小説 夢野久作「瓶詰の地獄」 解釈と感想
先日、夢野久作の「瓶詰の地獄」を読みました。文章自体はとても短く、十数分あれば読み終わるボリュームだと思いますが、その解釈にはその何倍もの時間がかかる作品だと感じました。
あらすじ
ある島に漂流した太郎とアヤ子という男女からの手紙が三通流されて来ます。
一通目の手紙は、助けがきたが、私たちは海に身を投げて死にます。汚れた魂と体を罰するためです云々。二通目の手紙は、島の生活についてや、艶かしく成長していくアヤ子に対する太郎の思いなどが綴られています。三通目の手紙にはカタカナで三文ほど、早く助けに来てくれという旨が綴られています。
解釈
この小説を読んだ後、ほとんどの人が、手紙が出された順番とは逆順で書かれていると気づいたと思います。
しかし、この手紙たちの中にはとても矛盾した、不思議な点が存在し、読者の解釈もきっとそれぞれ出てくると思います。
この手紙は捏造されたとか、実は二人は死んでいたとか、いろいろな解釈が錯綜していますが、ここで私なりの解釈をいまから書こうと思います。
なぜ二人は死のうとしたのか
これは、聖書というアイテムの働きかけが大きいとおもわれますよね。
最後のカタカナの手紙を読むと、この太郎とアヤ子が兄妹であることがわかります。さらに最初の手紙で、汚れた魂と肉体を罰する云々、書かれており、きっとこの二人は、島で生活するうちに好き合ってしまったんだろうなと解釈できるでしょう。キリスト教では、こうした兄妹で好き好みあってしまうこと(俗にいう近親相姦)は禁忌とされており、10年以上島で聖書を読んで育った二人にとってこれは海に身投げするほどに罪深いことだと、思われたのでしょう。
助けの船は本当に来ていたのか
来てません。最初の、村役場から海洋研究所に出された手紙の中で、この三通の手紙は、ほぼ同時に見つかっています。つまり、助けを求めた三通目の手紙は誰にも読まれていないもです。さらにその手紙の中では「この島」としか書かれておらず、具体的に二人がどこにいるのか、誰もわからなかったでしょう。
海洋研究所への手紙の意味
この小説には計4通の手紙がきていますよね。最初の海洋研究所への手紙をわざわざ載せる意味はなんでしょう。
また中には、10年以上も期間が空いているのに、手紙が全く同じ島に流れ着くわけがないので、この三通の手紙は捏造されたものだという解釈もあるそうですが、私はなんか納得いかないので、もうすこし深く考えてみました。
私は、きっと「手紙を読む順番をリセットするため」だと考えました。そのためには、時間や潮の流れ、季節風を無視してでも同じ島に三通の手紙がつかなければならないのです。
もし海洋研究所が登場しない場合、もしこの手紙を誰かが見つけた場合、きっと最初に見つける手紙は最初についているはずのカタカナの手紙でしょう。するとここで、二人が助けを求めていることがわかり、きっと話は別の展開になるでしょう。また、季節風や潮の流れで同じ島に手紙が届かなかった場合、手紙は発見された順番にバラバラに海洋研究所に送られ、到着した順番で開封されていたでしょう。
この小説で、手紙を逆から並べることができるのは、「三通同時に読むことができる」場合とあります。きっと島民が一通ずつ発見したら、きっと手紙の順番は、手紙が書かれた順番に置かれるでしょう。
手紙を逆順に並べるために、三通の手紙が同時開封されるように、この海洋研究所が登場したんだと考えます。
鉛筆がなくなりますから・・の意味
これは二通目の手紙の最後の方に書かれています。この一文が引っかかる方も多いでしょう。
鉛筆がなくなるということは、その後に書かれた手紙は捏造されたのか。という可能性ももちろん出てきます。
私が考えたのは、
作者が、手紙の順番をややこしくさせようとする意図。
また最後に書かれた手紙は、妹の綾子が書いた手紙で、実は他に鉛筆を持っていたとか、何か代用して書いたとか、どうしても変な過程しか出てきませんね・・・。
結局
結局、捏造説を完全には否定できませんでしたが、私は本物だと信じたいです。
この様々な不思議な点や、矛盾箇所で頭を悩ませているこの状況こそが「瓶詰の地獄」なのではないでしょうか。