はい! 奈央です。

 

今回は、ここ八女古墳群に君臨した筑紫君ヤマト王権との間の戦いである 磐井の乱 についてお話しします。

 

いまだに私は、暗い歴史の迷路の中にいます。ショボーン

 

さてさて、弥生時代伊都国の三雲・井原奴国の有田・吉武高木・須玖岡本吉野ケ里平塚川添、隈・小田と続いた大集落の人々どこに行ったのでしょう? という疑問に、古墳時代の豪族 筑紫の君 が何らかの答を与えてくれるんじゃないかと思いました。

 

筑紫の君近畿のヤマト王権とはどのような関係にあったのかというのが最大の糸口なんだと思いました。

そのことを知る手がかりが中国の王朝の歴史書に中に現れる日本の記述を調べることです。

 

 

 513年頃に完成した中国六朝(南朝六代:、晋、、斉、梁、陳)第三王朝である宋帝国の正史『宋書には、宋代(420-479)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上したことが記されています。

 に続く斉の正史『南斉書』(537年)梁の正史『梁書』(619年)南朝四代:、斉、梁、陳の正史『南史』(659年)においても、宋代倭王の遣使について触れられています。

 

魏晋南北朝の流れ

世界史講義録HPよりおかりしました。

南北朝時代(5世紀)の中国

世界史の窓HPよりお借りしました。

 

 一方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀は、への遣使の事実を記していません

 ただし、倭の五王に比定される歴代大王(天皇)の時代との間で遣使の往来があったとしています。ところが、の歴史書である呉書には倭国に関する記述が無いのです。

 

 以上の記述等から、倭の五王が君臨した九州王朝説が唱えられてきました。

その九州王朝説 というのは、

 邪馬壹国倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立していたが、白村江の戦い」(663年)での敗北により、滅亡に向かったとするものです。

 有名な提唱者としては、古田武彦がおられます。

 

つまり、4~7世紀、少なくとも、5~6世紀の間、九州に九州王朝、近畿にヤマト王権が並立していたと考えられるわけです。

実際、「旧唐書」と「三国史記 新羅本紀」には、倭国日本国を区別して記述しているそうです。

 

即ち、筑紫君磐井は、九州王朝の当時のであったのでしょう。

 

岩戸山歴史文化交流館”いわいの郷”の前に立つ筑紫君磐井

 

磐井の乱とは・・・ 日本書紀の記述によると

磐井の乱MAP 

HIGOBLOG HPよりお借りしました。

 

 527年(継体21年)6月3日ヤマト王権近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅(しらぎ)に奪われた南加羅・喙己呑 (とくことん)を回復するため、任那(みまな)へ向かって出発した。

 この計画を知った新羅筑紫の有力者であった磐井へ贈賄してヤマト王権軍の進行を妨害することを要請した。

 そこで磐井は挙兵し、火の国(肥前肥後、現在の熊本)豊の国(豊前豊後、現在の福岡東部と大分)を制圧するとともに、ヤマト朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍を阻んで交戦した。

 継体天皇物部麁鹿火(もののべのあらかい)ヤマト王権軍将軍に任命し、鎮圧に向かわせた。

 翌528年11月磐井軍麁鹿火率いるヤマト王権軍筑紫の三井郡(久留米市付近)にて交戦し、磐井軍は敗北した。

 磐井麁鹿火軍に惨殺された。

 同年12月、磐井の子・筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は敗戦の連座責任を逃れるため、糟屋の屯倉(現在の博多湾周辺)ヤマト王権へ献上して死罪を免ぜられた。

 

*実際の日本書紀の記述とその現代語訳は最後に付けていますので、ご興味のある方はお読みください。

 

この磐井の乱の原因については、様々な説が提唱されています。

たとえば、

 ・ヤマト王権による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したとする説

 ・ヤマト王権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて独立を図ったとする説

 ・磐井の乱継体天皇の動揺の表れとする説

 ・継体天皇による地方支配の強化とする説

 

邪馬台国HPよりお借りしました。

 

 しかし、磐井の死後も、筑紫の君北部九州の盟主として君臨し続けています。

 そのことは、八女古墳群の大王墓が、6世紀末まで続くことから推測できますね。

 

 ところが、百済(くだら)の復興を成し遂げるために、唐・新羅連合軍と戦った戦争白村江の戦い」(663年)での敗北によって、九州王朝の首都と目される 大宰府 が、唐の占領軍によって日本支配の拠点とされ(中村修也、「教育学部紀要」文教大学教育学部、第 47集(2013))、これにより、九州王朝は完全に滅亡するのです

 つまり、弥生時代から続いた九州の王たちの歴史は、遂に7世紀末を持って終焉したと考えられます。

 

 磐井の乱は、国内的にはヤマト王権による北部九州支配決定的要因として日本書紀に記述されていますが、実際は、白村江の戦い」(663年)での敗北最終的なダメージになったのではないでしょうか。

 それは、斉明天皇朝倉橘広庭宮での動きからも、想像に難くないことです。

はい、これで 岩戸山歴史文化交流館 ”いわいの郷” を訪れた時のレポートは終わりです。

最後にもう1回、八女の地名の由来となった八女津媛神社古い祭礼について、次回、お話ししますね。

 

それじゃあ、またね。

 

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『日本書紀』継体天皇二十一年六月〜二十二年十一月条
廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率衆六万、欲往任那、為復興建新羅所破南加羅・碌己呑、而合任那。於是、筑紫国造磐井、陰謨叛逆、猶預経年。恐事難成、恒伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所、而勧防遏毛野軍。於是、磐井掩拠火豊二国、勿使修職。外邀海路、誘致高麗・百済・新羅・任那等国年貢職船、内遮下遣任那毛野軍、乱語揚言曰、今為使者、昔為吾伴、摩肩触肘、共器同食。安得率爾為使、俾余自伏儞前、遂戦而不受。驕而自矜。是以、毛野臣、乃見防遏、中途淹滞。天皇詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰、筑紫磐井反掩、有西戎之地。今誰可将者。大伴大連等僉曰、正直仁勇通於兵事、今無出於麁鹿火右。天皇曰、可。
秋八月辛卯朔、詔曰、咨、大連、惟茲磐井弗率。汝徂征。物部麁鹿火大連再拝言、嗟、夫磐井西戎之猾。負川阻而不庭。憑山峻而称乱。敗徳反道。侮嫚自賢。在昔道臣、爰及室屋、助帝而罰。拯民塗炭、彼此一時。唯天所贊、臣恒所重。能不恭伐。詔曰、良将之軍也、施恩推恵、恕己治人。攻如河決。戦如風発。重詔曰、大将民之司命。社稷存亡、於是乎在。勗哉。恭行天罰。天皇親操斧鉞、授大連曰、長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。専行賞罰。勿煩頻奏。
廿二年冬十一月甲寅朔甲子、大将軍物部大連麁鹿火、親与賊帥磐井、交戦於筑紫御井郡。旗鼓相望、埃塵相接。決機両陣之間、不避万死之地。遂斬磐井、果定疆場。

は、元の字が再現できなかったので、関連字で代用。

 

現代語訳 

 朝鮮半島の南部にある任那(みまな)の一部が新羅に奪われた。このため継体21年(527年)、継体天皇は近江毛野の臣に新羅攻撃を命じた。それを受けて毛野臣は 6万の兵を率いて奪還に向かった。この頃、筑紫国造磐井は朝廷に反逆しようと機会を狙っていた。それを知った新羅は磐井に賄賂を送り、毛野臣軍を防ぐように勧めた。 磐井は火国(佐賀・熊本)、豊国(福岡東部・大分)に勢力を伸ばし、朝廷の命令に従わなかった。対外的には、海路を断って高麗、百済、新羅、任那からの毎年の朝貢船を自国に誘導し、対内的には毛野臣の軍勢を遮って無礼な言葉で、「今でこそお前は朝廷の使者となっているが、昔は同じ伴部として肩を寄せ、肘をすり合わせて同じ釜の飯を食った仲ではないか。どうしてにわかに使者となったお前に従えるか」 と言って戦い、命令を受け入れなかった。磐井は驕り高ぶっていた。毛野臣は前進できずに 滞留した。継体天皇は大伴大連金村と物部大連麁鹿火(あらかひ)、そして許勢大臣男人(こせおおおみおひと)らに言われた。 「筑紫の磐井が背いて、西の田舎の国を所有している。誰か将軍となって成敗する者は?」 大伴大連らが皆そろって、「まっすぐで勇敢で軍事に心得があるのは、麁鹿火の右に出る者はいません」 と申し上げると、天皇は「よかろう」と言われた。 秋8月1日に帝は「大連よ、例の磐井が従わない。そなたが行って討て」と命じられた。 物部麁鹿火大連は拝して申し上げた。 「そもそも磐井は西の田舎のずるくて悪賢いやつです。川が道を阻んでいるのを当てにし て仕えず、山が高いのを利用して乱を起こしています。徳分がなく、道に背いています。あなどっておごり高ぶり、自分は賢いと思っています。昔から、大伴家の祖道臣(おやのみちのおみ)から室屋(むろ や)まで、帝を守って戦って来られました。民を苦しみから救う事は、大伴家も私も同じです。 天が助ける事を行うのは、私めが重要視する所です。謹んでお受けします」と申し上げた。 天皇は 「優れた将軍が戦をするのは、民に恩恵を施して、思いやって治める事と同じだ。攻めては川が決壊するように破壊力があり、戦えば風のように敵をなぎ倒すものだ」と言われ、続けて「大将軍は民の命だ。国や家が滅びないのは、そのお蔭だ。務めよ。謹んで天罰を行え」 と言われた。 帝はみずから大将の印のマサカリを大連に授け、 「長門(山口県)から東は私が取ろう。筑紫より西の方はそなたが治めよ。賞罰を行って政をせよ。いちいち奏上せずともよい」と言われた。 継体22年(528年)の冬、11月11日、大将軍、物部大連麁鹿火は自ら、賊軍の長の磐井と筑紫の御井郡(みいの こおり)で交戦した。軍旗や軍鼓が向き合い、砂ぼこりが入り乱れた。この戦いがすべてを決する事が分かっているので、両陣営は決死の戦いをした。物部麁鹿火はついに磐井を斬って、境を定めた。 12月、筑紫君葛子(くずこ)は父の罪に連座して殺される事を恐れて糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上し、死罪を逃れるように願い出た。