明日はバレンタインディです。この日、いつも思い起こすことがあります。 | バイカルアザラシのnicoチャンネル

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 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

 明日はバレンタインディです。この日、いつも思い起こすことがあります。サイコロジーを学んだ人は統計を大切にします。データこそ、すべてという人もいます。毎年警察庁が日本の自殺者の統計を都道府県別月ごとに公表します。平成5年にお亡くなりになった方は21818名。私たちは生きにくい社会に生きているのでしょうか?それはどの時代社会にも多かれ少なかれあったことなのかも知れません。伝説の司祭バレンチヌスも生きにくい社会に住んでいました。彼を殉教に追い込んだのもローマ帝国という権力がなしたことなのでしよう。今夜は、第二次世界大戦末期に自死したドイツの詩人ヨッヘン・クレッパーの日記から考えてみたいと思います。

 ドイツの詩人ヨッヘン・クレッパーは敬虔なキリスト者で賛美歌を作詞しています。詩人は人間の弱さと強さを知っていました。歌詞の中で「御子の慈しみのほかは何ものも助けをもたらさず、御子こそがあなたを救うために来られると信じるなら、いかに大きな罪であれ、あなたは忘れてかまわない。」と歌いました。自分は弱いままだけれども、それを思い煩う必要はないというのです。

 彼の妻と息子はユダヤ人でした。第二次世界大戦中です。ドイツのユダヤ人狩りが始まります。彼は強制的に離婚させられ、二人が強制収容所に連れて行かれることになりました。それを聞いた三人は一家で心中したのです。キリスト者が神から与えられた命を自ら絶つことは大罪です。当時、自死した者の亡骸は十字路に埋めて人々の足で踏みつけられる存在でした。もちろん教会は葬儀を拒みます。キリスト教では人間は罪人だと考えますが、自死だけは決して許されない罪と考えられていました。

 ひよっとして彼はわざと罪を犯したのかも知れません。肉体は殺すことができても魂まで殺すことはできない。どんな権力者であろうが内心の自由まで侵すことができないように。彼の最後の日記にはこう残されていました。ここでは自死を自殺と訳します。

「すべてことは人間に許されている、すべての善いことも悪いことも。・・・・私は、どうして自殺を例外だとすることができたのか。・・・・どんな権利をもって、この罪について、それは許されるはずがないなどと言ったのか。・・・・自殺は他の全ての罪のように神の赦しの中におかれていると信じる」。

 詩人は自死は罪ではないと正当化したのではありません。聖書の教えでは、はっきりと罪です。しかし、それは他の罪と同じようにイエスが十字架の身代わりとなった罪の一つなのでしょう。「
わたしはキリストの微笑みの中で死ぬ。」詩人は絶望のまっただ中でキリストを見いだしたのです。だれもが彼の行いを責めることはできませんでした。むしろ、ナチスドイツという政権の暴走を押しとどめることができなかったこと。多くの人がそれに協力したこと。攻められるべきは自分たちだったのです。彼の日記には新約聖書の言葉が記されていました。「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」ヨハネ第一の手紙

 


 中央で天使と話しているのが使徒ヨハネです。彼は使徒の内では殉教を免れ。エフェソスで天寿を全うしました。3つの手紙をエフェソスの信徒達に送っています。

 伝説の殉教者バレンチヌスの殉教の前日、司祭は後世に何を願って命を捧げていったのでしょう。ドイツの詩人が自死しなければならない社会から今日までまだ百年も経っていません。人間は400万年前に誕生し進化し続けてきたはずです。なのに一世紀も経っていない社会にこんな悲劇が存在し、今日に至るまで生きづらい生きにくい社会は形を変えて残っています。自死を罪かどうか論じるよりも、何が彼らを死に追いやったのか。その原因を追及する方がいいと思います。どうすれば自死がなくなるのか、みんなの心が潤い喜んで一日を送れる社会を実現するにはどうすればよいか。バレンチヌスは伝説の司祭ですが、にもかかわらずなぜ今日まで語り継がれているのか、考えてみたいとと思います。

 ノーベル文学賞を受賞した
大江健三郎さんは祈っていました。彼は神仏を信じたわけではありません。彼の祈りは願いと言うよりも集中することでした。コンセントレイト、無心に何も考えずに心を静めるやり方です。一日の始まりに、一日の終わりでもいいと思います。あるいはお昼休みに。一分でも何も考えないで無心になる時を持つ。心静かに自分の心の声に耳を澄ませてみる。そんな時があってもいいのではないでしようか。そこから新しい何かが生まれるような気がします。昨日も今日も明日も様々なことは起こります。でもその狭間にあって一時心を静め、福音記者使徒ヨハネがエフェソスの信徒達に送った手紙の言葉を観想してみてはいかがでしょうか。

 

 今、東ヨーロッパでは大量殺戮が行われています。こんなことが許されていいはずはありません。しかもイスラエルがガザで行っていることは何なのでしょう。第二次大戦でユダヤ人はどんな扱いを受けたのか、そんなことは顧みず、彼らの大義名分がどれだけあっても現実にガザで行っていることを私たちは見ています。生きづらい時代をだれもが健やかで笑って生活できる世界に、どうすればそれが実現できるのか。静まって観想することから何かが始まるはずです。

 

 ヨッヘン・クレッパーのような人をもう出してはいけません。まして、国家が、社会が、企業が、学校がいち早く絶望の淵にいる方を見つけ出して、みんなが資源(resource)、みんなで支援、みんなでつながっていきたいものです。

 

 バレンチヌスの殉教伝説が生まれたのも、この世は生きにくい世界だからなのかも知れません。私たち哺乳類が恐竜を絶滅させた寒冷期から生き延びたのは、暖かさ、体温を分かち合って命を繋いできたのです。哺乳類の先祖はネズミのようなもので、大きくもなければ強くもありません、そして、最も特徴があるのは特徴がないという特徴だったのです。特徴がないということはどんな変化にも対応する可塑性がありました。このポテンシャルこそ、哺乳類の強みだったのです。哺乳類は群れをつくり、社会を作ります。そして、国家へと。その群れ、社会、国家が個人を生きにくい存在にするなら何のために国家、社会なのでしょう。

 

 バレンチヌスが処刑された明日、なぜ彼が殉教しなければならなかったのか? もう一度思い起こして、今を考えてみたいと思います。私たちの祖先小さなネズミのような哺乳類が、寒い世界でお互いに体を温め合って生き抜いたことに深く学びたいと思います。