名作の楽しみ-404 リルケ詩集 | 松尾文化研究所

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名作の楽しみ-404 リルケ詩集

 リルケと言えば「マルテの手記」が有名で、昔読んだことがある。それよりも彼が詩人であることに興味を持っていたので、ようやく念願が叶ったと言うわけである。解説によると彼は10代から詩を書いていたが、余り注目されず、20代半ばの1899年から1900年にかけてイタリア旅行と2回のロシア旅行の頃に書かれた「時祷集」から個性的な詩が次々と生まれたという。

「時祷集」僧院生活の巻 1899

いま時間が身を傾けて 私にふれる

明るい 金銭的な響きをたてて。

私の感覚はふるえる 私は感じる 私にはできると―

そして造型的な日をとらえる

 

私が眼にとめるまで何ひとつ完成されていなかった

すべての生活がとまっていた

私の眼ざしは熟れている そして花嫁のように

どの一瞥にもその欲する事物がやって来る

 

何ものにも私にとっては小さすぎはしない それでも私はそれを愛し

金地のうえにそれを大きく開いて

高く掲げる そして知らない

それが誰の魂を解き放すかを・・・

 

          *

もろもろの事物のうえに張られている

成長する輪のなかで私は私の生を生きている

たぶん私は最後の輪を完成することはないだろう

でも、私はそれを試みたいとおもっている

 

私は神を 太古の塔をめぐり

もう千年もめぐっているが

まだ知らない 私が鷹なのか 嵐なのか

それとも大いなる歌なのかを

 

これまで掲げてきた詩人とは全く異なる詩だ。

「巡礼の巻」(1901)

いま、赤い目木の実がもう熟れて

老いてゆくえぞぎくが花壇のなかで弱々しく息づいています

夏がすぎてゆくいま、富をもたない者は

いつまでも待ちつづけて 自分を所有することはないでしょう

 

いま、眼を閉じることができない者は

たぶん、かずかずの幻影が

彼の内部で 夜になるのを待ち

その闇のなかで起ちあがろうとしているのに―

その者はまるで老人のように過去の人となっています

 

彼にはもはや何事も現われず どんな一日も訪れて来ません

そして彼の身に起る一切が 彼を欺くのです

神よ あなたもまたそうなのです そしてあなたは

日々に彼を深みへ引きずりこんでゆく石のようです

 

「貧困と死の巻」(1903)

私はあなたの曠野の番人にして下さい

石に傾聴する者にして下さい

あなたの海の孤独のうえに

ひろげるための眼をお与え下さい

河川の流れに沿って行かしめ

両岸の叫喚からぬけだして

遠く夜々のひびきの中へ入らしめ給え

 

私をあなたの人気のない国々へお送り下さい

風がひろびろと吹き渡り

大きな修道院が法衣のように

まだ生きられていない生命をめぐって立ち並んでいる国々へ。

そこで私は巡礼者の群に加わりたいと思います

そして彼等の声や姿から

どんな欺瞞によってももはや距てられず

ひとりの盲目の老人のあとから

彼も知らない道を行こうとおもいます

 

「形象集」(1902-1906)から

或る四月から

  ふたたび森が薫る

 ただよいのぼる雲雀の群は

われわれの肩に重かった空を引きあげ

木の枝を透かしてはまだ虚ろな日が見られたのに―

 永い雨の午後ののち

  金色の日は照らされた

   新しい時がよみがえる

それを恐れて逃げながら 遠い家々の全面で

   すべての傷ついた窓が

小心にその扉をはためかす

 

 それからあたりはひっそりとして 雨さえいっそうかすかに

静かに暮れてゆく岩の先に降りそそぎ

すべての物音は若枝の

かがやく蕾のなかへもぐりこむ

 

木の葉が落ちる 墜ちる 遠くからのように

大空の遠い園生が枯れたように

木の葉は否定の身ぶりで落ちる

 

そして夜々には 重たい地球が

あらゆる星の群から 寂寥のなかへ墜ちる

 

われわれはみんな落ちる この手も落ちる

ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

 

けれども ただひとり この落下を

限りなくやさしく その両手に支えている者がある

 

「新詩集」(19071908)から

献身

私がお前を知ってから さらに芳しく

ああ なんと私の体がすべての血管から花咲くことだろう

ごらん 私は一層すらりとして 一層真直ぐな姿勢で歩いてゆく

それだのにお前はただ待っているのだ―いったいお前は誰だろう?

 

ああ 私は感じている どんなに私が自分から遠ざかってゆくか

どんなにもとの自分を 一葉一葉 失ってゆくかを

ただお前の微笑だけが まるで星空のように輝いている

お前のうえに それからまた私のうえに

 

私の幼な時を通じて まだ名もなく

水のように輝いているすべてのものを

私はお前の名を呼んで 祭壇に捧げよう

お前の髪の毛がその灯明であり

お前の乳房がその軽い花壇であるあの祭壇に

 

1906-1909年の詩」

春風

この風とともに運命が吹いてくる ああ 来るにまかせるがいい

これらすべての迫るもの 盲目なもの

そして私たちを燃えたたすものを―

(それがお前を見出すように お前はじっと動かずにおれ)

ああ 私たちの運命がこの風とともに吹いてくる

 

名もないくさぐさの事物を担って よろめきながら

何処からか この新しい風は運んでくる

海を越えて 私たちの本物の姿を

・・・もしもそれが私たちであれば そして私たちは落ち着くだろう

(大空が私たちのなかで盛り上がっては沈んでゆく)

けれども この風とともに くりかえし

運命は私たちを大きく乗り越えてゆく

 

「ヴォルフ・フォン・カルクロイト伯のための鎮魂歌」は「あらゆるものがはかなく消え去ってゆく無情の時の世界のなかにあって、それを超越して「事物」として存在する芸術品を創り出すことに詩人の意義を認めていた当時のリルケの芸術観や人生観が歌われている注目詩である」と述べられていて、確かにその通りであり、胸にずしんとくるものがあったが、長過ぎるために掲載は控え差していただく。

19131920年の詩」

嘆き

誰に向かってお前は嘆こうとするのか 心よ? ますます見すてられて

お前の道は 不可解な人々の間をぬって もがきながら

進んでいく だがしかし それもおそらくは空しいのだ

なぜなら お前の道は 方向を

未来への方向を保っているからだ

失われた未来への

以前 お前は嘆いただろうか? あれはいったい何だっただろう? あれは

歓呼の木から落ちた一顆の実 まだ熟れていない実であった

けれども いま 歓呼の木は折れる

私のゆるやかに伸びていた歓呼の木が 嵐のなかで

いま折れる

私の眼に見えない風景のなかの

いちばん美しい木が。 私を眼に見えない

天使たちに分からせていたあの一本の木が

 

奇妙な言葉ではないか

奇妙な言葉ではないか 「時」をまぎらすとは!

「時」を逃がさぬ これこそが問題であろうに。

なぜなら 誰か不安におののかぬ者があろうか? 何処に持続が

万象の中の何処に最後の存在があるかと

 

見よ 一日がおもむろに暮れてゆく それは

薄暮を経て 夜の空間へ溶けてゆく

起立が停滞となり 停滞が横臥となって

いま喜んで横たわった世界が朧に消えてゆく―

 

山々は上空に星を鏤めて睡っている―

だが あの山々のなかでも「時」はきらめいているのだ

ああ 私の心の荒野に

屋根もなく「永遠」が迫っている

 

「オルフォィスのソネット」(1923)から

そこに一本の樹がのびた

そこに一本の樹がのびた おお 純粋な乗り超えよ

おお オルフォィスが歌う おお 耳のなかの高く聳えた樹よ

そしてすべては黙った だがその沈黙のなかにさえ

現われたのだ 新たな初まりと合図と変身が

 

沈黙の獣たちがひしめいて 明るい

解き放たれた森の中から 塒や巣の中から 走りでた

すると分かったのだ 彼等がそのようにひっそりとしていたのは

企みや恐怖からでなく

 

ただ聴き入っていたためだと 咆哮も叫喚も妻恋いも

彼等の心のなかで小さく思われた そしてこれらを

迎え入れる小屋さえほとんどなく

 

その支柱がふるえているたったひとつの入口の

暗い欲望から生まれた隠れ家さえなかったところに―

おんみは建てたのだ 彼等のために耳のなかの神殿を

 

1922-1926年の詩」

いつひとりの人間が

いつひとりの人間が 今朝ほど

目覚めたことがあったろう

花ばかりか 小川ばかりか

屋根までもが歓喜している

 

その古びてゆく縁でさえ

空の光に明らんで

感覚をもち 風土であり

答えであり 世界である

 

一切が呼吸づいて 感謝している

おお 夜のもろもろの憂苦よ

お前たちがなんと痕跡もなく消え去ったことか

 

むらがる光の群で

夜の闇はできていた

純粋な自己矛盾であるあの闇が

 

あとがきで、「時祷集」、「形象集」は、原始的・汎神論的自然感情。「新詩集」は、広い意味の事物をそれ自身独立した一つの完全な存在として、時空をはなれたある絶対的な空間の中に置いて歌っている。「1913-1920年の詩」は、人間や地上の事物の無常を痛感しながら、人間存在の意味を問う方向へ向かっている。「オルフォィスのソネット」は地上の事物を歌いながら、実存の危機と深淵を踏み越えて、変身してゆく人間の理想像として捉えている。と述べているが、一言で言えば、哲学的詩であると言ってもいいのではないか。だからと言ってはいいのか分からないが、座右の詩として置きたい詩ではなく、こういう詩の世界もあるのだと言う認識だけに止めておきたい詩集であった。