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SmaSTATION!秘められた伝説シリーズ『勝新太郎 豪快破天荒伝説』
前代未聞の豪傑俳優・勝新太郎!
妻、中村玉緒がはじめて明かす、豪快すぎるその素顔とは?

今から10年前の1997年、あるひとりの偉大な役者がこの世を去りました。“勝新”の通称で知られる勝新太郎さんです。生涯の出演作品は、192本。人間味溢れる、よりリアルな演技を追及し続けた映画界の革命児と評され、未だに伝説の役者と言われています。しかし、その私生活は豪快かつ、あまりに破天荒であったとも…。その驚くべき真実とは!?

“勝新”豪快伝説〜其の一『パンツ疑惑』
1990年1月16日、ハワイのホノルル空港で、下着の中にマリファナを隠し持っていたという容疑で勝さんは、現行犯逮捕されてしまいました。そして、急遽、ハワイで記者会見が開かれることに。そこで勝さんは、「なぜ、パンツの中に入っていたかわからない。今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」とコメントしたのです。それから1年半後。ようやく帰国することになった勝さんは、コメントを取ろうと同じ飛行機に乗っていたマスコミを集めて、開口一番、「総理大臣の代わりはいるが、勝新太郎の代わりはいない」と言い放ちました。帰国後、大麻事件で、刑事たちから取調べを受けた時には、「(大麻を)誰かにもらったんだろ!」という刑事に対して、「そういうことにしてもいいけど、そうなると、トップシーンはいいけど、ラストはおかしくなるよ!」と受け答え。勝さんは、警察の取調べという場においても、自分を映画の主人公に見立てて、ストーリーを考えているような人だったのです。



“勝新”豪快伝説〜其の二『マツケンを怒鳴りつけた理由』
今では、バラエティー番組でも大人気の松平健さん。その松平さんがデビューできたのは、勝さんがその才能を認めたからという事実があります。松平さんデビュー前の21歳のとき、突然、勝さんからの呼び出しを受け、京都で撮影中の勝さんを訪ねました。すると、急遽、撮影を中止して松平さんのカメラテストになったというのです。そして、すぐに勝さんのお目がねにかなった松平さんは、そのまま「勝プロ」の所属になり、デビューまでの間、修行として勝さんの付き人を勤めることに。そんなとき、勝さん主演のテレビドラマ「座頭市」の制作発表の場で、勝さんが突然、松平さんを怒鳴りつけるという事件が起こります。周囲の人たちがざわめくなか、実は、そこには勝さんならではの意図があったのです。

松平健さん
「制作会見の席で突然、勝先生が『松平!お前は俺だけを見ていればいいんだ!』って、怒鳴られたんですよ。何もやってなかったんだけどね。あれは記者に僕の名前を売り込むためにやってくれたんですよ。先生はそういう暖かいところを持っていました」




“勝新”豪快伝説〜其の三『ガンをも恐れぬ男』
晩年、ガンを患いながらも、常に周囲へのサービス精神を忘れなかった勝さん。死の直前にも、記者の質問を受け、タバコを吸いながら「タバコはね、止めた」と言ったり、「お酒はね、ビールが美味いんだよねぇ」と言ってみたりと、まるで病気を恐れていないような口ぶりで話していたといいます。



“勝新”豪快伝説〜其の四『あるハリウッドスターとの運命の出会い』
勝さんは、1931年11月29日、当時、“長唄のプリンス”と呼ばれた父・杵屋勝東治と、母・八重子の次男として生まれました。本名を奥村利夫といいます。父親の影響で6歳の時から、長唄を習い始め、20歳で杵屋勝丸を襲名するまでに。そして、1954年、勝さん23歳のときにアメリカ巡業へと旅立ったのです。そこで立ち寄った映画の撮影所で、彼は運命的な出会いを果たします。若き日の、ジェームス・ディーンに出会ったのです。「これからの映画界を背負って立つ、未来のスーパースター」と、ジェームス・ディーンを紹介された勝さんは衝撃を受けます。その姿が、今まで勝さんが抱いていたスター像を覆すものだったからです。「こんなよれよれのシャツを着たボサボサ頭が、スターになれるのか!よし!俺も日本に帰ったら映画スターになってやろう!」と、勝さんは思ったそうです。この運命の出会いが、勝さんを役者の道へと進ませた大きな原動力となったのです。



“勝新”豪快伝説〜其の五『73作目のブレイク』
カメラテストを経て大映京都に入った勝さんは、映画『花の白虎隊』で役者デビューを果たすことに。ところがそれは同時に、勝さんにとって屈辱の始まりでもありました。勝さんの同期入社組にいたのが、市川雷蔵さん。
歌舞伎界の名門出身の雷蔵さんは、大映がスカウトした、いわばキャリア組。勝さんとは、待遇面で雲泥の差があったのです。当時、雷蔵さんのギャラは1本あたり30万円だったのに対し、勝さんのギャラは3万円。また、黒塗りのハイヤーで移動する雷蔵さんを横目に、勝さんはスタッフと同じロケバスで移動。また、雷蔵さん主演の映画は超大作カラーなのに、勝さんの主演作は、白黒のB級映画と、すべてにおいて水をあけられていました。当時、ヒットする映画は、市川雷蔵さんに代表される白塗りの2枚目スターが、悪役を退治する勧善懲悪ものばかり。勝さんも雷蔵さんと同じように白塗りの2枚目役を気取るのですが、そのどれもが、まったくヒットしませんでした。「一体、どうすれば自分はこの銀幕の世界で、のし上がることができるのか!?」。
考え抜いた勝さんは、「悪役」にイメージチェンジすることを決意するのです。ある日、勝さんは歌舞伎の舞台で主役の坊主が非道の限りを尽くす“不知火検校”を見て、どうしても映画版を作りたいと会社に直訴。「主人公が悪役だからこそ、話題になるんだ」という勝さんに対して、大映幹部の反応は、「こんな悪役が主役の映画なんて、誰が見るんだ」と冷たいものでした。しかし、当時の大映の社長だった永田雅一氏は、「これで客が入らなければ、あいつも役者をあきらめるだろう」と思惑があったこともあり、勝さんの申し出を受けたのです。その後、勝さんは、まさに背水の陣で映画『不知火検校』に挑みます。
この作品で、勝さんは台本を無視し、アドリブを連発します。そこに、計算があったからです。勝さんの突発的なアドリブで共演者をはじめ、現場には異様な緊張感が漂うと、その緊張感が映画にも宿り、ただでさえ不気味な映画の雰囲気を一層高めたのです。この映画公開後、観客たちは、初めて味わうその世界観に魅了され、永田社長の予想に反して、大ヒットしたのです。白塗りの2枚目役というそれまでのスタイルを捨て、極悪非道の盲目の医者という汚れ役で新境地を開いた勝さんは、出演73本目にして、初のヒット作を自らの手で引き寄せたのです。



“勝新”豪快伝説〜其の六『究極の役作り』
『不知火検校』の後も、映画『悪名』などの悪役路線が大ヒットし、大阪の通天閣界隈では、勝さんの作品がかかると映画館が超満員となり、勝さんは“新世界の帝王”と呼ばれるようになりました。そして、勝さんの人気を決定づけたのが、あの不朽の名作『座頭市』です。盲目ながら、居合抜きの達人という型破りなヒーローを演じきるために、勝さんは常軌を逸した修行に臨みます。リアルな殺陣にこだわった勝さんは、『どうして目が見えないのに切れるのか?』という疑問にぶち当たります。答えを求め続けた勝さんは、居合いの達人に弟子入りし、実際に目隠しをして五感で感じる訓練をしたのです。また、盲目の人は、音に対して敏感なはずだと考えた勝さんは、それを強調するために、あることを思いつきます。それは「自分の耳を動かす」こと。
最初の頃、ピクリとも動かすことができなかった耳が、数ヵ月かかって自在に動かせるようになったのです。そんな、勝さんの執念が詰まった渾身の一作、『座頭市』は海外でも人気を博すと、様々な映画人に影響を与えました。『座頭市』の熱狂的なファンには、あのブルース・リーもいます。ちなみに、『座頭市』がヒットした翌年の昭和38年、市川雷蔵さんのギャラが1本あたり300万円だったのに対し、勝さんのギャラは1本250万円でした。なんとかあと50万円アップして、雷蔵さんと並びたいと思った勝さんは、ある日、永田社長に対し、5本指を突き出して、「これだけ上げてもらいたい」と言ったそうです。
最初、難色を示した永田氏ですが、後日、持ち込まれた契約書を見て、勝さんは目を疑ったといいます。なんと、そこに500万円と書かれていたからです。50万円のアップを頼んだつもりが、500万円に勘違いされていたことに勝さんは内心では驚きながらも、「ここで驚いたらまずい」と、必死で平静を装っていたそうです。当時、一般的なサラリーマンの月給が1万円の時代です。こうして、勝さんは、日本で1番ギャラの高い俳優となったのです。



“勝新”豪快伝説〜其の七『本物の役者バカ』
勝さんの生き様は、すべてが芸の肥やし。24時間、映画のことだけしか考えてないような男だったと評されています。ある時、時代劇のリハーサル中に、台本どおりに芝居をしていたほかの役者に、勝さんは「ちょっと待った。
そのセリフはまだだ」とダメ出しをしました。
その理由がわからなかった役者が、「でも台本にはそう書いてますが…」と言ったところ、勝さんは、「そんなもんに頼るな。台本なんて食べちゃいなさい!」と豪快に言い放ったのです。そう言われた共演者たちは、台本を食べるしかなかったそうです。また、勝さんが主催していた映画セミナー『勝アカデミー』の生徒だった小堺一機さんが、勝さんに連れられて、高級料亭に食事に行ったときのこと。
最高級の牛肉を一口食べた次の瞬間、勝さんはそれを“ペッ!”と吐き出しました。「いつからこんな物を出すようになったんだ。お前のとこは…」。そのひとことに場は凍りつき、「少々、お待ちを」と板前さんが慌ててその場を去りました。それを見た勝さんは、「今の顔、見たか?本当に慌てた人間の顔ってのは、ああいう顔なんだ。よく覚えとけ!」と、涼しい顔で話したそうです。



“勝新”豪快伝説〜其の八『黒沢映画降板の真相』
1967年に、勝さんは大映を飛び出し、自ら勝プロを設立します。それまでは、競合の映画会社に所属していたため共演できなかった、石原裕次郎や三船敏郎らと夢の共演も叶うようになりました。そんな飛ぶ鳥を落とす勢いの勝さんに、さらなる吉報が舞い込んだのです。あの黒澤明監督から、映画『影武者』への出演オファーが直々に届いたのです。黒澤監督は、「主役の信玄と影武者の1人2役が出来るのは、勝新太郎しかいない」と考えていました。また、前々から黒澤映画への出演を熱望し、「黒澤さんの映画では本物の矢が飛んでくるそうだが、その矢に当たって死んでも本望だ」とまで、話していた勝さんは、このオファーをとても喜んでいたそうです。
そして、撮影開始。勝さんは役作りの参考にするため、自分の演技を撮影しようと、現場にビデオカメラを持ち込んだのですが、これが黒澤監督のカンに触り、撮影を止めるようにと注意を受けます。これを聞いた勝さんは、そのまま撮影所を出て行ってしまいました。
翌日、黒澤監督は記者会見を開き、一方的に勝さんの降板を発表。その時、監督は沈痛な面持ちでこう言いました。「監督が2人いたのでは、映画は撮れない」と。後日、勝さんは、『勝アカデミー』の授業で、黒澤映画を降板した本当の理由を、「例え世界の黒澤だろうと、こっちは天下の武田信玄だ。武田信玄が謝るはずがない」と話したそうです。



“勝新”豪快伝説〜其の九『借金地獄』
毎日のように飲み歩いていた勝さんは、その場に居合わせた見知らぬ人でも、誰かれ構わず誘い、最初はひとりで飲んでいても、気づけばその数が100人以上に膨れ上がることも。
1年間の飲み代は、ゆうに1億円を超えたといいます。そして、勝さんは誰よりも人を驚かせることが好きな人でした。ある日、後輩の役者、黒沢年雄さんを乗せ、ドライブに出かけたときのこと。運転していた勝さんは、何を思ったのか買ったばかりのリンカーンを電柱にぶつけたのです。そして、言いました。
「どうだ、驚いただろう!」と。なんと、黒沢さんを驚かすためだけに、買ったばかりの高級車をスクラップにしてしまったのです。
この行動が象徴するように、派手な金遣い、破天荒な行いによって借金はかさんでいきます。しかし、勝さんの借金が救いようのない域にまで達した本当の理由は、妥協なき映画作りにありました。当時、勝プロに所属していた松平健さんは、「驚くようなお金を制作費につぎ込んでました。気に食わないシーンは何度でも撮り直し、見てるこっちが冷や冷やしました」と証言します。そんななか、日本映画界の不振のおありも受け、1981年、勝プロは、12億円の負債を抱えて倒産するのです。



“勝新”豪快伝説〜其の十『新婚初夜にサイコロ?』
勝さんが、まだ白塗り2枚目スターをやっていた頃、大映に、あるひとりのアイドルが誕生しました。上方歌舞伎の名門出身のお嬢様だった中村玉緒さん、当時15歳です。玉緒さんが勝さんと出会ったのは、映画『かんかん虫は唄う』でのこと。それから5年後、勝さんの出世作『不知火検校』でも共演を果たすと、ふたりはいつしか惹かれあうように…。仕事では豪傑ながら、惚れた女性に対してはシャイな面がある勝さんは、プロポーズさえもマネージャーに頼むほどだったのです。「本人の口からではなく、マネジャーから『結婚してください』と言われたんです。とにかくシャイな人でした」と、玉緒さんも当時を振り返ります。ところが、素行のよくなかった勝さんとの結婚には、玉緒さんの父・中村雁治郎さんをはじめ、周囲が猛反対。しかし、玉緒さん自身が勝との結婚を強く望んだため、周囲もやむなくこれを認め、ふたりは、1962年に結婚します。そんなふたりが、新婚旅行で泊まったのは、箱根の由緒ある富士屋ホテルです。しかし、新婚初夜、勝さんは玉緒さんとふたりきりになると、どうも落ちつかない様子で「玉緒、ちょっと来い」と、玉緒さんを呼び、『チンチロ』というゲームを教え始めたのです。新婚初夜だというのに、勝さんと玉緒さんは一晩中、サイコロを振っていたそうです。



“勝新”豪快伝説〜其の十一『風邪の玉緒のために…』
黒澤映画での突然の降板、勝プロ倒産、毎日飲み歩き朝帰り…。勝さんと結婚してからの玉緒さんは、夫が迷惑をかけた人々に対し頭を下げて回る毎日で、苦労の連続でした。麻薬事件の時も、懲りない勝さんに代わり、心から謝罪の意を述べたのは、玉緒さんでした。
そんな破天荒な勝さんですが、玉緒さんにはどうしても嫌いになれない理由がありました。
それは、勝さんが時折見せる、あまりにも微笑ましい愛情だったのです。ある日、玉緒さんが風邪をひいて寝込んでいると、勝さんから突然、電話が。「ちょっとある人に代わるよ」という電話口で電話を代わった相手は、なんと、渡哲也さんでした。玉緒さんが驚くと、次に電話口から聞こえてきたのは、玉緒さんが大好きだった渡さんのヒット曲、『くちなしの花』でした。勝さんは、渡さんを夜通し探し回って何とか捕まえると、風邪をひいた玉緒さんのために電話口で歌ってくれるようにと頼み込んだのです。ちなみに、このとき、マイクを持っていたのは、安岡力也さんでした。



“勝新”豪快伝説〜其の十二『最愛の人』
1996年、大麻事件から復帰した勝さんは、舞台『夫婦善哉・東男京女』で、結婚後初めて妻・玉緒さんと共演します。しかし、その地方巡業の途中で、勝さんは緊急入院することに。強気の勝さんは、医師からの告知を自分ひとりで受けたといいます。精密検査の結果は「下咽頭ガン」というものでした。家族を中華料理店に待たせていた勝さんは、店に入るや否や、告知書を家族に見せ、一言だけ呟きました。『残念…いや、無念だ』と。

それから僅か10ヵ月後の1997年6月21日、勝新太郎さんは、「下咽頭ガン」のためなくなります。享年65でした。

生前、勝さんは、妻・玉緒さんに対し、こんな言葉を残しています。

「中村玉緒は勝新太郎なしでも存在し得るが、
勝新太郎は中村玉緒なしでは存在し得なかった」

それは、玉緒さんにとって勝さんから初めて送られた、何ものにも代えがたい最高の贈り物でした。


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