両国~清澄を歩く その4 新大橋~清州橋~芭蕉稲荷 | jinjinのブログ

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両国~清澄を歩く その4 新大橋~清州橋~芭蕉稲荷

 

 

新大橋から清州橋まで、しばし隅田川沿いを歩きます。

「春のうららの隅田川。櫂のしずくも花と散る」と言うわけには行きませんが、なかなか気持ちのいいお散歩です。

 

 

新大橋から清州橋のちょうど真ん中辺り・・・日本橋消防署のボートが係留されています。

 

 

上の土手へ上がって見てみますと・・・

この辺が「旧新大橋」のあった場所・・・遠く対岸に信号が見えます。

あの信号の辺りにに「旧新大橋跡」の標柱があります。

 

 

 

江島杉山神社からの行程です。

江島杉山神社から「御船蔵跡」を通って「安宅丸記念碑」~新大橋~隅田川テラス

 

 

木に隠れてしまって名前が確認できないと思いますが、緑色の屋根の建物が「芭蕉記念館」

 

 

■清州橋

 

 

清州橋を渡ります。

 

 

清州橋上から隅田川を臨む

 

 

◉清州橋

関東大震災の復興事業として永代橋と共に計画された橋。

「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計ということで、優美なデザインの橋です。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツ・ケルン市にあったヒンデンブルグ橋をモデルにした橋だとか。 

もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所に設置されました。

 

平成12年(2000)に永代橋と共に「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定され、平成19年(2007)勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財国に指定されています。

 令和2年(202081日から、他の隅田川橋梁とともに、夜間のライトアップが開始されています。

 

 

清州橋を渡り、更に萬年橋を渡り「芭蕉稲荷」へと向かいます。

途中「エーデルワイス」の工場があり、前を通ると甘~~い、食欲を誘う匂いがします。

 

 

 

■深川万年橋

小名木川に架かる橋で、小名木川が隅田川と合流する地点にあります。

 

 

萬年橋から隅田川を臨む

 

 

広重はここでちょっと変わった絵を名所江戸百景に残しています。

 

<夏56景 深川万年橋>

 

脇役が富士山?・・・

亀さんを引き立てるかのように、遠方に富士山、白帆の船と小舟を手繰る船頭さんも見えます。

江戸時代には、寺院や神社で、捕らえられた鳥・獣・魚などの生き物を逃がしてやる放生会という儀式が行われていました。 この亀さんは誰かが萬年橋の上で売っていたもの。 手桶の中には他にも生き物がいたことでしょう。 

 

放生会は今でも行われていますが、今ではカメはアメリカ原産のアカミミガメが大繁殖、日本古来の亀が減少し問題となっています。 江戸時代はそんなこともなく、亀も放生会の対象となっていたようです。

ぶら下げられている亀さんは運を天に任せての風情ですが、運がよければ川か池・沼に放してもらえたんですね。

 

北斎も「富嶽36景」の1コマとして「萬年橋」の風景を残しています。

江戸時代、萬年橋は現在の橋の20m程小名木川の河口にありました。

 

この絵も北斎らしい絵ですね。 花押や注釈が無くても北斎だと分かります。

 

 

 

■芭蕉稲荷

 

 

 

 

 

 

芭蕉は、延宝8年(1680)、高弟・杉山杉風から草庵の提供を受け、ここ深川に住みました。
庵は当初「泊船堂」と称しましたが、門人・李下が植えた芭蕉がよく繁ったことにちなみ「芭蕉庵」と改称、自らの俳号もそれまでの「桃青」から芭蕉に改めています。
第一次芭蕉庵は天和の大火(お七火事)で焼失し、その後第二次庵がほぼ同じ場所に、第三次庵は旧庵の近辺に建てられたといいます。
元禄7(1694)芭蕉歿後、庵のあった一帯は信濃国飯山藩・松平遠江守忠喬の下屋敷に取り込まれる。

 

芭蕉庵は旧蹟として残されていましたが、幕末から明治にかけて消失してしまったといいます。

尾張屋切絵図にも、屋敷は「紀伊殿」となっていますが、「芭蕉庵の古跡庭中にあり」と書かれています。

 

 

大正6(1917)、台風による高潮が当地を襲った後、現在の地で芭蕉遺愛のものとみられる石蛙が発見され、地元の人々の尽力により、ここに石蛙を御神体として稲荷を祀り当社が創建されたということです。

 

芭蕉がこよなく愛したと伝わる遺愛の蛙は「芭蕉記念館」にあります。

 

 

<(伝)芭蕉遺愛の蛙はネットからお借りしました>

 

◉芭蕉庵旧址

江戸名所図会に「芭蕉庵」の紹介があります。

 

(万年橋の北詰、)松平遠州侯の庭中にありて、古池の形いまなほ在せりといふ。延宝(167381)の末、桃青翁、伊賀の国よりはじめて大江戸に来り、杉風が家に入り後剃髪して素宣と改む。また杉風子より芭蕉庵の号をゆずり請け、この地に庵を結び泊船堂と号す・・・中略・・・翁は、伊賀の国上野の産、俗称は松尾氏宗房といふ。通称は忠右衛門、あるいは甚七郎とも号くるとぞ。実に中興の俳仙にして一家の祖たり・・・中略・・・西行・宗祇の跡を追慕するの志ありて、身を風雲にまかせ生涯を遠遊を旨とし吉野・竜田の花・紅葉に浮かれ更科・越路の月・雪にさまよひ、つひに元禄七年難波の寓居にてみかりりぬるよし、其角があらわせる「芭蕉翁終焉の記」にみえたり。

 

 

芭蕉稲荷から隅田川の突き当たりまで歩いて、左手の小さな公園に芭蕉像があります。

(江東区芭蕉記念館分館)

 

 

隅田川を眺める芭蕉翁。 思いは「奥の細道」へと旅立った「千住大橋」でしょうか?

 

 

芭蕉像の横から清州橋を眺めます。

 

 

 

さて、ここから旧新大橋があったあたりまで一の橋通りを歩き、安宅丸稲荷神社~六間堀跡~深川神明宮~ゴールの清澄庭園まで歩きます・・・次回に。

 

 

 

 

いつもいつも感謝申し上げ候でござる