私の目の前で、大人の女性が青褪めた顔をしていた。どこか安寧の場所を探そうと、しきりに泳ぐ二つの瞳。返す言葉が見つからないのか、ただ小刻みに揺れるくちびる。その姿が、今の私にとってさらなる活力になるとも知らずに、彼女は寒さに震える子犬のような姿を晒す。
「見て……いたんですか……」
「ええ、それはもう。……美優さんがあんなことをするなんて、いまだに信じられません」
ふふ、と小さな笑みを添えると、彼女の顔の青の濃度がいっとう高くなる。こういう純粋なところ、とっても可愛いですよ、美優さん。
「まさか、あの甘え下手な美優さんが、プロデューサーさんに膝枕されている、なんて……ね?」
「っ……そ、それは……!」
「ふふっ……夕方でしたし、お疲れだったんでしょう? お二人とも、とっても気持ちよさそうに寝てらしたので」
見ているこっちまで、幸せになれました。続けてそう言うと、泳いでいた美優さんの目が私にぴたりと焦点を合わせ、許しを請うように細くなる。やめてくださいと言いたげなその潤んだ瞳も、今の私には、心を高揚させる脳内麻薬にしかならない。
「プロデューサーさんと美優さん、アイドルとプロデューサーの関係にしては、どうにも二人で一緒にいることが多いなあ、と思っていたので。お付き合いしているんじゃないかと、薄々」
探偵にでもなった気分で、びくびくしている目の前の容疑者をじっと見つめる。美優さん、顔が青くなりすぎて、今にも失神しそうだけれど、大丈夫かしら。
「う……うそ……」
「ふふっ、美優さん、詰めが甘いですねえ。親友の私が、美優さんの変化に気付かないとでもお思いですか?」
そう、薄々は気付いていた。普段はどこか表情の硬い美優さんが、彼女のプロデューサーさんといるときは、妙にやわらかい表情をしているなあと。友人の私や留美さん、瞳子さんと四人でお酒を飲みに行っても、わいわいと騒ぐ私達を眺める傍聴者になって、黙り込むことが多いのに。プロデューサーさんといるときは、妙に嬉しそうに話すなあと。
それが確信に変わったのが、昨日の夕方。とは言っても、実際はほとんど夕暮れ時、確か十八時半くらい。普段は誰も使っていない事務所の休憩室を通りかかった時、すうすうという安らかな寝息が聞こえたものだから、誰かいるのかなと覗いてみた。──そしたら、ソファで美優さんと、彼女のプロデューサーさんが、子どものような無垢な寝顔で眠っているではないですか。おとなしくて控えめで、人に迷惑をかけないよう常に気を配っている、そんな美優さんの珍しい姿を目の当たりにして、思わず携帯で写真を撮ったのが昨日の私。撮影してすぐ、自分の携帯の待ち受け画面に設定したのは言わずもがな。
「そ……そんな……」
美優さん、そんな、この世の終わりみたいな表情しなくても。私を誰だと思っているんですか。デビュー当初から貴女とユニットを組んでいる、貴女の一番の友人、高垣楓ですよ? 二人の関係を知ったからって、私、何もしませんから。
──なんてことは、ないですけれど。
「あ、あっ、あの……こっ、この事は……その……!」
「ふふっ、さあ、どうしましょうか?」
「や、やめて……!」
「とりあえず、留美さんと瞳子さんにも報告を──」
「か、楓さん……お願いです……!」
良心を突き刺すような可愛らしい涙声に、うっ、とハートが突然痛み出した。
もう、そんな、子犬のような潤んだ瞳に訴えられたら、何もできないじゃないですか。もうちょっと、つっついてあげようと思ったけれど──今にも涙が零れそうな、いたいけな目で見つめられたら、さすがに良心の呵責を感じてしまう。
「わ、わかりました。言いません、誰にも」
慌ててそう言うと、美優さんの表情は、ぱっと明るくなった。青白くなっていた頬も、すっかり赤みを取り戻す。まったくもう、本当に可愛いですね、貴女って人は。
「楓さん……!」
「ただし」
「え?」
ただし、です。
私だって、可愛い友人の弱味を手に入れて、何もせずにすごすごと引き返すほど、控えめに生きてきたつもりはない。そう、これはチャンスなのだ。弱味をちらつかせ、美優さんに言うことを聞かせる、絶好のチャンス。貴女という人は、普段から何においても遠慮がちで、一歩引いて皆を俯瞰してばかりで。プロデューサーさんの前では、乙女のように照れたり甘えたり、いじらしくて可愛い姿を見せる貴女が、どうしてその可愛さをもっと私に見せてくれないのかと、一晩中飲み屋巡りの刑に処して説教してやりたいと何度思ったことか。
そう、これは、いい機会だ。今こそ、溜まり溜まった貴女への感情、放出させてもらいますよ、美優さん。
「交換条件です」
「交換……条件、ですか?」
「ええ」
私は──美優さんが好きなんです。貴女のことが、可愛くて仕方ないんです。何度ステージを経験しても、本番前になると緊張して顔を青くする、初々しい貴女がとても可愛くて。露出の多い格好や幼い衣装を恥ずかしがりながらも、お仕事だからと頬を染めながら頑張って着こなして、プロデューサーさんや私がそれを褒めると、衣装を着ている時よりも顔を真っ赤にして照れる姿が、とても愛おしくて。お仕事でウエディングドレスを着た貴女が、笑顔でプロデューサーさんにお姫様抱っこされているのを見たとき、柄にもなく嫉妬してしまって。帰ってから自宅でひとり自棄酒を飲んでしまうほどに、貴女を独占したいと思っていて。
「美優さん」
「は、はい」
たとえ私の愛情が、プロデューサーさんの愛情には及ばなくても。貴女が、私の方を向いていないとしても。
──私は、貴女が好きなんです。
「私にも、膝枕させてください」
「……はい?」
「さあ、どうぞ」
ソファに座り、自分の膝の上をとんとんと叩く。さあさあ、と囃し立てても、美優さんは固まったまま。
「……か、楓さん……その、私、もう大人なんですけれど……」
「ええ、知っています」
「……あの、ですから……これはちょっと……」
「そうですか? 昨日と同じことをすればいいだけですよ?」
「っ……!」
美優さんの双眸が、先ほどの繰り返しのようにしきりに泳ぐ。首から上も、やはり先ほどのようにみるみる赤みを帯びていく。
そう。そうです、美優さん。私はずっと、貴女のそんな姿が見たかったんです。クールな仮面をひとたび外せば、こんなに可愛い姿を見せてくれると知っているから、貴女をもっと可愛がってあげたいと、常日頃から思っているんです。
「どうしますか? やりますか? やりませんか?」
美優さんはしばらく、顔を真っ赤にしたまま目を泳がせていた。けれど、やがて観念したように溜め息をつき、おずおずと私の隣に座った。
「わ……わかりました、やります……」
「じゃ、じゃあ、失礼します……」
「ええ、どうぞ。ゆっくりおくつろぎ下さい」
私が許可を出したところで、美優さんはゆっくりと身体を横にした。私の両膝が、美優さんの頭の温度と、髪の柔らかさをスカート越しに感じ取る。
「では……美優さん、目を閉じてください」
「……どうしてですか」
「そういえば、プロデューサーさんとはお付き合いしてどれくらい経つんですか?」
「っ……」
こうやって、弱味を利用して黙らせることに、罪悪感が湧かなくはない。けれど、だって、これは私にとって、千載一遇のチャンスなんですもの。美優さんを思いっきり可愛がって、甘やかしてあげられる、絶好の機会。それに、プロデューサーさんだけが、美優さんのこんな可愛い姿を独占しているなんて、事務所での友人第一号の私としては許しがたいことだ。友人代表として、プロデューサーさんだけが美優さんを独占するのを許してはいけない。そうだ、その為に必要なことなのだ、これは。
「……へ、変なこと、しないでくださいね……」
「変なことって、どんなことですか?」
「えっ、あっ……その、すみません、忘れてください……」
「……美優さんのえっち」
「や、やめてくださいっ、そんなこと考えてないです……!」
「ふふ、わかってますよ」
もう、と口から漏らし、美優さんは顔を真っ赤にしたまま目を閉じる。彼女の頭をやんわりと撫でると、絹糸のような髪が私の指のすきまを心地よく滑る。ほんのり、シャンプーの匂いが鼻をくすぐった。
変なこと──は、さすがに美優さんとの絆にヒビを入れたくはないので、やめておこう。まあ、ここで変なことをすれば、プロデューサーさんを出し抜けるかもしれないけれど──いやいや、だめだめ。それはだめだ。目的を見失っちゃいけない。プロデューサーさんの独占を防ぐことと、可愛い美優さんを見ることが目的であって、美優さんと事故を起こしちゃいけない。
「美優さん……本当に、綺麗な髪をしてますね」
「そ、そうですか……どうも……」
何気なく話しかけながら、ゆっくりと感情を押しとどめる。私にも理性が残っていてよかった、と思ったけれど、美優さんの柔らかい髪を左手いっぱいで感じているせいで、その瀕死の理性がすぐにでも飛びそうになっているのは内緒だ。
「シャンプーは何を使っているんですか?」
「……知ってるじゃないですか」
「いいじゃないですか、会話の練習ですよ。美優さん、おしゃべり苦手なんですから。ほら、どうぞ。三、二──」
「あ、あっ、え、ええと……お、オーガニックオイルの……シャンプー……です……」
言葉尻になるにつれて、美優さんの声が小さくなる。これは、美優さんの癖なのかもしれないけれど、自信がなかったり恥ずかしいと思っていることを口にすると、彼女はいつも言葉が尻すぼみになる。別に、恥ずかしいことを言っているわけではないのだから、もっと自信を持てばいいのに。
──例えば、こんな風に。
「ふふっ、そうでしたね。私と美優さんは、もう裸のお付き合いをしている仲ですもんね」
「……その言い方やめてください……」
「あら、本当のことじゃないですか」
「ただ一緒にお風呂に入ったことがあるってだけじゃないですか……」
「別に恥ずかしいことじゃないですよ?」
「……そうですけれど……その、言い方が……」
いつもはおとなしい美優さんの反論を右から左へ聞き流しながら、美優さんの髪の上で撫でるように左手を動かす。
──ああ、美優さんの髪、本当に気持ちいい。ふかふかの毛皮を撫でているようで、優しい手触り。触っているだけで、疲労回復の効果がありそう。
「あっ、あの……楓さん……いつまで続けるんですか……?」
「もちろん、私が満足するまでです」
「……それはいつですか?」
「さあ、いつまででしょう?」
「楓さん……」
「ほら、美優さん、ゆっくり眠っていいんですよ」
「眠れるわけないじゃないですか……」
「プロデューサーさんの膝の上では眠れるのに?」
「っ……もう……いじめないでください……」
「ふふっ、いじめてなんかいませんよ。私はただ、美優さんの可愛い寝顔を見たいだけです」
「っ……!」
私の言葉で、美優さんの顔がこれ以上ないというくらい紅くなる。どうやら彼女には、「可愛い」という言葉が抜群に効くらしい。きっと今までの二十六年間で、「可愛い」と言われ慣れていないんだろう。そんなウブな所も可愛い。
「……そ、そんなに言うなら、本当に寝ちゃいますからね?」
「ええ、どうぞどうぞ」
「……膝が痛くなっても、知らないですよ?」
「ええ」
「……ええと……ほ、本当に、いいんですか……?」
「ふふっ、そんなに心配しなくていいですよ。お気になさらず、休んでください」
「……あ、あの……痛くなったら、遠慮なく起こしてくださいね……?」
「はい」
私が笑顔で頷いたことで安心したのか、美優さんはゆっくりと目を閉じて、そのまま小さく肩で呼吸を始めた。
──しかし。そんなこと言いますか。無理やり寝かせたのは私の方だというのに。本当に、どこまでお人好しなんですか、貴女は。けれど──それが、美優さんの魅力ですよね。
「可愛い、なあ……」
見た目通り、真面目で純粋で優しくて。ちょっと気が弱いけれど、そのせいか守ってあげたい衝動に駆られる。本当に、初めて会ったときから変わらないんですから。
プロデューサーさんと並んで、皆の前で入所の挨拶をする美優さんを見たときの衝撃は、今でも忘れられない。スーツでぴしっと決めた美麗な姿とは裏腹に、ぽつぽつと小さな声で、微かに頬を紅く染めながら、可愛らしい声で自分の名前を呟くのだから、もう、胸を鷲掴みにされるなという方が無理なことだった。年齢も近くて、物静かな雰囲気も私に似ていて。アイドルに転向して一ヶ月、アイドルの友人が欲しかった私の前に、美優さんは燦然と現れた。挨拶が終わって立ち去ろうとする美優さんを引き留め、「私もほとんど新人ですし一緒にご飯でも行きませんか」と、あまり自分の意思を伝えるのが得意ではない自分がよく言えたものだと思う。今考えても、あの時の私の行動は、高垣楓の半生でベストスリーに入るファインプレーだ。
「美優さん……」
聴こえるか聴こえないか、その程度の声量で呼びかける。シャンプーのコマーシャルに抜擢されたのも頷ける、美優さん自慢のロングヘア。その感触を確かめるように、自分の左手でゆっくりと撫でていく。
昨日も見た無垢な寝顔が、私の膝の上にある。照明を反射して艶めく髪。優しく垂れる眉。わずかに開いた紅い唇。時間をかけて、食い入るように見つめて、何度も胸の中で確かめて。それでも、頭に思い浮かぶ言葉は、一つだけ。
──やっぱり、可愛い。
「……あら?」
って、眠っているじゃないですか。さっきの言葉からたった数秒で寝てしまうなんて。よほど疲れていたのかしら。
でも──そうですよね。美優さんは、見るからに、毎日を頑張っていますもんね。
「美優さんのラジオの収録が終わったことですし……一緒に、打ち上げに行きたいですね」
会社員として、慎ましく堅実に生きてきた美優さん。大人として、年上として、ひとりでなんでも頑張ろうとする美優さん。迷惑をかけられないと、足を引っ張らないようにと、口癖のように言う美優さん。華奢な身体と繊細な心で、日夜懸命に頑張っている美優さん。
──疲れているに、決まってますよね。
でもね、美優さん。美優さんは、知っていますか? 私は、貴女に迷惑をかけられているなんて、一度たりとも思ったことがないんです。足を引っ張られたくないなんて、一度も思ったことはないんです。プロデューサーさんだって、他のアイドルの皆だって、きっとそうです。貴女が頑張っていること、知らない人なんて、いないんです。
だから、もっと甘えていいんですよ? 弱い部分も、辛い部分も、気に入らない部分も、きっとあるんです。貴女だって、普通の人間なんですから。そういうのを全部、私にぶつけてくれていいんです。弱音だって、吐いてくれていいんです。それに私だって、そうしてもらえると、嬉しいんです。こうやって、膝の上で眠る貴女を見ると──美優さんの弱い一面を預けてもらえる、大切な存在になれた気がして、とっても嬉しいんです。
貴女が甘えてもいい相手は、プロデューサーさんだけじゃないんです。貴女を支えようとしている人は、周りにたくさんいるんです。それを、貴女に知ってほしいんです。
──だから、ね、美優さん。
「ふふっ、美優さんったら……」
その可愛い微笑みを、もっとたくさん、私にも見せてくださいね。
《高垣楓/美優さんと私》