織田信長 片岡千恵蔵主演作品 | 俺の命はウルトラ・アイ

織田信長 片岡千恵蔵主演作品

『織田信長』

改題版『風雲児信長』

織田信長 片岡千恵蔵

 映画 トーキー 10巻 現存版90分 白黒

 昭和十五年(1940年)十一月十四日封切

 

 『風雲児信長』版

 昭和二十九年(1954年)十月十九日封切

 

 製作国 大日本帝国

 製作   日活京都

  原作 鷲尾雨行

   脚色 観音寺光太

 撮影 石本秀雄

 音楽 高橋半

 設計 角井嘉一郎

 装置 林米松

 録音 石原貞光

 照明 西村計雄

 編集 宮本信夫

 剣道 尾上小若

 監督補 平尾善尾

 助撮影 柴田達矢

 

 出演

 

 片岡千恵蔵(織田信長)

 

 宮城千賀子(濃姫)

 

 高木永二(斎藤道三)

 宗春太郎(松平竹千代)

 

 河部五郎(織田造酒之丞)

 瀬川路三郎(小牧源太)

 市川正二郎(織田信行)

 小川隆(木田内記)

 遠山満(織田勝左衛門)

 

 上田吉二郎(柴田権六)

 藤川三之祐(大雲和尚)

 浮田勝三郎(佐久間右衛門)

 前田静男(平手五郎右衛門)

 浅野象二郎(斎藤義龍)

 春日清(稲葉伊予守)

 小池柳星(氏家孫八郎)

 

 

 志馬英夫(長井藤右衛門)    
 若松文男(織田黒之充)    
 戸上城太郎(前田犬千代)  

 久松健二(服部小平太)

 阪東薪太郎(平川七之助)

 室田常幸(石川与七郎)

 楠栄三郎(鳥居鶴之助)

 

 常盤操子(末森の方)

 衣笠淳子(岩室の方)

 滝沢静子(各務野)

 比良多恵子(矢羽根の方)

 内田博子(野分の方)

 小松美登里(政秀の妻)

 

 志村喬(平手政秀)

 香川良介(織田信秀)

 

 監督 マキノ正博

 

 ☆

 植木正義→=植木進=片岡十八郎

        =片岡千栄蔵→片岡千恵蔵

 

 佐藤ユキ=東風うらゝ→宮城千賀子

 

 香川良介=香川遼

 

 牧野正唯=マキノ正博=牧野正博

     =マキノ正唯=マキノ陶六

     =牧陶六=牧野正唯=牧野正雄

     =牧野陶六=マキノ雅弘=マキノ雅広

 ☆

 鑑賞日時 場所

 平成二十二年(2010年)十月十一日

 祇園会館

 ☆

 織田信長は川に泳ぐ。少年達と遊ぶ。尾

張の若殿である信長の暴れん坊は各地でうつ

け者と揶揄されている。

 美しき妻濃姫の父は蝮と恐れられている齋

藤道三だ。父織田信秀は皇居に内裏築地修理料

を献上した。

 傅役の家臣平手政秀は大殿の勤皇の尊さを

強調し、信長は日本に生まれた者として当然

のことではないかと述べる。

 

 信秀は病死する。

 

 政秀は信長を諫めて切腹する。

 

 信長は爺の死を悲しむ。

 

 道三は婿信長の器量を見たいと望み聖徳寺

において会見を望む。信長の見事な立居振舞

に道三は感嘆する。

 

 尾張の大名として信長は勇名を馳せる。

 

 織田家の人質である三河国松平家の若殿竹千

代に対し信長は弟のような友情を感じている。

 

 信長は天下布武の課題を掲げその道に邁進

したいという望みを告げる。乱世を終え天下

を統一した暁には皇室を敬いたいと語り、も

し、自身が志半ばに倒れてしまったら、そなた

が皇室をお守りせよと伝える。竹千代少年は

頷いた。

 

 朝廷を崇拝する織田信長と松平竹千代は深

い精神的兄弟愛の絆で心と心はしっかりと繋

がっていた。

 

 柿の木を見て織田信長は腹切った忠臣平手

政秀を想い「爺」と叫んだ。

 

 ☆織田信長 勤皇を語る☆

 

 植木正義(うえき・まさよし)は、明治

三十六年(1903年)三月三十日、群馬県に

誕生した。

 明治四十五年(1912年)満年齢九歳で十

一代目片岡仁左衛門の片岡少年劇に入門し

片岡十八郎を名乗る。

 少年劇解散後は片岡千栄蔵を名乗り、松

嶋屋の屋号で舞台俳優として活動した。

 

 

 植木進の芸名で映画に出演した。門閥制

度に不満と不安を実感していた千栄蔵は、昭

和二年(1927年)直木三十五の紹介でマキ

ノ省三のマキノ・プロダクション御室撮影所

に入社し、芸名を片岡千恵蔵に改める。

 

 これ以後に活動大写真美男剣戟スタアとして

日本活動大写真を代表する存在となる。

 

 昭和三年(1928年)五月二日マキノを退社し、

十日片岡千恵蔵プロダクションを設立する。

 

 昭和五十八年(1983年)三月三十一日、八十

歳で死去した。

 

 満年齢三十七歳で戦国の英雄織田信長を熱く

演じた。千恵蔵の若き闘魂が信長役に漲ってい

る。

 

 宮城千賀子は大正十一年(1922年)十一月

二十六日に岩手県盛岡市に誕生した。本名は佐

藤ユキである。別名義の芸名に東風うらゝがあ

る。

 宝塚歌劇団を経て映画においても活躍した。

片岡千恵蔵主演作品では稲垣浩監督『宮本武蔵』

でヒロインお通を勤めた。

 戦後は鈴木清順監督作品で活躍し『夢二』で

重い存在感を見せた。

 平成八年(1996年)八月七日、七十三歳で

死去した。

 

 満年齢十七歳で凛とした魅力で濃姫を演じて

いる。 

 

 

 志村喬は明治三十八年(1905年)三月十二日に

兵庫県に誕生した。

 本名は島崎捷爾(しまざき・しょうじ)である。

出演映画は四百本を超える。日本映画史を支えた

大名優である。年上の片岡千恵蔵主演が若様信長

で、満年齢三十五歳の志村喬は老臣政秀を重厚に

勤めている。貫禄に圧倒される。

 昭和五十七年(1982年)二月十一日七十六歳で

死去した。

 

 マキノ正博は明治四十一年(1908年)二月二

十九日に誕生した。本名は牧野正唯(まきの・ま

さただ)である。父は日本映画の父牧野省三であ

る。

 子役として数多くの無声映画に出演し、後に

映画監督・脚本家・プロデューサー・録音技師

として活躍した。

 平成五年(1993年)十月二十九日に八十五歳

で死去した。

 

 戦後のマキノ雅弘時代に「任侠映画はやくざを

美化している」というお叱りの言葉があった際に

雅弘監督は「NHKは人殺しの信長や秀吉をドラマ化

しとるやないか」と怒ったという。長屋民主主義

を戦後の映画活動のテーマにしていた雅弘監督は

NHK大河ドラマを厳しく叱った。

 

 笠原和夫の著書によると戦国英雄物語の名作を

重厚に撮っていた伊藤大輔を雅弘は揶揄して、「あ

あいうのはイットウダイスキちゅうねん」と評した

という。

 

 しかし、その雅弘自身がマキノ正博の名で昭和

十五年に撮った『織田信長』は天皇制絶賛の活動

大写真である。

 

 「おいおい、長屋民主主義の名作を発表した巨匠

は御自身で撮った皇室礼賛は素通りしたんかいな?」

と大河ドラマ批判に思わず言いたくなる。

 

 『織田信長』における天皇制・皇室への敬意は

凄まじく絶対的な讃嘆である。天皇家・皇室を美

化・神格化し全ての大名・全ての民は敬いお守り

し崇めることが日本の人間の課題であると強調し

ている。

 

 裕仁が統治者・元首の天皇の位に就いていた

昭和時代は現人神であったことが分かる。

 

 マキノ正博を監督とする日活京都映画は昭和

十五年に裕仁の先輩に当たる天皇を礼賛した。

 

 天皇制が強大であり、崇拝は義務とされてい

た時代である。

 

 満年齢三十二歳の正博が忠義の伝承を巧く描

き語る。

 

 

 雅弘が「イットウダイスキ」と揶揄したのは

伊藤大輔の戦国大名物語の探求の深さを知って

いたからだと思う。

 

 『徳川家康』(昭和四十年)を見聞すると

松平元康が義の人に見えるのである。

 

 本作『織田信長』を見れば信長が勤皇大名に

見える。

 

 歴史研究は歴史研究であり、映画は映画で

ある。史実の探求は大事だが、映画は監督や

脚本家や製作者が探求した作品になる。

 

 マキノ正博は天皇礼賛写真を鮮やかに撮っ

た。雅弘時代にこの写真を忘れたかのように

戦後民主主義を熱く掲げた。戦前の天皇礼賛

の反省だったのか? 

 本作封切の年に誕生した甥の津川雅彦は皇

国史観を礼賛する俳優・監督・思想家となる。

 雅彦が正博時代の叔父から継承したのかどう

かは分からない。

 

 高木永二の道三は凄みがある。

 

 宗春太郎の松平竹千代は清新な魅力が光って

いる。

 

 忠臣織田信長を片岡千恵蔵が逞しく勇敢

な演技で勤めた。

 

 

 天皇制廃止論者のわたくしにとっては恐ろし

い活動大写真だ。

 

 片岡千恵蔵の墓は蓮華寺にある。

 

                   合掌

 

 

                南無阿弥陀仏

 

 

                   セブン