「香川大学一般教育研究」第46号 (1994年10月発行)掲載

メタファーと認知


0. はじめに

隠喩や暗喩などと訳されるメタファーは、レトリックの一種として、古代ギリシア・ローマ時代からの長い研究の歴史を持っている。 それだけに、これまでの研究の蓄積量だけでも膨大である。 佐藤信夫の『レトリック感覚』でも、隠喩に関して次のように述べられている。

(1) 古代から、現代でもなお、隠喩はつねにレトリックの中心的な関心のまとである。 一九世紀後半に古典レトリックがすっかり見捨てられたのちも、隠喩だけはいつも哲学者、詩人たちの興味をひきつづけている。 かぞえてみることなどとても不可能だが、古来、研究され書かれてきた隠喩論の書物や論文は、何百、いや何千か、数知れず、隠喩にかかわる問題はもう出つくしているのではないかとさえ思われるありさまだ。
(佐藤 1992: 113)

これだけ膨大な研究量を誇るメタファーであるが、もっぱら研究の分野としては、哲学、修辞学、文学といった領域を中心に感心が持たれてきたのではなかろうか。 言語学という学問(もっとも厳密な学問としての言語学は、18世紀末から19世紀初頭にかけての比較言語学の誕生とともに始まったとされる)においては、メタファーは周辺の扱いを受けてきたように見える。 少なくともの近年の言語学研究の主流ではありえなかった。 言語学は学問として自立した比較言語学の時代以降、今世紀に入りソシュール及び彼に続く構造言語学、その後チョムスキー登場以後の生成文法の登場と目まぐるしく変遷してきた。 これらの流れにおいて、メタファーが大きな関心を集めることはなかった。

ところが、ごく最近になって、普遍文法の樹立を目指すだけの生成文法の理論からは漏れてしまう重要な言語現象も扱えるような、より人間の認知構造に密着した言語研究も推進されてきた。 認知言語学などと呼ばれる動きがそれである。 こうした人間の認知を主体におく言語研究が進むにつれ、メタファーによる言語表現が何らかの概念を我々が理解する際の認知構造に深く根差していることが指摘され始めるようになった。 その後メタファーを中心とした言語研究が増え始めてきたのだが、その嚆矢となったのが1980年に刊行されたレイコフ/ジョンソンによる "Metaphors we live by"(邦題は『レトリックと人生』)である。 これは我々の日常の言語活動においてメタファーが不可欠であり、言語行為の中にそれが遍在していることを、数多くの事例で示したものである。 メタファーの再評価である。

この小論では、最近ますます進展しているメタファー研究の状況を、これまでの研究史の流れの上でとらえ直し、メタファーと認知の関係を考察する。

1. メタファーに関する学説の流れ

ピーレンツによると、認知過程の結果としてメタファーを考える最近の理論を構成主義的な理論と考えるなら、それ以前の伝統的なメタファーに関する理論は、非構成主義的なものであるという (Pielenz 1993: 59ff.)。 認知メタファーについて検討する前に、まず従来の学説を簡単に見ておく。

1.1 非構成主義的理論

従来の非構成主義的理論の代表的なものが、次の「比較説」と「代替説」である。 いずれもアリストテレス以来の伝統的解釈と考えられている。

1.1.1 「比較説」  Vergleichstheorie

'A ist B'というメタファーは、 'A ist wie B' という表現の書き換えと考えるのが、この比較説である。

(2)a.  Richard ist ein Löwe.
  b.  Richard ist wie ein Löwe.

例えば(2a)の「リチャードは獅子だ」というような有名な古典的メタファーは、(2b)の「リチャードは獅子のようだ」(勇敢・攻撃的などを含意)という本来の表現を簡潔に表現したものと理解される。 メタファー(隠喩)がしばしば「短縮された直喩 (verkürzter Vergleich)」などと評される所以である。

1.1.2 「代替説」  Substitutionstheorie

'A ist B'というメタファーは、'A ist C'という表現の代替であると考えるのが、この代替説である。

(3)a.  Richard ist ein Löwe.
  b.  Richard ist mutig, furchterregend, grimmig...

例えば(3a)の「リチャードは獅子だ」という表現は、(3b)の「リチャードは勇敢だ、恐い、激怒している...」などのの代替と見なされる。

これらの非構成主義的理論では、メタファーを単に言葉のパラフレーズによる置き換えに基づいて考えており、メタファーを寄生的なものとしてとらえる。

1.2 構成主義的理論

上記の非構成主義的な理論も、それなりに説明力のある有意義な理論ではあるが、メタファー表現によりもっと積極的な意義付けを与えようと考えられたのが、この構成主義的な理論である。 ここには、ブラックなどにより提唱された「相互作用説」、それからこの小論で詳しく取り上げるレイコフ/ジョンソンの「概念メタファー説」が含まれる。

1.2.1 「相互作用説」 Interaktionstheorie

ブラックが相互作用説を提唱した1962年の隠喩論(佐々木健一編『創造のレトリック』に所収)で書いているように、「隠喩的陳述は形式的比較やその他何らかの本義的陳述の代替物ではなく、他と異なる自身の能力と成果とを持つのである」(同書: 14頁)という立場から出発するのがこの説である。 従来のようにメタファーを単なる代替と考えるのではなく、メタファーに独自の新たな想像的役 割を付与しようとするものである。

(4) Der Mensch ist ein Wolf.

(4)の「人間は狼である」という文では、ブラックによると、メタファー的に表現されている「狼」に関して各自が持つ「連想された通念の体系(the system of associated commonplaces)」 によって、解釈されるという。 この通念の体系というのは、「狼」に対する価値観が異なる民族同士では、異なった解釈がなされることになり、文化によって異なるという視点も導入されることになる。

なおブラックは、メタファー的に用いられている部分を「焦点(focus)」(上の例では「狼」)、残りの部分を「枠組(frame)」(上の例では「人間は〜である」)を呼ぶ。 この「焦点」と「枠組」で取り上げられる観念や概念同士が、相互作用して新たな意味作用を生み出すという指摘は、確かに従来のメタファー観の転換をもたらすものであろう。 ただブラックの言う「相互作用」の内実については、具体的な説明があまりなく、メタファーの認知の面からの包括的なとらえ直しは、次のレイコフらの研究へ引き継がれることになる。

1.2.2 「概念メタファー説」 Konzeptuelle Metaphern

レイコフ/ジョンソンにより提唱され、その後のメタファー研究の興隆を巻き起こした説であるが、基本的発想は上の相互作用説と基を一にしているといえる。 しかしメタファーの機能を、よりもっと我々の人間生活の中に根差した重要なものであることを、非常に豊富な実例で指摘した。 その彼らの基本的な出発点は、下記の文章に要約されている。

(5)メタファー(隠喩)と言えば、たいていの人にとっては、詩的空想力が生み出す言葉の綾のことであり、修辞的な文飾の技巧のことである。 つまり、通常用いる言語というよりは特別改まった表現をする際の言語のことである。 それに、メタファーというのは言語だけに特有のものであって、思考や行動の問題であるよりは言葉遣いの問題であると普通一般には考えられている。 したがって、大部分の人はメタファーなどなくとも、日常生活はなんら痛痒を感ずることなくやっていけるものと考えている。 ところが、われわれ筆者に言わせれば、それどころか、言語活動のみならず思考や行動にいたるまで、日常の営みのあらゆるところにメタファーは浸透しているのである。 われわれが普段、ものを考えたり行動したりする際に基づいている概念体系の本質は、根本的にメタファーによって成り立っているのである。
(レイコフ/ジョンソン 渡部他訳 1986: 3)

「人間の概念体系が本質的にメタファーである」との見解が、その後の認知言語学の興隆ともあいまって、その後の言語研究に多大の影響を与えることになった。 メタファーを人間の概念構造と考えるレイコフらのメタファー論は、章を改めて詳しく検討することにする。


2. 概念メタファー

我々の日常の生活に、メタファーがあるものの概念を明解にするために、至る所に遍在しているというレイコフらの主張を、以下、いくつかの例で見ていく。

2.1 議論とメタファー

議論の性格を、いくつかのメタファーで表現することができる。 例えば「議論は戦争である」というものである。いくつかの具体的表現を挙げてみる。 (なお、ここではピーレンツからのドイツ語の例を引用する。 斜体字の部分が、ブラックの用語での「焦点」、その他が「枠組」の部分を形成する。)

(6) <議論は戦争> Argumentation als Krieg

 a. Er attackierte jeden einzelnen Schwachpunkt seiner Argumentationen.
   彼は議論のあらゆる弱点を攻撃する

 b. Wenn du diese Strategie fährst, dann wird er dich vernichten.
   こんな戦法では、彼にやられてしまう。

 c. Nach diesen Angriff konnte ich meine Position nicht länger halten.
   こんなに攻撃されては、私はもう立場を保てなかった。

 d. Er verteidigte seine Argumentation mit allen Mitteln.
   彼はあらゆる手段で議論を擁護した。

上の例文のように、「攻撃」「戦法」などのような戦争で用いられる用語で議論が語られる。 だた単に戦争用語が用いられるばかりではなく、レイコフらの主張では、議論をする際の我々の行動の全体が戦争のメタファーで概念規定されるという。 すなわち「議論には現実に勝ち敗けがあり、議論の相手は敵とみなされ、相手の議論の立脚点(=陣地)を攻撃し、自分のそれを守る。優勢になったり、劣勢になったりする。 戦略をたて、実行に移す。自分の議論の立脚点(=陣地)が守りきれないとわかれば、それを放棄して新たな戦線をしく。 議論の中でわれわれが行うことの多くは、部分的にではあるが戦争という概念によって構造を与えられているのである」(前掲書: 5頁)という訳である。 議論が戦争のように考えられる社会では、議論の概念が戦争の概念を通して理解される。 それゆえ、「メタファーの本質は、ある事柄を他の事柄を通して理解し、経験することである」(同書:6頁)。 従って、レイコフらによれば、メタファーというのは単に言葉や言葉使いの問題ではなく、人間の思考過程を成り立たせる重要な要因なのであり、メタファーとはメタファーにより成り立つ概念のことを意味する。

次に「議論」の別のいくつかの概念メタファーで考えてみる。 「旅」というメタファーを考えると、議論には始まりがあり、一直線に展開し、段階を踏みながら結末に向かって進むという側面に着眼点が置かれることになる。

(7) <議論は旅> Argumentation als Reise

 a. Wir sind davon ausgegangen.
   我々はこの点から出発した。

 b. Wir werden Schritt für Schritt fortfahren.
   我々は一歩一歩進もう。

 c. Ihr Ziel ist zu zeigen, daß Argument gültig sind.
   彼らの目標は、議論が有効であることを示すことである。

 d. Wir kamen zu einem beunruhigenden Schluß.
   我々は憂慮すべき結論に到達した。

また内容の側面を際立たせるには、「容器」のメタファーを用いる。

(8) <議論は容器> Argumentaion als Behältnis

 a. Ich verstehe den Kern des Argumentes nicht.
   私は議論の中核がわからない。

 b. Dein Argument hat Lücken.
   君の議論には穴がある(欠陥がある)

 c. Dein Argument hat nicht viel Substanz.
   君の議論はあまり内容がない

 d. Das habe ich im Argument nicht entdeckt.
   それは議論の中に見つからなかった。

容器は、限定された空間とその中に内容物を持ち、議論のそうした側面に焦点を当てる際は、容器の概念メタファーが有効である。 「建物」のメタファーを用いると、今度は議論の別の側面に焦点を当てることが可能になる。

(9) <議論は建物> Argumentation als Gebäude

 a. Deine Arugumente(Theorien) haben kein Fundament.
   君の議論(理論)には土台がない。

 b. Das Argument ist wackelig.
   その議論はぐらついている。

 c. Deine Theorie bricht auseinander.
   君の理論は崩壊する。

 d. Der Aufbau der Argumentation ist merkwürdig.
   その議論の組立は奇妙だ。

議論(理論)も建物と同様に土台を持ち、ぐらついて崩れることもある。

さて以上、議論を特徴づける主要な概念メタファーの例をみてきたが、これら「戦争」「旅」「容器」「建物」のそれぞれ概念メタファー同士の関連性について考察することも興味深い。 例えば、「容器」と「建物」なら、どちらも基礎や土台を持ち、堅固さが問題とされるなどである。 こうした点を追求していくと、ある対象の概念がより一層明瞭になるであろう。

さらにまた今後の課題としては、様々な対象と概念メタファーとの結びつきを意味ネットワークのような形で明示できるようにすることである。 そうすれば、我々の日常の言語生活に重要なメタファー同士の関連性を把握し、我々の社会の文化構造の一端を垣間見ることもできるようになるであろう。 その一例として、ピーレンツに挙げられた概念メタファーのネットを掲げておく。

(10) 概念メタファーのネット

(Pielenz 1993: 98)


2.2 言語学とメタファー

概念メタファーは日常的な営みばかりでなく、学問の分野でも興味深い概念化を示してくれる。 ここでは、言語学の進展をメタファーで表現した事例を取り上げでみる(Pielenz 1993: 78ff.)。 まず枠組を簡潔に示すと次の通りである。

(11)a.  言語学は法律    − 規範文法

  b.  言語学は生物学   − 比較言語学

  c.  言語学は化学    − 構造言語学

  d.  言語学は数学    − 生成文法

  e.  言語学は認知過程  − 認知言語学

言語学を法律という概念メタファーで説明すると、言語は法律のように、立法の対象とみなされる。 言語は厳密なコントロールを必要をされるような人間の行動の一つと考えられる。 理想的かつ矛盾のない言語とされるラテン語の時代に作られた規範文法が、何世紀にも渡って言語学者の物の見方を支配してきた。 無条件に拘束力を持つ規則が、文法として成文化され、それに従って言語行動の正しさが計られる。 今日でも、学校文法にはその名残が感じられる。

言語学を生物学的にとらえる見方は、19世紀に登場した。 ダーウィンの進化論の影響が言語学にも及び、比較文献学が勃発した。 これは言語相互の関係、言語がどう変化してきたかなどを調べるものである。 語彙・音韻特性を中心に詳しく検討されることになる。 言語データを収集し、比較分類する際の通時的方法は、生物学の手法に密接に依存し、我々の世界の自然言語の系統発生を明らかにする言語系統図のような成果をもたらした。 このメタファーではまた、言語は成長し、先祖や子孫を持ち、やがて死ぬというような一種の生物有機体として考えられる。 今日でも、語族、同系語、死語という言い方が残っている。

言語学を化学とみなすと、20世紀初頭の構造言語学が説明できることになる。 構造言語学の眼目は、それまでの比較言語学における個々の言語の語族関係だけでなく、むしろその言語の構造自体の方にに移る。 記述言語学とも呼ばれるが、化学とのアナロジーが見られるのは、その手法の経験的操作である。 化学者は、経験上の操作で、未知の物質をそれ以上分析できない成分にまで分解することに より、その物質の正体を探る。 化学はこのようにして、基本的な化学元素の発見に成功し、多くの物質を化学構造式で説明するようになった。 言語も文から単語へ、単語から音声へと分解され、音素や形態素といった言語の最小単位まで分解することによって、自然言語でも化学同様の研究が進んだのである。

1957年にチョムスキーにより提唱された生成文法は、言語学を数学として考える立場である。 これまで構造分析だけでは、人間の言語使用に典型的に見られる想像性、つまり一定の文法規則から無限の文を作り出すことができるという能力を説明できないのではという見地から出発する。 その際、文が文法的かどうかを判断する直観的能力が評価される。 その言語能力の形式的記述を、数学のように行ってきたのであった。

そして、近年注目されつつある認知言語学は、言語学を認知のプロセスと見る立場から出発する。 人間をコンピュータと同様に、情報処理システムと考える。 そうすると、このような言語学の課題は、プロセスの構造と必要な知識の構成を示すことである。 人工知能の研究も当然射程に入れられる。 その人工知能研究の一貫として、自然言語の体系のモデル化なども検討される。 (10)で示したようなネット化も、こうした認知言語学の課題の一つである。

以上見たように、言語学の歴史的変遷も、概念メタファーによってそれぞれの着眼点の置き方の違い(パラダイムの違い)に関する明解な説明が可能となるのである。 次世代の言語学が、どのような概念メタファーに基づいて進展していくことになるのか、見守っていくことも楽しみである。


参考文献

Lakoff,G. und M.Johnson. 1980.  Metaphers we live by.  Chicago.
(渡部昇一他訳 1986. 『レトリックと人生』 大修館書店)

Pielenz, M. 1993.  Argumentation und Metapher.  Tübingen.

佐々木健一(編) 1986.  『創造のレトリック』 勁草書房

佐藤信夫 1992(1978). 『レトリック感覚』 講談社