『フェルマーの最終定理』ダイジェスト版(2/2) 数学弱者向けノンフィクション・サスペンス | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 

『フェルマーの最終定理』ダイジェスト版(1/2)

から続く

 

 

 

 

秘密の計算

 アンドリュー・ワイルズは回想する。

 「あれは1986年の、夏も終わりのある晩のことでした。私は友人の家でアイスティーを飲みながら話をしていました。するとその友人がなにげなく、ケン・リベットが谷山=志村予想とフェルマーの最終定理とのつながりを証明したよ、と言ったのです。私は感電したようなショックを受けました。その瞬間、人生の流れが変わってゆくのがわかりました。フェルマーの最終定理を証明するには、谷山=志村予想を証明すればよいというのですから。子供のころに抱いた夢が、取り組むに値するりっぱな仕事になったのです。その夢を手放したりできないことはわかっていました。家に帰ったら谷山=志村予想に取りかかるんだ。そう思いました」

 アンドリュー・ワイルズが町の図書館で一冊の本に出会い、フェルマーの挑戦を受けて立とうと思ってから二十余年の歳月が流れていた。ワイルスはいまはじめて、子供時代の夢へと続く一本の道を見たのである。谷山=志村予想に対するワイルズの態度は、その晩を境に一変した。

 ジョン・コーツ教授の指導のもとケンブリッジ大学で博士号を取得したワイルズは、大西洋を渡って米国のプリンストン大学に移り、いまではそこで教授になっていた。コーツの指導のおかげで、ワイルズはおそらく世界中の誰よりも楕円方程式に精通していただろう。しかしその膨大な基礎知識と数学的な技量をもってしても、行く手に立ちふさがる山が容易に切り崩せるものでないことは、ワイルズにもよくわかっていた。

 ジョン・コーツをはじめほとんどの数学者は、証明に乗り出したところで得るものはないだろうと見ていた。コーツは言う。

 「フェルマーの最終定理と谷山=志村予想の関連はみごとなものでしたが、そこから実際に何か出てくるかというと、私自身は懐疑的にならざるをえませんでした。実を言うと、私は谷山=志村予想が証明可能だとは思っていなかったのです。みごとな理論ではあるけれども、証明できるとは思えなかった。白状すると、自分が生きているうちに証明を目にすることはないだろうと思っていました」

 証明を見つけたければ、まずは頭から足の先までこの問題に浸かりきらなければならない。ワイルズはまず、最新の数学雑誌にかたっぱしから目を通し、新しいテクニックをいじりまわして徹底的に身につけた。この作業は、それから一年半のあいだ続くことになる。楕円方程式とモジュラー形式に適用された、あるいはそこから得られたあらゆる数学を、ワイルズは自分のものにしていった。

 ワイルズはフェルマーの最終定理に直接関係のない研究からはいっさい手を引き、ひっきりなしに開かれている専門家会議にも顔を出さなくなった。とはいえ、彼はプリンストン大学の数学科に所属していたので、セミナーに出席したり、学生への講義や個人指導をするなどの責任は果たした。そしてワイルズはできるかぎり自宅で仕事をすることにした。そうすることで、大学教員につきものの雑用から逃れようとしたのである。自宅ならば屋根裏の勉強部屋に引きこもることができる。彼はその屋根裏部屋で、谷山=志村予想を攻略するための方針を立てようと、すでに確立されていたテクニックの強化拡張に努めたのだった。

 「私は勉強部屋に上がると、何かパターンを見つけようとしました。小さな問題点を解明するために計算してみたり、数学のどれかの領域の概念に自分の問題をあてはめてみたりもしました。参考のために本をめくって、そこではどういう扱いになっているかを調べたこともあります。変形してみたり、少し先まで計算をしてみたり……。そんなことをしながら、これまでの手法はどれも使えないと何度か実感したのです。そうなると、まったく新しい何かを見出さなければなりません。しかし、どこを探せばいいのか。それが皆目わからないのです」

 ワイルズはこの証明に乗り出したそのときから、完全な秘密のうちに一人で仕事を進めて行こうという驚くべき決断を下していた。現代の数学が共同研究という文化を育んできたことを思えば、ワイルズの決断は時代に逆行するようにもみえる。あたかも、数学の隠遁者として名高いフェルマーその人に倣ったかのように。仕事を秘密にすることにした理由の一つは、気を散らされたくなかったからだ、とワイルズは言う。

 ワイルズが秘密主義をとる気になったもう一つの理由は、栄誉を求める気持ちだったにちがいない。証明がほぼ完成したときになって、ジグソーパズルの最後の1ピースが欠けているという事態になることを恐れたのである。その段階でワイルスの開いた突破口のことが漏れてしまえば、ワイルズの仕事をもとにライバルたちが証明を完成させ、栄誉を奪い去るのを食い止める手だてはない。

 それから数年のうちに、ワイルズは数々のすばらしい発見をすることになる。しかし彼はそのうちのどれ一つとして、誰かと議論したり発表したりはしなかった。親しい数学者たちでさえ彼の研究には気づかなかったのである。そのころのワイルスとの会話を思い出して、ジョン・コーツはこう語った。

 「私はワイルズに何度もこんなことを言いました。『フェルマーの最終定理とつながったのは結構だが、谷山=志村予想が証明できる見込みはないね』彼はただだまって微笑んでいましたよ」

 ワイルズは疑いを抱かれまいと、仲間を煙に巻くうまい方法を考えた。1980年代のはじめ、彼はあるタイプの楕円方程式について大きな仕事をなし遂げた。リベットとフライの発見のことを聞いて気が変わるまでは、その成果を一挙に発表するつもりだった。しかしワイルズは、その研究を小分けにして、六ヵ月ごとに小さな論文として発表することにしたのである。こうすれば同僚たちは、彼がこれまで通りの研究を続けているものと思うだろう。この芝居を続けられるうちは、成果を一つも明かすことなく、本当にやりたい研究に専念することができる。

 ワイルズの秘密を知っていたのは、妻のナーダただ一人だった。二人はワイルズが証明に取りかかった直後に結婚し、ワイルズはナーダにだけは研究の進み具合を話していたのである。それからの数年間、彼の注意を逸らすものは家族だけだった。

 「フェルマーを研究しているときの私を知るのは妻だけです。研究のことを話したのは、結婚から数日後、新婚旅行中のことでした。彼女はフェルマーの最終定理のことは知っていましたが、それが数学者にとってどんなにロマンに満ちた存在なのか、どんなに長いあいだ悩みの種だったかは、そのときはまだわかっていませんでした」

 ワイルズは、谷山=志村予想を証明する出発点として、「ガロア群」を用いることにした。ガロア群とは、フランスの生んだ天才数学者である、ガロアの生みだした数学的ツールである。谷山=志村予想を証明するには、無限に存在する楕円方程式の一つ一つが、モジュラー形式とペアになることを示さなければならない。その端緒として、ガロア群を利用すればいい。この着想は、果てしない行程の第一歩であったが、ワイルズはガロア群の力に気づいたとき、最初のドミノを倒すことができた。もっとも、このとき実にすでに二年が経過していた。証明を拡張する方法を見出すためあとどれくらいかかるかは予想もつかなかった。残された仕事がどれほど困難なものかを、ワイルズはよく承知していた。

 「解けないかもしれない問題に、なぜそれほど時間をかけることができたのかと思われるかもしれませんね。その答えは、私はこの問題を考えているのが嬉しくてしかたがなかったから、これに夢中だったからです。私はこの問題との知恵くらべを楽しんでいました。それに、たとえ私の考えていた数学に谷山=志村予想を、したがってフェルマーの最終定理を証明するほどの力はなかったとしても、何かを証明することにはなるだろうと思っていたのです。私はあやしげな裏通りに入り込んでいたわけではなく、あれは間違いなく良い数学だった。それは一貫してそうでした。フェルマーの最終定理にたどり着けない可能性はあっても、単に時間を無駄にしているという心配はありませんでした」



フェルマーの定理が解けた?

 ガロア群を利用するというワイルズの戦略は、谷山=志村予想を証明するための最初の一歩にすぎないとはいえ、それだけを発表してもおかしくない立派な仕事だった。しかし自らに課した隠遁生活のため、ワイルズはそれを公表するわけにはいかなかった。それと同時に、どこかの誰かが同じぐらい大きな成果を挙げていたとしても、ワイルズにはそれを知るすべはなかった。ワイルズはそうした潜在的ライバルのことをどう考えていたのだろう。

 「そうですね。何年もかけてやっと問題を解決してみたら、ほんの数週間前に誰かがすでに解決していた、などという目には誰だってあいたくないでしょう。しかし面白いことに、私はライバルのことはあまり心配していなかったのです。というのも、私が解こうとしていた問題は解けないものと思われていたからです。私も含めて、何かアイディアのある人間がいるとは思えませんでした」

 しかし1988年3月8日、ワイルズは新聞の第一面を見て衝撃をうける。その見出しは、フェルマーの最終定理が解決されたことを告げていた。38歳になる東京都立大学の数学者、宮岡洋一が、世界一の難問に解法を見出したという。宮岡は、”微分幾何学”というまったく異なる角度からこの問題にアプローチしていた。

 宮岡のアプローチはワイルズのアプローチと共通するところがあった。どちらのも、ある領域における重要な予想をフェルマーの最終定理に結びつけ、それによって最終定理を証明しようとしているからである。宮岡の場合、それは微分幾何学であり、ワイルズの場合は楕円方程式とモジュラー形式だった。

 宮岡はその証明を論文として発表した。すぐさま徹底的な吟味がはじまった。論文を手に入れた世界中の数論研究者と微分幾何学者が、論理に小さな穴がありはしないか、誤った仮定が置かれてはいないかと、一行一行、目を皿のようにして調べていったのである。そして数日のうちに何人かの数学者から、証明中に矛盾らしきものがあるとの指摘がなされた。宮岡の仕事のある部分から数論の結論が導かれるのだが、それを微分幾何学の言葉に言い換えてみたところ、すでに何年も前に証明されていた結果と矛盾することがわかったのである。

 この日本人数学者はおもに幾何学を専門としていたが、幾何学の論理をあまり慣れていない数論の領域にもちこんだ際に、ほんの少しだけ厳密性を欠いてしまったのである。誤りを修正しようとする宮岡に大勢の数論研究者が力を貸したが、その努力は実を結ばなかった。こうして最初の発表から二ヵ月後、証明は失敗だったということで意見の一致をみることとなった。

 ワイルズは人知れず、ほっと安堵のため息をついた。フェルマーの最終定理は征服されずにすみ、ワイルズは谷山=志村予想を経由した戦いを続ける。

 これまでの三年間ひたすら努力を続けてきたワイルズは、すでに一連の大きな成果を挙げていた。ガロア群を楕円方程式に応用し、楕円方程式を無限の要素に分解して、すべての楕円方程式の最初の要素はモジュラーだということを証明していた。最初のドミノ牌を倒したワイルズは、次のステップとして、すべてのドミノ牌を倒す方法を探していたのだ。

 こうして聞かされると、ごく当然の成り行きのように思えるかもしれないが、自己不信の時期を乗り越えてここにたどり着くためには、とてつもなく強固な意志が必要だった。ワイルズはその体験を、真っ暗な館の探検になぞらえた。

 「最初の部屋に入ると、そこは暗いのです。真っ暗な闇です。それでも家具にぶつかりながら手探りしているうちに、少しずつ家具の配置がわかってきます。そうして半年ほど経ったころ、電灯のスイッチが見つかるのです。電灯をつけると、突然に部屋のようすがわかる。自分がそれまでどんな場所にいたかがはっきりとわかるのです。そうなったら次の部屋に移って、また半年を闇の中で過ごします。突破口は一瞬にして開けることもあれば、一日、二日かかることもありますが、いずれにせよ、それは何力月ものあいた闇の中で躓きながらさまよったからこそ到達できるクライマックスなのです」

 1990年、ワイルズはいま自分が、闇の館のなかでもいちばん暗い部屋にいるような気がしていた。彼はその深い闇の中で、もう二年近くも手探りしていたのである。楕円方程式の一要素がモジュラーなら、その次の要素もモジュラーだと示す方法が見つからないのだ。過去の論文に書かれていたテクニックやアイディアはすべて試してみたが、その結果わかったことは、使える方法は一つもないということだけだった。

  しかしワイルズは挫けることなく、さらに一年間忍耐を重ねた。そのころ彼は岩澤理論と呼ばれる方法を調べはじめていた。岩澤理論は楕円方程式を分析するための手段で、ワイルズはこれをケンブリッジ大学のジョン・コーツのもとで学んでいた。岩澤理論をこの場合にそのまま使うわけにはいかなかったが、それを少し修正すれば、ドミノ倒しを起こせるようになるのではないかとワイルズは期待したのだった。

 1986年にフェルマーの最終定理の研究に取り掛かったワイルズは、いまでは二児の父親となっていた。家族の存在が、張り詰めた精神を和らげてくれた。

 「緊張がほぐれたのは、子供たちと過ごす時間だけでした。幼い子供はフェルマーなどには興味がありませんから。とにかくお話を聞きたがって、ほかのことをさせてくれないのです」



コリヴァギン=フラッハ法

 1991年の夏、ワイルズは岩澤理倫を修正するという戦いには敗北したと感じるようになっていた。彼が証明すべきは、あるドミノ牌が倒れれば、その次のドミノ牌も倒れるということだった。だが岩澤理論は、ワイルスの要請に応えてくれなかった。

 ワイルズはもう一度徹底的に文献にあたってみた。だが必要な一歩を踏み出させてくれそうな方法は見つからなかっか。それまでの五年間、ブリンストンで事実上の隠遁生活を送ってきた彼は、最新の話題を仕入れるためにも、いったん数学界に戻るべきだろうと考えた。誰かがどこかで革新的な手法を研究していて、なんらかの理由で論文になっていないだけかもしれない。

 こうしてワイルズは、楕円方程式の専門家会議に出席すべくボストンに向った。そこでは楕円方程式の主要な研究者たちに会えるはずだった。

 世界中の同僚たちがワイルズを歓迎し、長いあいだ会議から遠ざかっていた彼に会えることを喜んでいた。誰もワイルズの研究には気づいていなかったし、ワイルズも手掛かりを与えないよう気をつけた。楕円方程式の最新情報を聞きたがっても、その意図を怪しむ者はいなかった。一方、窮状を救ってくれそうな応答も得られなかった。だが、かつての指導者であるジョン・コーツとの会話は役立った。ワイルズは言う。

 「コーツの話によると、彼の指導しているマテウス・フラッハという学生が、楕円方程式を分析するすばらしい論文を書いているというのです。フラッハは、コリヴァギンが最近開発した方法の上に論理を組み立てていたのですが、それはまるで私の問題のためにあつらえたかのようでした。まさに私が求めていたものだったのです。ただし、このコリヴァギン=フラッハ法はさらに発展させる必要がありました。そこで私はそれまでのアプローチを捨て、コリヴァギン=フラッハ法を拡張することに昼夜没頭したのです」

 この新しい方法を使えば、ワイルズは自分の論法を拡張して、楕円方程式の最初の要素だけでなくすべての要素に使えるようにできそうだった。コリヴァギン教授が作り上げた強力な方法に、マテウス・フラッハがさらに磨きをかけていた。しかしコリヴァギンもフラッハも、ワイルズがその方法を世界一意義深い証明に組み入れようとしているとは夢にも思わなかったことだろう。

 プリンストンに戻ったワイルズは、新たに発見したこの方法に習熟することに数ヶ月を費やしたのち、いよいよ実際にそれを使ってみるという大仕事に乗り出した。するとまもなく、特定の楕円方程式に関してはうまくいくことがわかった。つまり、すべてのドミノ牌を倒すことができたのである。しかし残念ながら、特定の楕円方程式ではうまくいったコリヴァギン=フラッハ法も、どの楕円方程式にもうまく使えるというわけではなかった。

 一方、ワイルズは、楕円方程式はいくつかの族に分類できることに気がついた。コリヴァギン=フラッハ法をある楕円方程式に使えるよう修正したところ、その族のすべての楕円方程式に使えるようになったのである。問題は、コリヴァギン=フラッハ法をすべての族に適応させられるかどうかだ。そう簡単にはいかない族もいくつかあったが、ワイルズは一つ一つ困難を乗り越えてゆけそうだという自信をもった。

 六年におよぶ不断の努力のすえに、ようやく終わりが見えてきた。一つ、また一つと、楕円方程式の族がモジュラーであることが証明されてゆき、毎週のように進歩があった。未解決の楕円方程式がすべて片づくのも、いまや時間の問題だった。しかしワイルズはこの最終段階になって、証明のすべてが数力月前に見出したばかりの方法に依拠していることが気になりだしたのである。

 ワイルズは、はたして自分はコリヴァギン=フラッハ法を十分厳密に使っているのだろうかと自問しはじめた。

 「あの年、私はコリヴァギン=フラッハ法を修正しようと猛烈に研究しました。そのために、あまり習熟していない高度な方法を取り入れるということもやりました。新しい数学をたくさん学ばなくてはいけないような、非常に難しい代数学をいくつも取り入れたのです。そして1993年1月のはじめごろ、証明に取り入れた幾何学的方法について、専門家に相談するべきだと考えるようになりました。相談する相手は慎重に選びたかった。秘密を守ってもらわなければならないからです。そして私か選んだのは、ニック・カッツでした」

 ニック・カッツ教授は、やはりプリンストン大学の数学科に所属し、ワイルズとはすでに数年来のつきあいがあった。しかし、親しい間柄だったにもかかわらず、カッツは廊下のすぐ先の研究室で進行していることにはまったく気づいていなかった。彼はワイルズに秘密を打ち明けられたときのことを事細かに覚えている。

 「ある日、お茶の時間にアンドリューが私のそばにやってきて、自分の研究室に来てくれないかと言うんです。何か話したいことがあるようでした。それがいったい何なのかは見当もつきませんでした。アンドリューの研究室に行くと、彼はドアを閉めました。そして、谷山=志村予想を証明できそうだと言ったのです。私はびっくり仰天、目がまわりましたよ。いや、あれはすばらしい体験でした」

 「ワイルズはフラッハとコリヴァギンの研究を発展させていたのですが、証明の大半がそれに依存していて、しかもその部分がかなり高度で難しいというのです。彼はその部分に非常に不安を感じていたようで、誰かと一緒に吟味したがっていました。それが正しいことに確信をもちたかったのでしょう。彼はそれをチェックするのに私が適任だと考えたわけですが、理由はもう一つあったと思います。彼は、私がこのことを誰にも漏らさないと確信していたのです」

 六年間の孤独な研究ののち、ワイルスはついに秘密を明かした。そしてコリヴァギン=フラッハ法による計算の山に取り組むことがカッツの仕事になった。ワイルズのなし遂げたことのすべてがまさしく革命的であり、それを徹底的に吟味しようと、カッツはありったけの知力を注いだ。

 「アンドリューが説明すべきことは、膨大かつ長大だったので、彼の研究室で日常会話のようにやるわけにはいきませんでした。これだけ大きなものになると、きちんとした講義計画が必要です。さもなければまともなことはできないでしょう。それで私たちは講座を立ち上げることにしました」

 そして、大学院生向けの講座を開くのがベストだろうということになった。ワイルズが講義を行い、カッツがそれを聴講する。その講座では、ワイルズの証明のうちチェックの必要な部分を取り上げることになるが、院生はそのことには気づかないはずだった。こうしてチェックを偽装するメリットは、ワイルズにとっては段階を追って証明を説明する機会が得られること、そして、数学科のなかで怪しまれる恐れがないことだった。ワイルズとカッツ以外の人間にとって、これは単なる院生向けの講座だったのである。講座名は、『楕円曲線の計算』とした。

 「地味な講座名です。どんな意味にも取れるでしょう。ワイルズはフェルマーにも谷山=志村にも触れず、いきなり専門的な計算をはじめました。実際に何か行われているかなんて、世界中の誰にもわかりませんよ。目的がわかっていないかぎり、その計算は恐ろしく専門的で退屈だったはずです。それに、計算の目的を知らずにそれを理解するのは不可能です。目的がわかっていてさえ難しいのですから。そんなわけで、院生は一人また一人と減っていき、数週間後には私がたった一人の聴講生になっていました」

 カッツは講義室の席について、ワイルズの計算の一つ一つのステップに注意深く耳を傾けた。そして講座が終わるころには、コリヴァギン=フラッバ法は完璧にうまくいっているようだとの評価を下していた。数学科の誰一人として、そこで進行していることには気づかなかった。誰一人として、ワイルズが数学のもっとも大きな目標を達成しようとしているとは思わなかった。二人の計画はまんまと成功したのである。

 一連の講義を終えると、ワイルズは証明を完成させることに全力を注いだ。彼はコリヴァギン=フラッパ法を楕円方程式の族に次々と適用してゆき、ついに、この方法による解決を拒んでいるのはたった一つの族だけになった。その最後の族に対する証明を完成させたときのことを、ワイルズはこう語ってくれた。

 「五月も末のある朝のことでした。ナーダと子供たちは外に出かけ、私は机に向って残った楕円方程式の族について考えていました。そして、ふとバリー・メーザーの論文を眺めると、短い一文に目が止まったのです。そこには19世紀に作られた構成法のことが書いてありました。そのとき突然、コリヴァギン=フラッハ法を最後の楕円方程式の族に適用するために、その構成法が使えることに気づいたのです。私は午後までそのことを考え続け、昼食をとりに下に降りるのも忘れていました。三時か四時ごろになって、最後の問題はその方法で解決できるという確信が得られました。そろそろお茶の時間だったので、私は下に降りていきました。ナーダは私がこんなに遅く降りてきたことに驚いていたようです。私は彼女に言いました。フェルマーの最終定理を解いたよ、と」



世紀の講演

 七年のあいだ一心に努力した末に、ワイルズはついに谷山=志村予想の証明を完成させた。それはつまり、三十年間夢に見続けたフェルマーの最終定理の証明をなし遂げたということだった。いよいよ世界に向けてそれを発表する時が来た。

 「1993年の5月ごろにはフェルマーの最終定理を手中に収めたと確信していたのですが、証明はもう少しチェックしたいと考えていました。しかし6月末にケンブリッジで専門家会議が開かれると聞き、そこで発表できたらいいなと思ったのです。ケンブリッジは私の故郷であり、大学院生時代を過ごした町でしたから」

 その専門家会議はニュートン研究所で開かれることになっていた。主催者側のメンバーのなかには、ワイルズの博士研究を指導したジョン・コーツもいた。

 「われわれはこの問題に関係のありそうな人たちを世界中から招きました。そのなかにはもちろんワイルズもいました。当初われわれは一週間の集中講演を予定していたのですが、講演の希望者が多かったものですから、アンドリューには講演枠を二つしか割り振れませんでした。しかしその後、彼にはもう一枠必要だろうと判断して、私の分を一枠回してやったのです。彼が何か重大な発表をしそうだとは思っていましたが、それが何なのかはわかりませんでした」

 世界有数の数論研究者が続々とニュートン研究所に到着しはじめた。そのなかには、1986年に、ワイルズの七年に及ぶ試練の元となる計算を発表したケン・リベットもいた。

 「あの会議には私も参加しました。とくにいつもと違うようすはなかった。そう、アンドリュー・ワイルズの講演について妙な噂が流れ出すまではね。彼がフェルマーの最終定理を証明したというのです。まったく馬鹿げた話だと思いましたよ。そんなことができるわけがない。数学界ではよく噂が飛び交います。とくに電子メールでの噂が多い。経験から言って、そういう噂があまり信用できないことはわかっていました。しかしその噂はいつまでも止まないのです。アンドリューはそれに関する質問をはぐらかすし、どうもようすが変なのです。ジョン・コーツが彼に言いました。『アンドリュー、きみはいったい何を証明したんだい。報道関係者を呼ぼうか?』。しかしアンドリューは曖味に首を振るだけで、口をつぐんでいました。彼は最高のドラマをもくろんでいたのです」

 ワイルズが行う一連の講演は「モジュラー形式、楕円曲線、ガロア表現」という題目だった。その年の初めにニック・カッツのために行った院生向けの講義と同じく、講演の題目はやはりどうにでも取れ、そこから最終目的を知ることはできなかった。聴衆の大部分は例の噂を知らなかったため、講演が何をテーマにしているのかがわからず、細かいところはほとんど聞いていなかった。一方、噂を耳にしていた人々は、それを裏づけるささいな手掛かりはないかと神経を集中させた。

 講演は二日にわたっておこなわれた。翌日にはより多くの人々が噂を耳にしたらしく、二日目の講演では聴衆が大幅に増えていた。ワイルズは谷山=志村予想をほのめかす計算をしてみせて聴衆をじらせた。しかし、彼が本当に証明を成功させたのか、そしてその結果フェルマーの最終定理を征服したのかは、依然としてわからずじまいだった。

 6月23日の、ワイルズの講演には、彼の証明を支える理論を生み出した人たちがほとんど全員その場にそろっていた。メーザー、リベット、コリヴァギンン……。また、ケンブリッジ大学数学科の全員が最後の講演を聞きにつめかけていた。幸運な人々は満員の講演会場に潜り込めたが、あぶれた人たちは通路で爪先立ちをして窓から覗き込むしかなかった。ケン・リベットは、今世紀最大の数学の発表を見逃すことのないようにと手筈をととのえていた。

 「私は早めに来て、パワー・メーザーといっしょに最前列に腰掛けました。その瞬間を収めようとカメラを持ってね。あたりの空気は張りつめ、みんなとても興奮していました。歴史的な瞬間に立ち会うのだという意識がありましたね。講演がはじまる前も、はじまってからも、みんなの顔はほころんでいました。その数日、徐々に緊張が高まっていたのですが、いよいよフェルマーの最終定理が証明されようというすばらしい時がやってきたのです」

 七年におよぶ精力的な研究のすえ、ワイルズはいままさに、その証明を世瞿に向けで発表しようとしていた。不思議なことに、ワイルズは講演の最後の瞬間をよく覚えていないという。しかしその場の雰囲気は想い出すことができた。

 「報道関係者たちは講演の噂を聞きつけていたようですが、幸運にも会場には来ていませんでした。それでも講演の終わりに近づくと、たくさんの人たちが写真を撮りはじめたのです。研究所の所長は、用意周到にもシャンパンを一本持ち込んでいました。私か証明を口にすると、なんとも言えない威厳に満ちた静寂が訪れました。それから私は黒板にフェルマーの最終定理を書き、こう言ったのです。『ここで終わりにしたいと思います』。喝采がわき起こり、いつまでも止みませんでした」



そして……

 なぜかワイルズは、この講演について相矛盾する二つの感慨を抱いていた。

 「すばらしい出来事だったには違いないのですが、私の気持ちは複雑でした。七年間というもの、これは私の一部であり、仕事としてはこれがすべてだったのです。私はこの問題に夢中で、この問題を独り占めしているとさえ感じていました。それなのに、私はそれを手放そうとしていた。まるで自分の一部を失うような気分でした」

 ケン・リベットはそんな感傷とは無縁だった。

 「あれはまったくすごい体験でした。たいていの会議には、お決まりの講演がいくつかあるものです。すぐれた講演もあるし、特別な意味をもつ講演もある。しかし三百五十年間も未解決だった問題を解決したという講演に出くわすなんて、人生に一度の体験ですよ。みんな顔を見合わせて言っていました。『なんということだ。われわれは歴史的瞬間に居合わせてしまったんだ』ってね」

 数学者たちはすぐにこの大ニュースを電子メールで広めたが、一般社会はその夜のテレビニュースか翌日の朝刊を待たなければならなかった。テレビの取材陣や科学記者がニュートン研究所に押しかけ、「世紀の大数学者」にインタビューさせてくれと詰め寄った。イギリスの『ガーディアン』紙には「数学最後の謎に決着」、フランスの『ル・モンド』紙には「フェルマーの最終定理、ついに解かれる」の文字が躍った。ジャーナリストは数学者に専門家としての意見を求め、まだショックから抜け出していない教授たちは、最高度に複雑な証明を手短に説明するよう求められたり、谷山=志村予想をひとことで言えばどうなるかと尋ねられたりした。

 志村教授が自分の予想が証明されたことをはじめて知ったのは、『ニューヨーク・タイムズ』の第一面を見たときだった。「数学界長年の謎に、ついに『解けた!」。友人の谷山豊の自殺から三十五年目のことだった。谷山=志村予想が証明されたことは、フェルマーの最終定理が証明されたことよりもずっと大きな快挙だとみる専門家は多い。というのも、谷山=志村予想が証明されることは、ほかの多くの定理にとってとてつもなく大きな意義があるからだ。ところがジャーナリストたちはフェルマーにばかり焦点を合わせ、谷山=志村には軽く触れるだけ。あるいはまったく触れなかった。

 数学の記事が新聞の第一面を飾ったのは、1988年に宮岡洋一が「証明」を発表して以来のことだった。今回とあのときとの違いは、記事が二倍ほど大きく扱われたこと、そして疑問を投げかけるコメントがないということだった。ワイルズは一夜にして世界一有名な数学者、というより世界で唯一有名な数学者となり、米国『ピープル』誌は、ダイアナ妃やオープラ・ウインフリーとならべて、「今年もっとも関心を集めた25人」にワイルズを挙げた。

 マスコミがお祭り騷ぎにわき、数学者たちが世間の注目を浴びることを楽しんでいる一方で、証明のチェックという重要な作業が進行していた。あらゆる科学の原理がそうであるように、数学上の新しい業績もまた、徹底的な吟味がなされないうちは正しいとは認められない。ワイルズの証明も審判を仰がなければならなかった。ニュートン研究所でのワイルズの講演は、証明の概略を示したにすぎず、専門家によって正式に認められたわけではないのである。学会の定めるところによれば、いかなる数学者も完成論文を権威ある専門誌に提出し、編集人はレフェリーを選任して、その一行一行を吟味してもらわなければならない。ワイルズは、レフェリーからの最終報告が祝福に満ちたものであることを祈りつつ、不安な夏を過ごさねばならなかった。



小さな問題点

 ケンブリッジでの講演が終わるやいなや、ワイルズがフェルマーの最終定理を証明したという知らせがヴォルフスケール委員会に届いた。証明を審議するこの委員会は、すぐにワイルズに賞を与えるわけにはいかない。規則にあるように、証明は他の数学者たちによって検証され、論文は公式に発表される必要があったからである。

 ワイルズは論文を委員会に提出し、その編集人であるパワー・メーザーはさっそくレフェリーの選定に取り掛かった。ワイルズの論文には古代から現代までのさまざまなテクニックが含まれていたため、メーザーは例外的に、通例のように二、三人のレフェリーではなく、六人のレフェリーを選任することにした。世界中の学術誌を合わせると年間三万本ほどの論文が発表されているが、ワイルズの論文の量と質を考えるならば、その査読は他に類を見ないたいへんな作業になることが予想された。そこで作業を容易にするため、二百ページの証明を六つの章に分け、各レフェリーが一章ずつ担当することになった。

 第三章を担当したのはニック・カッツである。彼はその年のはじめに、ワイルズの証明のその部分をすでに吟味していた。

 「私の担当する章は七十ページほどだった。論文を一行一行読んでいって間違いがないことを確かめていった。ときどき議論がわからなくなって、毎日のようにに、一日に二度ということもありましたが、アンドリューに電子メールで質問をしました。このページできみの言っていることが理解できないとか、この行は間違っているのじゃなかろうかといったことです。たいていはその日か次の日は返事があって、疑問は解消し、次の問題に取り掛かるといったぐあいでした」

 ワイルズの証明は、何百もの計算が何千もの論理によって複雑に張り合わされた巨大な構築物である。一つの計算に間違いがあったり、論理の結びつきが一カ所ゆるんだりしただけで、証明全体がだめになる恐れがあった。ワイルズはレフェリーたちが仕事を終えるのを不安な思いで待った。

 それでもワイルズは、証明をレフェリーに託す前に二度までもチェックしていたので、せいぜい文法ミスや打ち間違いに相当するような、即座に対応できる、ささいな誤りしかないだろうと考えていた。カッツは当時を振り返ってこう語った。

 「われわれの質問は、これといった問題もなく8月まで続きました。しかしその後、ちょっとした問題に出くわしたのです。はじめのうちは、その問題もそれまで同様小さなものだろうと思っていました。8月23日ごろ、私はアンドリューに質問の電子メールを送り主した。その件は少し込み入っていたため、彼はファックスで返事をくれました。しかしそのファックスは質問への答えにはなっていないようでした。そこで私はもう一度電子メールを送りました。すると、またしても満足のいかないファックスが送られてきたのです」

 ワイルズはこのミスもそれまでと同じく根の浅いものだと決め込んでいた。しかしカッツはしぶとく食い下がり、ワイルスも真剣に考えざるをえなくなった。ワイルズは語る。

 「大した問題とも思えないのに、私はそれをすぐに解決することができませんでした。それでもしばらくのあいだは他のミスと同じようなものだろうと思っていたのですが、9月になって、それは小さな問題ではなく、根本的な欠陥だということがわかりはじめたのです。その誤りはコリヴァギン=フラッハ法にかかわる重要な部分にあったのですが、非常に微妙なところだったため、すっかり見落していたのです。それはとても抽象的で難しい部分で、簡単には説明できません。説明する相手が数学者だったとしても、その人は原稿のその部分を二、三ヵ月かけて詳しく勉強しなければならないでしょう」

 問題は、コリヴァギン=フラッハ法がワイルズの思惑通りに機能する保証はないということだった。コリヴァギン=フラッハ法は、すべての楕円方程式とモジュラー形式の最初の要素から全要素へとワイルズの証明を拡張し、一つのドミノ牌が次のドミノ牌を倒すためのメカニズムになってくれるはずだった。もともとのコリヴァギン=フラッハ法は限定された条件下でしか機能しないが、ワイルズはそれを必要なところまで強化、適応させたつもりだった。しかしカッツによれば必ずしもそうはなっておらず、その結果は壊滅的たった。



カーペット張り職人

 自分の発見した誤りの重大さに気づいたカッツは、なぜ春の講義のときにそれを見つけられなかったのかと自問しはじめた。誤りの発見だけを目的として開かれた講義ではなかったか。

 「おそらく問題は、講義を聴くときの態度にあるのだと思います。すべてを理解することと、講義する人のじゃまをしないこと、その兼ね合いが難しいのです。もしもひっきりなしに質問していたらここがわからないとか、そこはどうなっているのかとか、講義する方は何も説明できなくなり、聴く方も結局は何もわからずじまいになるでしょう。一方、質問しなければ内容は理解できませんから、礼儀正しく頷いてはいても、何もチェックできないことになってしまう。質問をしすぎることと、しなさすぎること、そのバランスが難しいのです。そしてあの春の講義の終わりごろ、私は質問をしなさすぎるという過ちを犯した。そこからこの誤りがこぼれ落ちたのです」

 世界中の新聞がワイルズのことを世界一すばらしい数学者と呼び、数論の研究者たちが三百五十年にわたった無念を晴らして、ついにピエール・ド・フェルマーを打ち負かしたと思ったのは、ほんの数週間前のことだった。ところがいまやワイルズは、誤りを認めなければならないという屈辱的な立場に追い込まれていた。しかしワイルズはそれを認める前に、欠陥を埋めるべく全力を尽くしてみようと思った。

 「私は諦めきれませんでした。頭はその問題のことでいっぱいで、そのときはまだコリヴァギン=フラッハ法をほんの少し手直しすればすむと信じていたのです。ええ、小さな修正だけでうまく機能するようになると思っていました。そして私は以前のように、外界をいっさい遮断することにしたのです。もう一度これだけに専念する必要があったのですが、状況は以前よりもずっと難しくなっていました。私はしばらくのあいた、問題はすぐに解決できる、翌日にはすべて丸く収まると思っていました。そうであったらよかったのですが、時が経つにつれて、問題はますます侮り難く見えてきたのです」

 できることなら、数学界に気づかれる前に問題を解決したかった。七年間の努力をつぶさに見てきたワイルズの妻は、いまやすべてを破壊しかねない問題と苦闘する夫を見守らなければならなかった。ワイルズは彼女の楽観を思い出す。

 「9月にナーダが、自分の誕生日にほしいのは正しい証明だけだと言いましてね。彼女の誕生日は10月6日なのです。正しい証明をプレゼントするのにニ週間しかありませんでした。そして、それは無理でした」

 それはニック・カッツにとっても緊張の時期だった。 「10月までにこの誤りのことを知っていたのは、私と他の章を担当したレフェリーたちとアンドリューだけでした。そう、原理的にはそれで全員です。私はレフェリーとして秘密を守るべき立場にあると考えていました。この件についてアンドリュー以外の人間と話すわけにはいかないと思っていたので、私は一言も漏らしていません。アンドリューは見た目はふだんと変わりありませんでしたが、この時点では秘密を抱えていたわけですから、さぞつらかったことでしょう。アンドリューは、あと一日あれば解決してみせるといったようすでした。しかし、秋が過ぎても論文は公開されず、証明に問題があったという噂が流れはじめたのです」

 とくに、やはりレフェリーを務めていたケン・リベットは、秘密を守ることの難しさをひしひしと感じるようになっていた。

 静かにしようという呼び掛けにもかかわらず、電子メールでの噂話はいっこうにおさまらなかった。数学者たちは、噂に聞く欠陥についてあれこれ言うだけでなく、レフェリーの発表を先取りするという、倫理的に問題のある話題も出はじめた。まぼろしの証明をめぐって騒ぎが大きくなる一方で、ワイルズはできるかぎり論争や憶測には取り合うまいとした。

 「私は殼のなかに引きこもっていました。人が私のことをどう言っているか知りたくなかったのです。私はひたすら外界から自分を閉ざしていたのですが、ときどき同僚のピーター・サーナクが、『外は嵐のようたぞ』と教えてくれました。それでも私は、とにかく一人になってこの問題に集中したかったのです」

 ワイルズと同じころプリンストン大学数学科に加わったピーター・サーナクは、だいぶ前からワイルスの親しい友人になっていた。この厳しい混迷の時期、サーナクはワイルスが何でも相談できる数少ない人間の一人だった。サーナクは言う。

 「詳しいことはわかりませんでしたが、彼がこの試練を乗り越えようとがんばっているのは確かでした。しかし、彼が計算の一部を修正すると、必ずほかのどこかに問題が生じたのです。まるで部屋のサイズよりも大きなカーペットを敷こうとしているかのようでした。アンドリューが部屋の片隅にカーペットを合わせると、別の隅がもちあがってしまう。そして、そのカーペットが部屋に合うかどうかは、彼には判断がつかなかったのです。でも、いいですか、たとえ欠陥があったとしても、アンドリューは大きな一歩を踏み出したのです。彼以前には誰一人として、谷山=志村予想には近づくことさえできなかった。それがいまでは、みんなが興奮にわきかえっていたのですから。アンドリューが新しいアイディアをたくさん示してくれたおかげです。それらは誰にも考えつかなかったような、根本的で新しいアイディアでした。仮に欠陥が修正できなかったとしても、彼は大きな突破口を切り開いたことに変わりはなかったのです。もちろん、欠陥が修正されなければフェルマーの問題は解決されないまま残ったでしょうが」

 しかしとうとうワイルズも、いつまでも沈黙を押し通すわけにはいかないと思うようになった。解決が目の前にあるわけではなく、そろそろ憶測の嵐に終止符を打つべきときだった。みじめな敗北の秋も過ぎたころ、彼は一本の電子メールを数学関係の掲示板に載せた。

 フェルマーの現状
 1993年12月4日

 谷山=志村予想とフェルマーの最終定理に関する私の研究についていろいろ憶測があるようなので、現状を簡単に説明します。査読の過程でいくつか問題が現れ、そのほとんどは解決されましたが、一つだけまだ解決できないものがあります。谷山=志村予想(のほとんどの場合)を、セルマー群の計算に還元する基本的な部分は正しいのですが、(モジュラー形式に付随する対称平方表現に関する)半安定の場合でセルマー群の元の正確な上限を計算する最終段階が完全ではありません。しかし、ケンブリッジでの講演で説明したアイディアを使うことによって、近い将来にこの問題を解決できると信じています。論文の原稿にはまだやるべきことが多く残されているため、プレプリントとして発表する段階には到っていません。2月にはじまるプリンストン大学での講義で、この研究に関する完全な説明をするつもりです。
  
 ワイルズの楽観を額面通りに受け取った者はほとんどいなかった。欠陥が修正されないまま六ヵ月が過ぎ去り、これからの六ヵ月で状況が変わるとも思えなかった。いずれにせよ、ワイルズがほんとうに「近い将来に解決できる」と思っているのなら、なぜわざわざ電子メールを掲示したりするのだろうか。あとしばらく沈黙を守り通し、完成した論文を発表すればよいことではないか。ワイルズはこの電子メールで、11月の講義では説明をすると約束した。だが、その約束は果たされないままに講義は終わり、数学界は彼が時間稼ぎをしているだけなのではないかと疑いはじめた。

 ニュートン研究所での講演から六ヵ月も経たないうちに、ワイルズの証明はぼろぼろになった。長年にわたる秘密の研究を支えてくれた喜びと情熱と希望は、いまや狼狽と絶望に変わり果てていた。子供時代の夢が悪夢に変わっていったようすを、ワイルズはこう語った。

 「はじめの七年間、私はI人きりの戦いを楽しんでいました。どんなに難しくても、どれほど勝ち目がなさそうに見えても、私が取り組んでいたのは自分の大好きな問題だったのです。これは子供のころからの情熱なのです。手放すなんてできません。いっときも離れたくありませんでした。それから私は結果を公表し、ある種の喪失感を味わいました。それはとても複雑な気持ちでした。みんなの反応を目にしたり、私の証明が数学の流れを変えるさまを見たりするのはすばらしいことでした。しかしそれと同時に、私は一人きりで追い求めていたものを失ってしまった。私か叶えようとしていた私だけの夢は、みんなのものになってしまったのです。そして証明に問題があるとわかると、何十、何百、何千もの人たちが私の注意を逸らそうとしました。あんなさらし者のような状態で数学をするのは私のやり方ではないし、噂に取り巻かれての数学は少しも楽しめませんでした」

 ワイルズの置かれた状況には、世界中の数論研究者が同情していた。ケン・リベットは、七年前にこれと同じ立場に立たされたことがあった。谷山=志村予想とフェルマーの最終定理とのつながりを証明しようとしていたときのことである。

 「私はその証明について、バークレーの数理科学研究所で講義をしていました。すると聴衆の中からこんな声があがったのです。『ちょっと待ってくれ。それが成り立つことがどうしてわかるんだ』。私はすぐに理由を説明しましたが、『それはこの場合にはあてはまらないね』と言われてしまったのです。背筋の凍る思いでしたよ。冷や汗がどっと吹き出し、私はすっかり動転していました。しかし私はしばらくして、この事態を救う道が一つだけあることに気づいたのです。その領域の基本となる研究に立ち帰って、同じような状況にどう対処しているかを調べてみることです。そして鍵になる論文を調べてみたところ、私の方法は確かに今の場合に使えることがわかりました。こうして私は一両日中にすべての修正を終え、次の講義ではその点を説明することができたわけです。しかし、重要な発表をしたときはいつだって、根本的な誤りが見つかる恐れはあるのです」

 「論文に誤りが見つかったとき、その後のなりゆきには二通りあります。一つは、すぐに確信がみなぎって、証明が容易に復活する場合です。しかしその逆もある。犯した誤りが根本的なもので、修正する方法はないとわかったときにはとても動揺するし、がっくりと落ち込みますよ。欠陥が大きく広がって、修正しようとすればするほど泥沼にはまってしまい、せっかく導いた定理がばらばらに壊れてしまうことだってあるのです。しかしワイルズの場合、証明のそれぞれの章は独立したすばらしい論証でした。それは七年にわたる研究の成果で、重要な論文をいくつもつなぎ合わせたようなものなのです。そして、それぞれの論文は興味深い内容をもっている。欠陥はそのうちの第三章にあったわけですが、第三章を取り除いたとしても、残りは文句なくすばらしい仕事でした」

 しかし第三章抜きでは、谷山=志村予想もフェルマーの最終定理も証明したことにはならなかった。ようやく手にしたかと思った証明はいまや風前の灯となり、やりきれない気分が数学界を覆った。しかも、発表から六ヵ月が過ぎようというのに、ワイルズとレフェリー以外は誰一人として論文を見ることすらできないでいるのだ。誰もがその欠陥を詳しく知ることができるよう、情報を公開すべきだという批判が広がった。どこかの誰かがワイルズの見落しに気づいて、欠陥を修正する方法を考えつくかもしれないというのである。証明を独り占めにするのはもったいないと言う数学者も出はじめた。他の領域の数学者のなかには、「いったい数論の連中は、証明するということの意味がわかっているのか」という嘲りの言葉をあびせかける者もいた。数学史上もっとも誇れるはずの出来事が、物笑いの種へと変わりつつあった。

 ワイルズはこの圧力に屈することなく、論文の公開をあくまでも拒んだ。彼はこの証明に七年間の努力を捧げてきたのだ。いまさら他人が証明を完成させて栄誉を横取りしてゆくのを、指をくわえて見ていることなどできようか。フェルマーの最終定理を証明したと言える人間は、誰よりも長い時間を研究に費やした人間ではなく、最終的に完全な証明を提示した人間なのだ。もしも欠陥のある状態で論文を公表したりすれば、欠陥を修正して証明を横取りしようとする人たちから質問や説明が殺到し、ワイルズ自身が証明を修正する妨げになるばかりか、解決の糸口を他人に与えてしまうことになるだろう。

 ワイルズは最初に証明をなし遂げたときと同じ孤独な環境に戻ろうと、屋根裏部屋にこもる習慣を復活させた。そして以前と同じように、ときどきプリンストン湖を散歩するようになった。かつては軽く手を振って通り過ぎていったジョギング中の人やサイクリングをする人、ボートを漕ぐ人たちが、いまは足を止めて修正の進みぐあいを尋ねた。ワイルズは世界中で雑誌の表紙を飾り、『ピープル』誌には特集を組まれ、CNNにインタビューもされていたからである。過ぎ去った夏、彼は世界的な数学者になった。しかしその栄光もいまでは色褪せていた。

 一方、数学科ではあいかわらず噂話が絶えなかった。プリンストン大学の数学教授ジョン・H・コンウェイは、当時の数学科の喫茶室の雰囲気をこう語ってくれた。

 「私たちは三時になるとお茶を飲みに集まり、クッキーに殺到しました。そしていろいろおしゃべりをするのです。数学上の問題や、O・J・シンプソンの裁判のこと、そしてアンドリューの仕事の進みぐあいのことも。彼に直接聞いてみようという人間は一人もいなかったので、われわれはソ連専門の政策評論家みたいでしたね。つまりこんな調子です。『今朝、アンドリューを見かけたよ』。『で、彼は笑顔をみせたかい?』。『まあね。でも、上機嫌には見えなかったな』。私たちはこうして彼の気持ちを推し量るしかなかったのです」



 悪夢の電子メール

 冬が深まるにつれて、快挙への期待は薄れてゆき、論文を公表すべきだと主張する数学者はさらに数を増していた。噂は引きも切らず、ある新聞などは、ワイルズはすでにお手上げの状態で、証明は救いようもないほど壊れてしまったと書いた。それは誇張ではあったが、たしかに何十もの方策を使い果たしたワイルズには、解決への新たな道はいまだ見えていなかった。

 ワイルズはピーター・サーナクに、状況は絶望的で、もう敗北を認めるべきところまで來ていると打ち明けた。するとサーナクは、日々の研究で頼りになる人間がいないことも原因の一つだろうと言った。ワイルズにはアイディアをぶつける相手もいなければ、異なるアプローチへのヒントをくれる人間もいなかったのである。誰かに事情を打ち明けて、もう一度がんばってみてはどうか、とサーナクは言うのだ。ワイルズに必要なのは、コリヴァギン=フラッハ法に熟達し、問題の詳細を秘密にしてくれる人間だった。ワイルスは考え抜いた末に、ケンブリッジ大学の講師、リチャード・テイラーをプリンストンに招き、共に研究をすることにした。

 テイラーは今回のレフェリーの一人であるとともに、かつてワイルズの教え子でもあった。したがって二重に信頼が置けたのである。前年、テイラーは、ニュートン研究所の聴衆に混じって、がっての指導教官が世紀の証明を発表するのを見ていた。いまや彼自身が、欠陥のある証明を救うべく手助けをすることになったのである。

 1月、ワイルズはテイラーの協力を得て、もう一度コリヴァギン・フラッハ法を根気強く調べはしめた。出口を見つけようと何日か手探りしたところで、不意に新しい領域に出ることもあった。だが、結局はもといたところに戻ってしまう。思い切って深く踏み込んでも、やはりうまくいかない。そんなことが何度も繰り返されるうちに、二人は自分たちが、想像を絶する広大な迷路のただ中にいることを悟った。何よりも恐ろしいのは、その迷路が無限に広がっていて、二人はその中を永遠にさまよう運命にあるのではないかということだった。

 その夏、ワイルズとテイラーの作業には何の進展もなかった。八年のあいだたゆまぬ努力を続け、生涯の夢を追ってきたワイルズも、いよいよ敗北を認める覚悟を決めた。ワイルズはテイラーに、これ以上続けることに意味を見出せなくなったと話した。しかしテイラーは、9月いっぱいをプリンストンで過ごし、その後ケンブリッジに戻る予定を立てていた。そこでテイラーは気落ちしているワイルズに向って、もう一ヵ月だけがんばってみようと言った。もしも9月の終わりまでに修正の見通しが立たなければ、そのときは諦めて失敗を認め、欠陥のある証明を発表して、他の人が吟味できるようにしようというのである。



誕生日の贈り物

 世界一手強い数学の問題を相手にしたワイルズの戦いは、失敗に終わる運命にありそうだった。しかしこれまでの八年間を振り返るなら、研究の大部分がいまも有効であることにワイルズは自信をもってよかった。第一に、ワイルズがガロア群を用いたことは、この問題に新しい洞察をもたらした。あらゆる楕円方程式の最初の要素は、いずれかのモジュラー形式の最初の要素とペアにできることがすでにワイルズによって示されていた。問題は、楕円方程式のある要素がモジュラーであれば、次の要素もモジュラーであり、それゆえすべての要素がモジュラーであることを示す部分だった。

 研究の中盤、ワイルズは証明を拡張することに全力を尽くした。帰納法のアプローチを完成させようと岩澤理論に取り組んだのである。岩澤理論ならば、一つのドミノ牌が倒れればすべてのドミノ牌が倒れることを示せるのではないかと思ったのだ。当初、ドミノ効果を起こしうるほど強力に思われた岩澤理論は、だが最終的には彼の期待に応えてくれなかった。ワイルズは数学の袋小路のために二年間を捧げたわけである。

 そして一年の停滞期間を経た1991年の夏、ワイルスはコリヴァギン=フラッハ法に出会い、岩澤理論を断念してこの新しいアプローチをとることにした。そして1993年、証明はケンブリッジで発表され、彼は英雄になった。ところが一ヵ月としないうちに、コリヴァギン=フラッハ法に欠陥のあることがわかり、それからというもの状況は悪くなる一方だった。コリヴァギン=フラッハ法を修正すべくあらゆる試みが行われたが、すべては失敗に終わった。

 しかし、コリヴァギン=フラッハ法を含む最終段階を別にすれば、ワイルズの研究にはなお価値があった。谷山=志村予想とフェルマーの最終定理は証明できていないにせよ、ワイルズは他の定理の証明に利用できる数々の新しいアプローチや戦略を数学者たちに与えたのである。彼の失敗になんら恥ずべき点はなく、ワイルズは負けを認めようという気持ちになっていた。

 せめてもの慰めに、ワイルズはなぜ失敗したのかを知りたかった。テイラーが他の方法を調べ直しているあいた、ワイルズはいま一度コリヴァギン=フラッハ法に取り組み、9月いっぱいを費やして、うまくいかなかった理由を突き止めることにした。運命の日々を、彼は鮮やかに覚えている。

 「ある月曜日の朝、そう、9月の19日のことです。私は机に向ってコリヴァギン=フラッハ法を吟味していました。この方法を生かせると思っていたわけではありませんが、少なくとも、なぜだめなのかは説明できるだろうと。溺れる者は藁をもつかむといった心境でしたが、私は自信を取り戻したかった。すると突然、まったく不意に、信じられないような閃きがありました。コリヴァギン=フラッハ法は完全ではないけれども、これさえあれば、最初考えていた岩澤理論が使えることに気づいたのです。コリヴァギン=フラッハ法があれば、三年前に考えていたアプローチが使える。それはまるで、コリヴァギン=フラッハの灰の中から真の答えが立ち上がったようでした」

 岩澤理論は、それだけでは不十分だった。コリヴァギン=フラッハ法もそれだけでは不十分である。それぞれが相手を補い合ってはじめて完全になるのだ。その閃きの瞬間を、ワイルズは決して忘れないだろう。その瞬間について語るとき、あまりにも鮮烈な記憶にワイルズは涙ぐんだ。

 「言葉にしようのない、美しい瞬間でした。とてもシンプルで、とてもエレガントで…。どうして見落していたのか自分でもわからなくて、信じられない思いで二十分間もじっと見つめていました。それから、日中は数学科のなかを歩き回り、何度も机に戻っては、それがまだそこにあることを確かめました。ええ、ちゃんとありましたよ。私は自分の気持ちを抑えられなくて、とても興奮していました。あれは私の研究人生で最も重要な瞬間です。あれほどのことはもう二度となしえないでしょう」

 それは単に、子供時代の夢が叶ったとか、八年間におよぶ苦労が実を結んだとかいうだけではない。崖っぷちまで追い詰められたワイルズが反撃に転じ、その天才を世界に証明してみせたのである。この十四ヵ月間は、彼が数学者になって以来、もっとも辛く、屈辱的で気の滅入る期間だったろう。しかし今、一つの輝かしい洞察がその苦しみに終止符を打った。

 「その日は家に帰って一晩頭を冷やしました。次の朝、もう一度最初から最後までチェックしたのですが、十一時ごろには確信をもてたので、下に降りて行って妻にこう言いました。『やったよ!見つけたんだ』。あまりに唐突だったので、妻は私が子供のおもちゃか何かの話をしているのだろうと思ったらしく、『え、何を?』と聞き返しました。私は言いました。『証明を直したんだよ。ついにやったんだ』」



数学の大統一

 今回の証明には何の疑問もなかった。合わせて130ページにおよぶ論文は、数学史上かつてないほど徹底的な吟味を受け、ついに1995年5月、『アナルズ・オブ・マセマティクス』に掲載された。

 ワイルズはまたも『ニューヨーク・タイムズ』の第一面に載ったが、「数学の古典的謎、ついに解けたか」というその記事は、「宇宙の年齢に新たな謎」という、もう一つの科学記事の陰にかすんだ感があった。だが、ジャーナリストがフェルマーの最終定理への熱意を失いかけていたのに対し、数学者はこの証明がもつ本質的な意義をしっかりと見据えていた。

 「数学上、この証明には、核分裂の発見やDNA構造の発見に匹敵する意義があります」と、ジョン・コーツは言う。「フェルマーの証明は大いなる知性の勝利であって、その一撃のもとに、数論に革命が起こったという事実を見逃してはなりません。私にとってアンドリューの仕事が美しくて魅力的なのは、それが代数的数論における巨大な一歩だからなのです」

 八年に及んだ試練のなかで、ワイルスは20世紀の数論におけるほとんどすべての進歩を寄せ集め、絶大な力をもつ一つの証明に組み込んだ。ワイルズが生み出した数学のテクニックはまったく新しいものだったが、彼はそれらを従来のテクニックと結びつけた。それも、それまで不可能と思われていた方法によって。そしてその過程で、ほかの多くの問題を攻撃するための新たな道を切り開いたのだった。

 科学ジャーナリストがワイルズの証明を絶賛する一方で、それと不可分の関係にある谷山=志村予想が証明されたことに触れる記事はほとんどなかった。1950年代にワイルズの研究の種を蒔いた二人の日本人数学者、谷山豊と志村五郎の貢献を語ろうとする者はいなかった。谷山は37年前に亡くなっていたが、志村は今も健在で、その予想が証明される時代に居合わせたことになる。



大切なもの

 フェルマーの最終定理に対するワイルズの証明は、1950年代に生まれた一つの予想の証明を軸としている。その論証には、過去十年間に開発された数学のテクニックが駆使され、なかにはワイルズ自身の考案になるものもあった。ワイルズの証明は、現代数学の金字塔なのである。そこから必然的に導かれる結論は、ワイルズの証明はフェルマーのそれとは違うということだ。フェルマーは、自分の証明はディオファントスの『算術』の余白には書ききれないと述べた。ワイルズの百ページにも及ぶ充実した論文は、たしかにその条件を満たしてはいるだろう。だが、まさかこのフランス人が、他に何世紀も先駆けて、モジュラー形式や谷山=志村予想、ガロアの群論やコリヴァギン=フラッハ法を考えついていたということはあるまい。

 フェルマーの証明がワイルズのそれでなかったとしたら、いったいどんな証明だったのだろうか?

 この問いをめぐって、数学者は二つの陣営に分かれる。冷静な懐疑論者たちは、フェルマーの最終定理は、17世紀の天才の、稀なる不明の瞬間に生まれたと考える。フェルマーは「私はこの命題の真に驚くべき証明を発見した」と書いたが、彼の見つけた証明は間違っていたということだ。

 一方、ロマンを求める楽観主義者たちは、フェルマーは正しい証明をもっていたのかもしれないと考える。その証明がどんなものだったにせよ、それは17世紀のテクニックを使い、なおかつオイラーからワイルズまでの数学者の目を逃れるだけの巧妙な議論を用いていたというのだ。ワイルズによる証明が公表されたいまもなお、フェルマーによるオリジナルの証明を発見し、栄誉と名声を得ようと考える数学者は大勢いるのである。

 17世紀に生まれた謎を解くために、20世紀の手法に頼らざるをえなかったワイルズではあったが、たしかにフェルマーの問題を解いた。次にワイルズの関心を引くものは何だろうか? 完全な秘密のうちに研究を進めてきた人物らしく、ワイルズは新しい研究のことを語ろうとしない。しかしどんな問題であれ、フェルマーの最終定理のように彼を夢中にさせることはないだろう。

 「フェルマーの最終定理ほどの問題には、もう出会えないでしょう。これは子供のころに抱いた情熱なのです。代わりになるものなどありません。けれども私は、その問題を解いてしまった。これからは、ほかの問題に取り組むことになるでしょう。なかには非常に難しい問題もあるでしょうから、それなりの達成感は味わえると思います。しかし、フェルマーのように、私をしっかりと捕まえて放さない問題には、もう二度と出会うことはないと思うのです」

 「大人になってからも子供のときからの夢を追い続けることができたのは、非常に恵まれていたと思います。これがめったにない幸運だということはわかっています。しかし人は誰しも、自分にとって大きな何かに本気で取り組むことができれば、想像を絶する収穫を手にすることができるのではないでしょうか。この問題を解いてしまったことで喪失感はありますが、それと同時に大きな解放感を昧わってもいるのです。長きにわたった波乱の旅もこれで終わりました。いまは穏やかな気持ちです」

 

 

 

 

 

『フェルマーの最終定理』ダイジェスト版

 

 

 

ブログあとがき

 

 2017年、京都大学教授の望月新一氏が、数学の超難問「ABC予想」を証明したというニュースは、数学に関心がある方ならご存じのはずです。氏が成したこの証明は、「数百年に一度」「物理学でいえばアインシュタイン並み」の偉業と評されるそうです。

 

 そしてなんとこの証明を使えば、フェルマーの最終定理も一瞬で解決してしまうらしい。ワイルズが八年もの苦闘の末に証明したのに、なんとも無情な話です。しかし数学の世界の場合、時代とともに証明は洗練され、別の方法により証明が成されることはあたりまえのことのようです。いずれにせよ、ワイルズが成した証明に幾人もの日本人が関わり、そしてまた、ということになります。まだまだこの国も捨てたものではないと、数学はまったくわからないにもかかわらず、チョット誇らしく思ったりします。

 さて、ワイルズの証明にとって不可欠であった、その谷山=志村予想について最後に触れさせてください。この志村五郎氏は2019年に亡くなったのですが、2008年に自伝『記憶の切繪図』を著わしています。生い立ちに始まる、自身の半生をふりかえっているわけですが、その中で、谷山豊氏についての懐古があり、これがとても沁み入る文章です。以下に引用紹介させていただきます。

 なおこの一文のタイトルは、『なぜあの文章を書いたか』となっています。「あの文章」とは、志村氏がすでに英文で発表していた、「YUTAKA TANIYAMA AND HIS TIMEVery Personal Recollections」です。またこの英文の和訳をおこなった方がおられていて、「谷山豊と彼の時代、非常に個人的な回想」のタイトルでアップされています。それぞれにリンクを貼っておきましたので、参考になさってください。

 

 

 

 

志村五郎『記憶の切繪図』

 なぜあの文章を書いたか

 

 

 1989年のロンドン数学会の会報に私は「谷山豊と彼の時代、非常に個人的な回想」と題する英語の一文を発表した。私は彼と共著の一冊もあり、一時はほとんど毎日のように会っていた。しかしその期間は長くない。満三年以下であろう。はじめて知り合った時から数えても五年にはならない。私かフランスに行ってからの文通の期間をいれればも少し長くはなるが。彼は1958年の11月に自ら生命を絶ち、その二週間ぐらいあとに彼の婚約者もそうしたのである。その時私はプリンストンにいて、事情は東京に帰ったあとで聞いた。委細は上記の私の文章に書いてある。

 私はこの英文の一篇をなぜ書いたか。彼はすぐれた数学者であったが、彼がいかにすぐれていたかを書くのが目的であったのではない。ひとりの人間の記録とその時代を私の回想として書いた物である。

(中略)

 私は彼の婚約者を知っていたし、その事はその英文にも書いてある。また私の家内も彼をよく知っていて、私と三人で食事をしたこともある。その時私達はまだ結婚していなかった。また、その英文の中に書いてある「彼は映画の『王様と私』が好きであった」というのは彼が家内にそう話したのを使った。

 さて1986年の12月はじめのある晩、私は家内といつものようにふたりで食卓に向い合って食事をしていた。子供達はその時にはもううちにいなかったからふたりだけなのである。谷山の話をしていて、それは何かわけがあっだのだが今では思い出せない。食事も終り話がとぎれたが私はまだ彼の事を考えていた。ところが突然涙が出て来ておさえられず頬に流れた。すると家内がそれに気がつき「どうしたの」とたずねたが私は答えられなかった。家内は席を立って私の側に来て私の背に手を掛けたがやがて自分の椅子に戻って坐り、私と同じように涙を流しはじめた。私達はふたり向い合い黙って泣いていたのである。

 なぜ泣いたか。私達は谷山がかわいそうでたまらなかったのである。「かわいそう」と言うほかによい表現がないのでそう言う。私はその翌日から何かに駆り立てられるような気持であの文章を書きはじめ十日ぐらいで第一稿を書き上げた。こうしてあの一文が出来上ったので、だから「彼がかわいそうだったから書いたのだ」と言える。これは理解できない人の方が多いかも知れない。またあの英文を読んでいない人にはこの説明は不用かも知れない。それならそれで仕方がないが、私にはこれ以上書けない。私達に関する事実のみを書いた。