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黒い虹 七色に変えたい

2007年01月04日15時18分

 小学5年の男の子、かっちゃんは「黒い虹」の絵を描いた。夜空にかかる虹の赤い部分が、真っ黒に塗りつぶされている。

写真かっちゃんが描いた「黒い虹」
写真吉田綾香さん(左)と八木俊介さん
写真桧山進次郎さん

 父親と妹を亡くし、自分も家の下敷きになって9時間閉じこめられた。生き埋めの恐怖や家族を失った悲しみを映した「黒い虹」に、あしなが育英会職員の八木俊介(やぎ・としゆき)(37)は衝撃を受けた。

 95年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた。八木は東京の育英会本部から神戸に入り、親を亡くした子どもを捜し歩いて、かっちゃんたちと出会う。

 八木も10歳のとき交通事故で父親を失った。気持ちはわかるつもりでいたが、震災遺児の心の傷は思っていたよりずっと深かった。

 あの日、小学6年だった吉田綾香(よしだ・あやか)(24)は二段ベッドの下段に寝ていた。震度7のすさまじい揺れで、ベッドごと投げ出された。上にいた妹は無事だったが、ふすまを隔てた和室からは何も聞こえてこない。両親は、倒れたタンスの下で息絶えていた。

 ベッドは前日に買ってもらったばかり。いつものように和室で4人で寝ていたら――。生き残った自分を責めるように作文に書いた。「死にたかった。そうしたら、そのかわりにお父さんもお母さんも助かったかもしれない」

    ◇

 心に抱える「黒い虹」を、七色の虹に変えてやりたい。あしなが育英会は99年1月、神戸市東灘区に「レインボーハウス」を建てた。国内初の心のケア施設だ。

 悲しみをはき出せる工夫をこらした。サンドバッグをたたいて発散する「火山の部屋」、遊びを通じて心の内にあるものを表現する「ごっこ遊びの部屋」……。仲間と話し合って悲しみを共有するプログラムもある。

 綾香は祖父母のもとから通ってきたが、表情はなく、「死にたい」と漏らした。生きる力がなえているのでは。館長代理になった八木は気遣い、家族のように見守った。

 綾香に立ち直りの兆しが見えたのは高校2年のころ。保育士になろうと決めてからだ。亡くなった母親も結婚前、幼稚園の先生をしていた。レインボーハウスのピアノで練習に励んだ。

 02年の暮れ、職員仲間と忘年会をしていた八木に綾香から電話が入る。就職先が決まったという。「やっと一区切りがついて、綾香ちゃんもこれで前に進めると思うと……」。八木たちはうれしくて、鍋を囲みながら泣いた。

 翌年の追悼式で、綾香は新成人を代表して語った。「保育園の子どもたちに、パパとママのような愛情を注ぎたい」。夢をかなえたことを両親に報告した。

    ◇

 レインボーハウスはさまざまな人たちに支えられている。シンガー・ソングライター平松愛理(ひらまつ・えり)(42)もそのひとり。開館式典で、作曲した「美(うま)し都」を歌った。

 We love KOBE がんばろや

 平松は神戸の実家が全壊、友人を亡くした。毎年1月17日にコンサートを開き、収益を寄付する。乳がんを手術して2年間活動を休んだときも、これだけは欠かさなかった。作詞した阿久悠(あく・ゆう)(69)は震源の地、淡路島の出身。

 阪神タイガースは02年、ヘルメットに「あしなが育英会」のロゴを入れた。監督に就任した星野仙一(ほしの・せんいち)(59)のアイデアだった。母子家庭で育った星野は「グラウンドだけが活動の場ではない」と、すすんで寄付の広告塔になった。

 この年の選手会長だった桧山進次郎(ひやま・しんじろう)(37)はシーズンが終わると、必ずレインボーハウスに足を運ぶ。「下積みで苦しかったとき周りの人たちに支えられた。その恩返しをしたい。会うたびに成長している子どもたちから戦う力をもらっています」。今年は若手選手も誘おうと思っている。

 震度7の揺れは、6434人もの命を奪った。だが、失ったものだけではない。思いやりや人のきずな、そして命を救う技術。新たに芽吹いたものを伝えたい。

 (このシリーズは論説委員・野呂雅之、中村通子、小倉いづみが担当します。本文は敬称略)

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