猫の後ろ姿 1681 龍岡晋『切山椒』
久保田万太郎との普段の会話を、その弟子ともいうべき龍岡晋が回想する文章。丁々発止とはこういうことなのだろう。さまざまな芝居や落語や絵が二人の間に共有されていて、それが言葉の奥行となって活きている。
主に龍岡晋が話の口火を切って、最後にひとこと久保田万太郎が添える。それが見事に決まる。さすが久保田万太郎、言葉の達人です。
たとえばこんな。
久保田 坂本の里のそば屋の師走かな、どうです。
龍岡 結構です。師走を冬木立としますと。
久保田 それじゃ蕪村になるよ。
俳諧の背後にたっぷりと絵の世界が控えている。こういう文化の豊かさっていうのに憧れます。
龍岡 ことばのあやもなく飾らず偽らず、訥々として真情を吐露する底のものの方がいいと思います。
久保田 それじゃ文学にならないでしょ、俳句にならないじゃないか。
まことにそのとおり。真情を吐露するだけでは文学にはなりません。文学は「わざ」を必要とします。
龍岡 お酉さまの一の酉、あれを一番酉といったやつがあります。
久保田 ばかです。
これには笑いました。憮然とした久保田万太郎の表情が浮かんできます。
こんなふうに引用し始めたら、切がない。二人のやりとりに、本を持つ手が笑いで震えます。そして久保田万太郎のつぶやくような一言に、本を置いて、思いにふける。
久保田万太郎が子猫を見てこう言います。
久保田 ナンにもわからないんだね、……西も東もわからないか、
西も東もわからぬ猫の子なりけり
どうです
久保田 とにかく、ほんとのことはいわないこってす。
久保田 幻としといた方がいいでしょう。
久保田 夢にしときなさい、いつかやれるでしょうから。
この本の後半は、龍岡晋による「久保田万太郎作品用語解」。久保田万太郎の使う言葉の中にもう僕等には意味が分からなくなっているものがある。その古くから東京原住民に使われていた言葉を解いたこの「用語解」、非常に貴重なものだと思います。戸板康二さんはこういっています。「こういう仕事も、誰にでも、できるものではない。」こういう仕事を僕等に手渡してくれた龍岡晋の舞台の上の実直な姿をぼくは懐かしく思いだす。