いているのだと悟ってしまう。
「そろそろ時間ですか
「そうですね……終電の時間も近付いていますし」
 魔法の時間は終わりを迎えようとしている。
 シンデレラでいられる時間が終わり、灰被りへ戻ってしまう時間が。
 現実は何処までも残酷で、私に優しくない。仕方が無いことなのだと分かっていながら、それでも切なさに胸が苦しくなってしまう。
 美優は、本当に困った様な顔をしていた。私が本当に困ってしまうのは、曇り気味な表情すら、美優は本当に可愛いと思ってしまうことだった。
 何をしていても、どんな顔でも、きっと泣き顔でも可愛いと私は思ってしまうのだろう。
 恋の病も極まると此処まで至ってしまうらしい。
 それでも私は、徐々にその病が治まっていってくれてると感じていた。初めてキスをした時より、そして昨日より、私は純粋に美優の幸せを願えている。やがて醒めてしまう夢なのだと、私はちゃんと分かっている。
 だから少しずつでも、美優を元の幸せな場所へ帰してあげないといけない。

 ──そう、心から思っていたのに。

「……帰りたくないなぁ」
 どうして、美優はそんな言葉を紡いでしまうのだろう。
 静寂が、私と美優を包む。
 時間が少しずつ、ゆっくりと過ぎていく。魔法が解けてしまうだろう瞬間が近付いて来る。
 切なげな声を零した美優は、私と視線を合わせない。私は息を飲んで、ただ静かに鼓動の高まりだけを感じた。
「……また、喧嘩しちゃったんです」
 また、一言。美優はグラスに口を付けてゆっくりとお酒を飲み、細く溜め息を溢れさせた。
 ついうっかり、という感じで美優は何処か苦しそうに声を紡いでいく。私にはどうしてもその姿が隙だらけに見えてしまった。
 そして更に困った事に、美優はその隙を意図して見せているようにも感じてしまう。
 だから私は、その隙に付け入るしかない。この夢が醒めてしまわぬ様に。もう少しだけで良い、幸せな夢が続いてくれる様に、と。
 手にしていたグラスに残っていたお酒を一口で飲み干し、私は静かに席を立った。テーブルを挟んで対面に座る美優にそっと近付いて、背中側に回る。美優は私に視線を送らないまま、何処か遠くを見つめていた。
「帰らせない……って言ったら、美優さんはどうしますか
 するり、と両腕で美優の身体を抱き締める。何処にも、逃げられないように。
 アルコールが入ったその身体から、微かな火照りを腕に感じた。柔く伝わるその熱に、私は心まで火傷してしまいそうだった。
 間近で感じる美優の香りが鼻腔をくすぐる。一番欲しいと思い続けたものが腕の中に在る。表面的だとしても、その事実に心が溶けていきそうになる。縋るように、同時に何処にも行けぬように美優の事を捕らえ続けた。
 時間だけが、留まり続けた私達を追い越して、通り過ぎていく。
 何度目かの静寂の後、静かに美優が唇を開いた。
「……どうしましょうね」
「どうにもさせてあげません」
 間髪入れずに私が言葉を連ねる。美優がまた困った様に笑みを零した。しかしその表情とは裏腹に、私の腕を振り払うことなんてしないまま私に捕まってくれていた。
「……本当にどうしましょう」
「美優さんに選択権なんてないんですよ」
 ぎゅう、と美優の事を抱き締めながら、一度大きく息を吸い込む。
 鼓動だけがいつもの何倍も早く駆けていく。
 私は、覚悟しないといけない。
 ゆっくりと諦めるだけだった筈の恋の苦しみに明日からも苛まれる覚悟を。
 この夢が終わってしまわない様にする為に、跳ばないといけない。身を投げ出し、堕ちてしまわないといけない。
 何処までも狡い人間に成り下がり、確かに在った美優の幸せを穢す為に。
「美優さんは、仕方が無いんです。私に秘密を知られてしまって、そのせいで脅されてしまったんです。だから、どうしようもないんです。私はずっと加害者で、美優さんはずっと被害者のままなんです。だから私に脅されて、言い成りになってください。例えば、私に……」
「楓さんに
「……犯されてしまっても」
 その瞬間、初めて美優は驚いたように肩を跳ねさせた。
 私はより一層腕に力を込める。決して逃げられない様に、美優の身体を抱き締め続けた。
 胸が苦しくて、息が止まりそうだった。
 口吐いた言葉に自己嫌悪を覚えて、死にたくなってしまう。
 両腕が震えて、奥歯を噛み締める。
 私はまるで崖から落ちる寸前の様だった。必死になって美優という枝木を掴み、しがみ付いてしまっている。そんな子供みたいな頼り無さが伝わってしまったのか、美優は静かに安堵の吐息を溢れさせた。
「楓さんは……したいんですか」静寂の中に美優の声だけが透き通っていく。
 こくり、と喉元に引っ掛かっていた唾液を飲み込んで、「したい、です……」と震える声で、私も答えた。
「どうしてですか
「……言わないと、駄目ですか
「私は脅されているみたいなので、教えてもらえないかもって思っています」
 不意に、私の手のひらに、美優の指先が触れた。臆病に震えている私の手は、とてもじゃないけれど加害者とは思わせられそうになかった。そんな私に、美優は何処か慰むようにして触れていく。
「……でも、教えてくれたら、変に抵抗とかはしないかもしれません」
 美優はどうして私を拒まないのだろう。一緒に居てくれる事も、キスも、今こうして抱き締められている事も。その理由を私は必死になって模索した。
 例えば、私との時間の中で僅かでも幸せを感じてくれていたのなら。
 もしかして、口付けに依って私の恋情が少しでも伝わっていてくれていたのなら。
 ひょっとして、今日までの間に微かでも愛しさが芽生えてくれていたのなら。
 そんなのは全部、都合の良い私の憶測で、妄想なのだと思う。
 だけど私はそれに縋るしかなかった。
 行き場の無かった筈の恋情だったのに、その目の前に扉が生まれた。都合良く、鍵はあちら側から開けられている。戸を叩くなんて必要ない。躊躇う必要もない。後は私がその扉を開いてしまうだけだった。
「美優さんが、好きだから……」
 募っていた恋情の言葉が夜に溶けていく。
 言ってしまった……そう、まるで他人事みたいに思った。
 そしてすぐに私は、しまった、と大慌てで言葉を連ねた。
「ただ、美優さんには交際している方がいるのも分かっていて、私の気持ちなんて絶対に届きはしないって分かっているんです
「楓さん」
「だから、さっきのは告白とかそういうのではなくて、私と付き合って欲しいとかそういうのじゃなくって
「あの、楓さん
「ただ心は駄目でも、身体だけでもって思っちゃって、だから、あのっ……あぁでも、美優さんに嫌われたくないっ……」
 初めて、好きな人に想いを告げてしまった私の頭の中は統御不能に陥っていた。
 声は怯えたものから涙声に変わっている。瞳の奥が熱くて、今にも泣き出してしまいそうだった。
 あぁもうお願いだからこの夢が醒めないで欲しい。私の事を嫌いにならないで欲しい。そんな事ばかりを私は必死になって思い願っていた。出来る事なら、全てをやり直したかった。
 酷い事を言う覚悟をした癖に、なんで私は泣きそうになっているのだろうか。たくさん傷付けた筈なのに都合の良い事ばっかり思ってしまう。私は、最低だ。
 それでも、どうしても、美優にだけは嫌われたくない。
 そんな事が頭の中でぐるぐると巡ってどうしたら良いのか分からずにいると、美優に笑われてしまった。もう堪えられないと言うように、とても可笑しそうに美優の唇から笑みが溢れていく。
「な、なんで笑うんですかっ
「だって、楓さんが必死過ぎて」
「ひ、必死にだってなりますよ……」
「……どうして、私なんですか
 美優はまた困ったような声を零して、私は初めて後悔した。
 困らせたいんじゃない、幸せにしたいって、やはり私は心から思い願っていた。幸せに笑っていて欲しくて、その為にどんなことだってしてあげたかった。
 それでも私は、もう戻れない所まで来てしまっているらしい。
 隠していた恋情も美優に伝わってしまった。
 もう何もかも諦めてしまおう。
 今更どんな嘘の言葉を並べ連ねても、きっと意味がない。
 後はもう、私がどれだけ美優のことを好きかを伝えることしか出来なかった。
「……どうして私じゃなくて、他の人なんですか
 美優と同じ様な言葉を紡ぐ。その言葉に美優は何も返してはくれず、また沈黙が続いた。
 気付いていたら美優に恋していた。だから『どうして』なんて聞かれたって私には分からない。ただこの世界で一番幸せにしてあげたいのが、美優だった。そう、私の中では何もかも美優が一番だった。
 私にとって恋とは、本当にそれだけの事だった。
 魔法が解ける筈だった時間は通り過ぎていた。目覚めてしまう筈だった夢は、静かに続いている。
 美優が手元のグラスに唇を付け、僅かに残っていたお酒を飲み干した。そうしてから細い息をゆっくりと零して、手首に着けていた時計を外し、テーブルに残した。
「ベッドに、行きましょうか」
「い、良いんですか
「駄目でしたか
「駄目じゃない、です……けど……」
「……何も考えられないようにしてください」
 美優の指先が、彼女を捕まえていた私の腕をゆっくりと解いていく。
 静かに椅子から立ち上がって、もうどうしようもないのだと言いたげに、私を見つめた。
「それが、今一番幸せになれるって思いますから」
 美優に腕を取られ、ベッドまで誘われていく。その甘美な誘惑に逆らう事なんて、私には出来そうもなかった。
「……いざ裸を見られるってなると、緊張しますね」
「私も、上手に出来るか不安で凄く緊張してます……」
「お揃い……ですね」
 照明を落として薄暗くした室内で、美優のくすぐったそうな笑みだけが私の瞳には鮮明に映った。
 何もかもが本当にお揃いだったら良いのにと、そんな風に思う。愛情が同じ形をしていて、向かい合ってくれたら本当に良かったのに。
 ただ今は、美優の言葉通り、何も考えられない様になってしまいたかった。……真面目な話、そんなどうでも良い事は、これから考えられそうにはなかったけれど。
「がんばって、幸せにしますね」
 私が必死になって紡いだ言葉に、美優は瞳を伏せて応えた。
 唇を寄せて、触れていく。
 いつもよりも深く、深く。
 それは、何回目のキスだったのだろうか。
 今日も僅かばかりで構わない、美優に想いが届いて欲しい、と願った。
 幸せになるのは、どうしてこんなにも難しい。
 幸せにするのは、どうしてこんなにも難しい。
 そんな理性的な事も、蓋をしてしまおう。
 ただこの瞬間だけは体温だけを分かち合って、満たされてしまいたい。
 この世界で一番好きな人と、繋がれるのだから。




※アフターストーリーです

■■■

 私はどれくらい愛されているのだろう。そんな事が不意に気になってしまう瞬間がある。
 この世界では偶然なんて物は無く、何もかも全てが必然で形作られているなんて言う人もいる。私はそういった論者ではないけれど、そんな言葉を借りるとするならば、きっとこの瞬間に愛情の定かさを気にしてしまったのは偶然ではなく、運命の様な必然なのだと思う。突然だったり唐突だったりする事には意味がある。変な連想ゲームを続けた結果、私はそんな所に行き着いた。
「どう、したんですか……
 私に覆い被さられたままだった美優が、ぽつり、と声を漏らした。変な思考回路に迷い込んでしまっていたせいだろう、私の指先や舌の動きが酷く緩慢になっていた事を不思議に思ったらしい。
「いえ、なんでもないですよ」とすぐに声を紡いでみたものの、しかし美優は釈然としない表情を浮かべた。何処か心配そうな顔をして、私の瞳を見つめてくる煙水晶に似た瞳が夜の色を深めて、私の心を探るように捉えてくる。
 一度、その視線から逃げるように、美優から顔を背ける。それから怖ず怖ずと視線を戻してみたけれど、やはり変わらず美優は私の言葉を待ち続けていて、切なそうに瞳を細めていた。
 参ったなぁ、と溜め息を零し、私は観念したように「ちょっと、愛について考えていただけですよ」と言葉を紡いだ。
「愛……ですか
 その言葉の突拍子の無さに、美優は一転して目を丸くさせた。情事の最中だったと言うのに、きょとん、と呆けた顔をして、小首を傾げて見せた。
「どれくらい愛されているのかなぁ、とかそういうことです」
 何となく、それじゃあこのままエッチの続きをしようか、と言える雰囲気でも無くなってしまったので、私は誤魔化すように美優の髪を一度くしゃりと撫ぜた。私に髪を撫でられた美優は、少しだけくすぐったそうに首を窄めてふにゃりと笑みを浮かべ、「愛してますよ、楓さん」と甘ったるい声を零した。
「私も、美優さんのこと愛してます」
「嬉しいですね……でも、きっと楓さんが欲しい言葉って、こういうのじゃないですよね」
 美優はこういう時、本当に聡い。私達は恋愛に関しては未だに未成熟かもしれないけれど、人の心に愚鈍で在り続けられる程に幼い子供ではなかった。あっさりと美優に心の内を見透かされ、私はまた参ったと照れ隠しに笑みを浮かべた。
「こういう時、どれくらい愛してるのかって……そういう事、上手く言葉に出来ないんですよね」
「私もです。何かと比較するのも違うって思っちゃいますし……」
 うぅん、と美優は顎の下に人差し指を当て、考え込む仕草を見せた。深く考え込む時、美優は決まってこの仕草をする。ちょっとだけ私の好きな、美優の癖だった。
 お話を戻して、愛について。例えば私はお酒が好きだけど、それと美優を比べる事はしたくなかった。確かに、それは定かな基準にはなってくれると思う。お酒よりも愛しています、なんて口にしてしまっても良い。だけどそれを言って貰ったとして、美優の気持ちはどうだろう。比較対象を出されてしまう事実こそ、私は不安を煽るのではないかと思ってしまう。
 例えば、もしもこの先、お酒よりも好きな物が出来てしまったらどうなるのだろう。その時に、決まって美優と比較対象になっていくに決まっている。更に言うのなら、その比較対象は物と限った話ではない。仮定の果てとして、誰かと誰かを比較する事になってしまうのは、余りにも容易に想像出来た。
 愛は無価値で無ければならない。私はそう思っている。
 無償の愛が素晴らしいと言うつもりは毛頭無い。だけど価値を付けてしまうことが、とにかく怖かった。大きさなんて関係無い。ただ胸の中に少しだって薄れる事無く、出来る事なら永遠に近い時間、私の中に美優に対する「恋愛感情」が綺麗に咲き続けていて欲しいと思う。
 更に連想していく。愛を花と比喩するのなら、水を初めとした栄養素は必要になる。例えば二人で過ごす時間。例えば触れた時に共有する体温。唇や指先で繋がる事でも、栄養の供給や共有は出来るだろう。
 あぁ、そういえばこうして夜を迎えて身体を重ねるのも愛を育む為なのだと思える。本能的に話してしまうなら、好きな人に触れられるだけで幸せになる事が出来る。触れる事でその幸せを伝えたいし、共有したいし、美優の事を幸せにしてあげたいと思う。
 ふと思い至る。美優は、私を求めてくれる時ってあるのだろうか。もう少し具体性を帯びた言葉にするなら、
「……美優さんって、私をオカズにしたことってありますか
 そう、こんな性的な意味で。
「お、おか……えっ、えぇっ!?
 とても真面目な雰囲気だった筈なのに、私の一言でその空気は完全に崩された。「な、何言ってるんですかいきなり」と美優は慌てふためいて、恥ずかしそうに両手をぱたぱたと振っていた。
 羞恥心に苛まれる美優は、何時見ても堪らなく可愛らしい。そういう可愛らしさを見せてくれるのだから、私はついつい加虐心をくすぐられてしまう。意地悪したくなっちゃうのは、美優のせい。きっと仕方が無い。
「だって、セックスレスはカップルが別れる原因になるってよく聞く話ですし……」
 図々しくそんな事を言ってみれば、「今まさにしてた所じゃないですか」と即座に反論されてしまった。確かにその通りだったので、言い返す言葉が無い。仕方が無いので、私は別の手段を講じる事にした。今度はわざとらしく拗ねて見せる事にする。
「でも、私はその……やっぱり、美優さんの事が好きだから、そういう事がしたいって思うんです」
「それは、その、嬉しいですけど……でも恥ずかしいですからっ……」
「怒らないで聞いて欲しいんですけど、美優さんが恥ずかしがっている所だって見たいんです」
「ど、どうしてですか」
「美優さんの他の人には絶対に見せない様な顔を、私だけが知ってる……そういう独占欲です」
「な、なるほど……で、でもですよ、楓さんそれとさっきの、その……お、おかず、とは……全然関係無い気が……」
「それはですね、美優さんにどれくらい求められてるのかなって、そういうことです。これも独占欲ですね……あんまり束縛するのは良くないって、分かってるんですけどね」
 ここでわざと申し訳無さそうな顔をして見せる。意図した通り、美優は絆されてくれて、それ以上言及して来ようとはしなかった。私って狡いなぁって改めて思う。同時に、美優はなんてちょろいんだ、と不安にもなる。やっぱり、少しくらい束縛するくらいの方が良いのではなかろうか、と思い悩んでしまう。
「あ、あの……」
「はい
 うぅん、と悩んでいると、美優は本当に躊躇い気味に口を開いた。しかし、私に声を掛けたものの、それから暫く続く言葉は紡がれなかった。あぅ……、うぅ……、と暫く唸る様に言葉を濁らせ、視線を泳がせ続ける。ちらり、と私の顔を覗き見たと思えば、美優の表情は羞恥心に染まり、すぐに逸らされてしまった。
「なんですか」と、自分でも甘ったる過ぎると思えるくらい優しい声を紡ぐと、美優はきゅっと唇を噛んだまま、暫く私の瞳を見つめた。その瞳には微かに涙が浮かんでいて、ゆらゆらと潤んでいる。一度、逃げるように美優が俯き、それからゆっくりと息を吐いて、意を決したとばかりにまた顔を上げる。未だに羞恥心の薄れない表情のまま、怖ず怖ずと美優が閉じられ続けていた唇を開いた。
「わ、私だって……一人だと切なくなっちゃう夜は、あるんですよ……」
 その言葉の意味がすぐに理解出来なかった私は、一度小首を傾げてしまった。仕方が無い、今の私は自分の狡さに関しての嫌悪感と、美優の単純さについて思い悩んでいて、頭の中はそれらの事でいっぱいだったから。
 要領を得ない私を見て、美優は今にも泣き出してしまいそうな顔をしてしまった。「み、美優さん」と慌てて声を掛けてみると、美優は半ば自棄だと言いたげにまた口を開いた。
「で、ですからっ……あ、ありますよ、楓さんで……その、一人で、したこと……っ」
「えっ……えぇっ!?
 ようやく思考が追い付いてきた私は、自分でも笑ってしまうくらいに素っ頓狂な声を上げてしまった。そういえばそんな話だった、と思い返す。いや、美優にとっては今まさに問題となっていた話なのだろうけれど。
 頭が回り始めると早いもので、今度は美優の紡いだ言葉を何度も反芻してしまう。どうしたって想像してしまうのは、美優が独りで自分を慰めている最中の事。そうなってくると、それはもう事実確認をしたくなって仕方が無い。
「い、いつですかいつしてたんですか!?
「答えませんよなんでそんなに気になるんですか!?
「だって美優さんが可愛くって
「私はもう恥ずかしくて死にそうですよ
「それで、教えてくれないんですか
「イヤですよだって恥ずかしいじゃないですか
「あっこの間、泊まり込みの撮影で私が家に帰れなかった時とかですか!?
「探りを入れないでくださいっ
 もう質問禁止です、と美優は両手で私の口を塞いでしまった。唇を手のひらで覆われてしまった私は、もごもご、なんて声しか出せなくなってしまった。
 それはそれとして、どうしたって嬉しくなってしまう。馬鹿らしい話だと思われるかもしれない。でも私にとってはとても大切な事。形はどうであれ、美優が私の事を求めてくれていたという事実を手にしてしまった。そんなの、嬉しくて堪らないじゃないか。
 ついつい綻んでしまう頬が、美優にも手のひら越しに伝わったらしい。むっとした顔で美優は私の方に恨めしい視線を向け、「……なんですか」と不満たっぷりな声を漏らした。
「はい
「なんで、そんなに嬉しそうなんですか」
 するり、と私の唇から美優の手のひらが離れていく。次に触れたのは、私の両頬。指先でふにふにと触れてきて、「こんなに嬉しそうな顔をして……」と、やはり不満そうに声を零した。
「だって、なんだかとても愛されてるなぁって感じちゃって……ふふっ、えへへ……」
 勝手に溢れてくる笑みをどうにも堪えられそうになかった。私はそこまで幸せそうな顔をしていたのだろうか。
 美優は暫く恨めしい視線を私に向けていたけれど、やがて諦めたように溜め息を一つ吐き、むにぃっと私の頬を指先で引っ張った。そこまで力を込められていたわけではないので痛かったわけではない。ただそれは、最後の最後で美優が見せた精一杯な羞恥心の訴えだった。
 すぐに指先は私の頬から離れていき、私の視線から逃げるように顔を背けながらまた美優は言葉を紡ぎ始めた。
「私だって、恋しくて堪らない時があるんですよ」
「美優さんがそう思ってくれているの、私はすごく、すーっごく嬉しいですよ」
「……一応、自己弁護で言いますけど……楓さんと付き合って、初めてこんな風に思ったんですからね」
「えっと、それはどういう意味でしょう
「で、ですから……今まで一人でした事なんて無くて、楓さんと付き会い始めてから初めてで……あぁもうっ、分かってくださいよ
 また美優に恨めしい瞳を向けられてしまった。今日は美優にこんな顔をさせてばかりだなぁ、と他人事の様に思った。
 相も変わらず幸せいっぱいな私は、満面の笑みを浮かべたまま美優の髪に指を絡めていく。そんな顔しないでくださいよ、ちゃんと分かりますよ、と誤魔化しの意味を込めて優しく撫でていく。美優は、私の誤魔化したいという気持ちに気付けない程に鈍くはない。ちゃんと気付いてくれた上で、仕方ないですね、と表情を綻ばせてくれた。
 先程の話。私は美優の事をちょろいと、単純だと表現した。だけどそれがそこまで悪いとは思っていない。単純で簡単で良いと思ってしまえる。私は美優が幸せだったらそれで良い。美優もそうで在ってくれたのなら良い。私の幸せをどうか願って欲しい。そんな単純明快な恋愛感情が、一番綺麗なんじゃないかなと、最近の私は思っている。
「……せっかくなのでお聞きしたいのですけど」
「はい
「美優さんって、一人の時だとどんな風にするんですか
「こ、答えませんよ、そんなこと……っ」
「そうですか……それじゃあ答えなくても良いので、やって見せてくれませんか
「どうしてそうなるんですか!?イヤですよ、恥ずかしいってさっきから言ってるじゃないですか
「そうなりますよ。だって、エッチな話なんですから」
 私は気持ち半ばに美優の声を聞きながら、もう一度美優に覆い被さり直す。綺麗な恋の話を続けるとして、私が幸せだったのならば、それを美優に伝えたいと思うのは当然の事だろう。その手段は言葉では不足が過ぎる。用いるのは唇、舌、指先だろう。
「して見せて欲しかったんですけど、ザンネンですね」とわざとらしく甘い声を紡ぎながら、やんわりと唇を美優の耳元に近づけていく。優しく吐息を零すだけで美優は「んっ……」と悩ましい声を溢れさせ、瞳に情欲の色を灯していく。
「それじゃあ、美優さんの理想の話をしてください」
「私の、理想……
「えぇ、私にどうされるのが一番好きなんですか」
 その言葉の意図に気付けない美優ではなかった。私の言葉はつまり一人でする時にどんな事を想像しているのかを聞いている様なものだった。
「美優さんが一番して欲しい様に、今日は愛してあげますから」美優の心が羞恥心に苛まれてしまう前に、声を重ねていく。美優を快楽で溶かしてあげたかった。ただただ幸せにしてあげたかった。更に正直な気持ちを言葉にするなら、辱めてしまいたかった。誰も知らない様な美優の顔を、私にだけ見せて欲しかった。
 あぁ本当に、美優のことを世界で一番幸せにしてあげたいと、心から思った。
 最初の疑問だった筈の『私はどれくらい愛されているのか』については一段落。今度は、私が美優の事をどれだけ愛しているかを伝える番。幸い、未だ夜は深く、朝は遠い。時間は充分過ぎるくらいに残されているだろう。
「……楓さん、いつも最初に、首の所にキスしてきますよね」
 やがて、美優がぽつりぽつりと雨の降り始めみたいに声を零し始めた。「この辺りに」と指先で自身の首筋に触れた。
「その……ここにキスされると、ついその気になっちゃうんです……」
「ここですか
「あっ……」
 雨みたいな美優の言葉に倣って、指先を頼りにキスを降らせていく。優しく吸い着くと、美優は悩ましげに声を溢れさせた。今となってはどれだけ鬱血痕を残しても許されるけれど、あまり見える所に残してしまうのは仕事にも差し支えが出てしまう。それに、まだ雨は降り始め。どうせすぐに私は優しくなんて出来なくなってしまうのだから、初めのキスくらいは思い切り甘く、優しいものにした。
「……スイッチ、入りましたか
「は、ぃ……」
「それで、次はどうして欲しいんですか
 後はもう蕩け始めた美優に声を紡がせて、良くしていくだけ。
「つぎ、は……」
 上手な愛情の育て方。たっぷりの甘さと優しさと、少しの意地悪を施していく事。時々言い成りにならないことで、きっと美優は堪らなく可愛らしい顔を見せてくれるのだろう。
 その瞬間を何時迎えようかと心弾ませつつ、私は忠犬の振りをして美優の胸元に唇を押し付けた。

6/25歌姫庭園発行予定かえみゆ本サンプル
以前、Pixivに投下していた『クリティカルエラー』の完全版を6月25日の歌姫庭園で文庫本で出します。

投下済みだった文章を大幅に加筆修正し、アフターストーリーも追加しております。



サンプルは始まりから4章分、そしてアフターストーリーから1章公開させていただきます。



サークル名『有限会社連理』

歌姫庭園【歌11】

文庫本サイズ216p(予定)

本文、支倉薪人

表紙+挿絵、㈲もぺ



DL販売始めました

https://renrikei.booth.pm/items/604260
1211113904
2017年6月14日 15:53
支倉薪人
コメント
くろいの
くろいの
大変遅れながら、読了させていただきました。読了と書きつつ、何回も部分部分を読み直させていただいています。こういった時の語彙が無くて申し訳ないのですが、終始のかえみゆとても良かったです…!
2017年7月10日
spispik
spispik
私も支倉さんのかえみゆいつも読ませて頂いております!是非、是非DL販売の方をご検討頂ければと思いますので宜しくお願い致します!!!
2017年6月22日
糖菓
糖菓
いつも楽しくかえみゆ拝見させていただいておりますので、DL販売もぜひご検討いただければと思います…!
2017年6月19日
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