島崎藤村「胸より胸に」明治33年(1900年)前篇 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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島崎藤村・明治5年(1872年)3月25日生~
昭和18年(1943年)8月22日没(享年72歳)

 胸より胸に

 其の一
 めぐり逢ふ君やいくたび

めぐり逢ふ君やいくたび
あぢきなき夜を日にかへす
吾命(わがいのち)(やみ)の谷間も
君あれば戀のあけぼの

樹の枝に琴は懸けねど
朝風の來て彈くごとく
面影に君はうつりて
吾胸(わがむね)を靜かに渡る

雲迷ふ身のわづらひも
(くれなゐ)の色に微笑み
流れつゝ冷(ひ)ゆる涙も
いと熱き思(おもひ)を宿す

知らざりし道の開けて
大空は今光なり
もろともにしばしたゝずみ
新しき眺めに入らむ

 其の二
 あゝさなり君のごとくに

あゝさなり君のごとくに
何かまた優しかるべき
歸り來てこがれ侘(わ)ぶなり
ねがはくは開けこの戸を

ひとたびは君を見棄てゝ
世に迷ふ羊なりきよ
あぢきなき石を枕に
思ひ知る君が牧場(まきば)

樂しきはうらぶれ暮し
泉なき砂に伏す時
青草の追懷(おもひで)ばかり
悲しき日樂しきはなし

悲しきはふたゝび歸り
緑なす野邊を見る時
飄泊(さまよひ)の追懷(おもひで)ばかり
樂しき日悲しきはなし

その笛を今は頼まむ
その胸にわれは息(いこ)はむ
君ならで誰か飼ふべき
天地(あめつち)に迷ふ羊を

 其の三
 思より思をたどり

(おもひ)より思をたどり
樹下(こした)より樹下をつたひ
獨りして遲く歩めば
月今夜(こよひ)(かす)かに照らす

おぼつかな春のかすみに
うち煙(けぶ)る夜の靜けさ
仄白(ほのしろ)き空の鏡は
(おもかげ)の心地こそすれ

物皆はさやかならねど
鬼の住む暗にもあらず
おのづから光は落ちて
吾顏(わがかほ)に觸(ふ)るぞうれしき

(その)光こゝに映りて
日は見えず八重やへの雲路に
其影はこゝに宿りて
君見えず遠の山川

思ひやるおぼろ\/の
天の戸は雲かあらぬか
草も木も眠れるなかに
仰ぎ視(み)て涕(なみだ)を流す

(「新小説」明治33年=1900年5月)


 島崎藤村(1872-1943)の詩作は明治26年(1893年)1月発表の「別離」(詩集未収録)に始まり、前年明治29年秋から一気に書き下ろされた明治30年(1897年)8月刊の第一詩集『若菜集』で作風を確立し、以降の詩集は明治31年(1898年)6月刊の第二詩集『一葉集』(詩文集)、明治31年12月刊の第三詩集『夏草』、明治34年(1901年)8月刊の第四詩集『落梅集』がありますが、この「胸より胸に」は「新小説」明治33年(1900年)5月に「其の一」から「其の七」までの全七篇からなる連作「胸より胸に」のとして発表され、詩集『落梅集』収録に当たって「其の一 罪なれば物のあはれを」が「罪」と改題され連作から切り離されて(同作は昨日にご紹介・解説いたしました)、「其の二」から「其の七」は連作「胸より胸に」の「其の一」から「其の六」に繰り上げられたものです。藤村の詩作は明治33年7月発表の「面」(詩集未収録)で終わり、以降は明治35年(1902年)に太田水穂・島木赤彦共著の歌集「山上湖上」の序詞として「爐邊雑興」、昭和2年(1927年)1月に書き下ろしで教育歌留多のための詩集『藤村いろは歌留多』の発表があるだけです。「胸より胸に」から詩人時代の最後の作品「面」までに発表された詩は「今世少年」明治33年6月5日号発表の「唐がらしの歌」、同月「今世少年」20日号発表の「籠の駒鳥」、同月「新小説」発表の「海草」(「其一」から「其五」まで、「其二」は有名な「椰子の實」)、同月作で詩集『落梅集』初出の「海邊の曲」だけですから、「胸より胸に」は連作「海草」と並んで藤村の詩人時代のほとんど最終作品と目せます。またのちに「小諸なる古城のほとり」(または「千曲川旅情の歌」)と改題された「旅情」、「千曲川旅情の歌」(または「千曲川旅情の歌二」)と改題された「一小吟」はそれぞれ「胸より胸に」の前月の明治33年4月に「明星」創刊号、「文界」創刊号に発表されていますから、藤村の詩でも名高い「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情の詩」「椰子の實」は、「胸より胸に」連作をはさんでわずか3か月に連続して発表されたことになります。篇数だけを見ると収録詩篇51篇の『若菜集』、収録詩篇5篇(散文9篇)の『一葉集』、収録詩篇14篇の『夏草』、収録詩篇24篇の『落梅集』となり、『若菜集』が突出していますが、詩文集の『一葉集』を除いて『夏草』『落梅集』では最長800行に上る長編詩も収録されており、また明治33年には1月に「常盤樹」(「新小説」)、3月に序詩を含め七篇の連作「壮年」(「新小説」)、そして4月から6月には3か月で7篇(うち2篇は七篇、五篇の連作ですから個別に数えると18篇)もの集中的詩作がなされていますから、翌年刊行の『落梅集』完成を目指して29歳の藤村が尽くした創作力は驚異的としか言いようがありません。しかもこの詩人時代の最後期に藤村全詩集の最高の達成と呼べる詩篇を集中して生み出しています。ことに「胸より胸に」連作は、『若菜集』以来の恋愛詩の系譜から藤村が実現した最後期の力作と目せるものです。

 藤村の文学的出発は女学校教師生活時代から親交を深めていた北村透谷(1868-1894)、星野天地、平田禿木、馬場孤蝶らと明治26年(1893年)に創刊した同人誌「文學界」で、同年1月に同時に「女學雑誌」に発表した「別離」、「文學界」創刊号に発表した六子に寄するの詩」(ともに詩集未収録)が処女作ですから、島崎藤村は21歳から29歳の間、ことに『若菜集』収録詩篇が一気に書かれた24歳の年・明治29年(1896年)秋から明治33年(1900年)6月までの5年間で4冊の詩集の収録詩篇を書いたことになります。藤村が年長の夭逝詩人・北村透谷から継承発展させたのはロマン主義的恋愛詩を日本語詩に定着させる課題でした。『若菜集』『一葉集』『夏草』『落梅集』はいずれも春陽堂から刊行され、明治37年(1904年)9月に『藤村詩集』としてまとめられて、大正~戦前までの昭和のロングセラー詩集となりました。のち「岩波文庫」発刊とともに昭和2年(1927年)7月に日本の現代文学として真っ先に収録された自選詩集『藤村詩抄』では「罪」は「罪なれば物のあはれを」のタイトルに戻されており、「胸より胸に」連作の「其の一」から「其の六」も『藤村詩抄』では解体されて個別の詩篇扱いになりました。先に『落梅集』では切り離された「罪なれば物のあはれを」(「罪」)を単独でご紹介しましたが、雑誌発表時の連作「胸より胸に」七篇はいずれも優れた作品で、永く文学青年に愛唱された佳作揃いで、この「胸より胸に」連作は藤村より一回り若い明治30年代以降の薄田泣菫、蒲原有明らの詩よりもはるかに明解です。泣菫、有明は藤村の技法をさらに進めて、複雑に重層的な内容を凝縮した表現に盛りこみ、稀語や造語を多用した難解な、読みを指示するルビつきでなければ成立しないアイロニー的ロマン派詩・印象主義的象徴詩にたどり着きましたが、藤村の詩は当時はもちろん現代の読者にもほとんどルビを必要としません。明治時代と現代の慣例の違いで表記が異なるだけで、送り仮名を加えれば十分です。またこの連作は五・七音で一行になる律で詠われていますが、藤村自身の『若菜集』から『夏草』までの詩集や与謝野鉄幹、土井晩翠らの詩はほとんどが七・五音律で書かれていました。しかし明治33年の藤村は日本語の文語音律では一行ごとが停止しがちな七五調の律よりも自然に水平的な流れが生じる五七調律の方が自在な効果を生み出すことにたどり着いており、かつ音律の制約を感じさせない文体が実現されています。

 藤村の『若菜集』は女学校教師時代に教え子との恋愛スキャンダルを起こした体験を下地にした恋愛詩が中心をなしていますが、雑誌発表時に連作「胸より胸に」の「其の一」に置かれ、詩集収録時に独立詩篇とされた「罪なれば物のあはれを」は『若菜集』の帰結でもあれば、「文学界」時代の藤村自身をモデルにした自伝的第二長篇『春』(明治41年/1908年)の底流となる主題でもありました。藤村自身の実家の血縁的確執を描いた第三長篇『家』(明治44年/1911年)を経て、産褥によって夫人に先立たれた藤村は、家事手伝いのため藤村家に身を寄せた実兄の長女(姪)と近親姦に陥って妊娠させ、実兄からの脅迫を逃れてヨーロッパへ留学します。帰国後なおも断ち切れなかった姪との関係・実兄からの脅迫を清算するために書かれたのが姪との近親姦の経緯をつぶさに描いた第四長篇『新生』(大正8年/1919年)で、同作の成功によって藤村は大家としての名声をいっそう高めるとともに姪との離縁・実兄からの脅迫を逃れることにも成功します。芥川龍之介がのちの遺作「或る阿呆の一生」で「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた」と批判したのは有名ですが、藤村自身は芥川龍之介追悼文で「あの作の主人公がそんな風に芥川君の眼に映つたかと思つた」「私があの『新生』で書こうとしたことも、その自分の意図も、芥川君には読んでもらえなかつたろう」と芥川の批判をかわしています。「罪なれば物のあはれを」、また「胸より胸に」連作は第一詩集『若菜集』以前の恋愛スキャンダル体験を総括するものでしたが、さらに『新生』時代にはブーメランのように藤村自身に跳ね返ってくるものになりました。第一長篇小説『破戒』(明治39年/1906年)創作時に夫人を栄養失調による病床に追いやり、さらに長女・次女・三女を貧困生活によって亡くした藤村は、親近者・関係者を犠牲にしながらも(藤村の子を産んだ姪のこま子は母子とも台湾へ追いやられ、戦後に帰国し、昭和53年/1978年6月に東京の病院で85歳で亡くなっています)、それをも創作の糧にして、明治・大正・昭和文学最大の巨匠文学者になったのです。

 30代以降の生涯に五作の長篇小説『破戒』(明治39年/1906年)、『春』(明治41年/1908年)、『家』(明治44年/1911年)、『新生』(大正8年/1919年)、『夜明け前』(昭和4年/1929年~昭和10年/1935年)とその衛星的中短篇群(『破戒』には短篇集『旧主人』や『千曲川のスケツチ』、『春』には『桜の実の熟する時』、『新生』渦中には『海へ』と続篇に「ある女の一生」「嵐」、 『夜明け前』には未完長篇『東方の門』などが上げられます)、エッセイ・批評群に創作力を集中した藤村ほど並外れた存在は明治以降の小説家にも稀でしょう。『破戒』『春』『家』『新生』はいずれも当時(また現在)の出版基準なら上下巻、または三分冊分ほどのヴォリュームを誇り、『夜明け前』にいたっては長めの長篇小説四冊分の規模を誇ります。さらに小説家転身以前には『藤村詩集』としてまとめられた四詩集があり、藤村は72年の生涯をまるで『藤村全集』から逆算するように計画的にまっとうしたかのような観すら抱かせます。二葉亭、鷗外、漱石、藤村の盟友の自然主義作家たち、荷風、谷崎、芥川、川端・横光、堀辰雄、太宰、三島、さらに大江健三郎、村上春樹までを見渡しても、一冊の全詩集と五作の長篇小説だけに創作力を集中して一国を代表する文学者になった存在など、藤村以外には見当たりません。後半生五作の長篇小説がライフワークになったフョードル・ドストエフスキー(1821-1881)やトーマス・ハーディ(1740-1928)ですら習作時代は長く、やはり40年間に五作ほどの長篇小説でアメリカ自然主義文学~20世紀アメリカ文学を代表する作家になったセオドア・ドライサー(1871-1945)との対応を見せています。これは好悪に関わらず、率直に驚くべきことです。文学後進国だったロシアのドストエフスキーまたはレフ・トルストイ(1828-1910)、階級闘争と性の問題を初めてイギリス文学に持ちこんだ異端者ハーディ(ハーディの系譜はロレンス、ファウルズらイギリス文学の異端者に引き継がれます)、 とりわけ同世代人で文学後進国アメリカの自然主義作家ドライサー(英語に堪能で最新のアメリカ文学思潮に注意を怠らなかった谷崎潤一郎が、日本文学と西洋文学のギャップとしてもっとも同時代的に注目していたのが、昭和9年/1934年の『文章読本』で志賀直哉との対比で採り上げられている通りドライサーだったのは、もっと留意されていいことです)と藤村の対比は、悠に比較文学的研究の対象として上げられてしかるべきものです。

 藤村の詩がいかに長い影響力を保ったかの一例として、旧制中学教師だった昭和10年代詩人の伊東静雄(1906-1953)の全集の書簡編に、詩人志望の青年から送られた詩稿への返信に励ましの言葉に添えて「拝見したあなたの詩の文体は島崎藤村時代のものですから、これからは現代の詩の文体を学んでください」(大意)と助言した書簡が収められていることからも、『藤村詩集』から40年あまり(藤村が詩を書いていた時期から45年あまり)経っても五七調(または七五調)文語文と明治時代の語彙で藤村の模倣詩を書くアマチュア詩人層があったことが推察できます。それでも藤村の詩ならまだしもで、現在のアマチュア詩人層は文学的水準では藤村よりはるかに劣る通俗童謡詩・恋愛歌謡詞・人生訓詩の模倣者が大半でしょう。一般に、鑑賞水準の堕落したジャンルは衰退します。それは現代詩や文学に限ったことではありません。

 詩集未収録詩篇まで全詩篇を年代順に収録した全詩集『藤村詩歌集』で調べると、藤村の詩に五七律が現れたのは(それまでに五五律の試作は稀にありますが)、明治32年(1899年)「新小説」8・9月合併号発表の「新荷集」七篇中の一篇「鼠の歌」であり、飛んで明治32年12月「新小説」発表の「悪夢」だけです。「悪夢」の次作で明治33年1月発表の「常盤樹」から藤村は五七律を本格的に採用することになり、詩人時代最後の明治33年に七五律で書かれているのは「今世少年」発表の童謡調の戯詩「唐がらしの歌」「籠の駒鳥」「面」と、散文詩として書かれてシューベルトの曲に乗せて歌曲化された「海邊の曲」だけで、むしろ例外的な作詩例になっています。詩集『落梅集』では詩の配列は年代順ではないので明治33年作品になって現れた従来の七五律から五七律への転換は気づきづらく、また口語詩の時代になると現代詩では五七律も七五律も排される(または歌謡的に部分採用されるのみになる)ようになるので、現代詩からさかのぼって明治の新体詩を読む今日の読者には藤村の詩は『若菜集』収録作も『落梅集』の明治33年作品の違いも一読して同じように見えるのですが、「めぐり逢ふ君やいくたび/あぢきなき夜を日にかへす」は五七律の改行を意識しなければ文法上、また意味の上でもアンジャンブマン(行またぎ、連またぎ)を含んでおり、「めぐり逢ふ君や、いくたび/あぢきなき夜を、日にかへす」とほとんど口語脈に近づいています。これは七五律による文体では起こらない現象です。またコピーライター的発想としても、総題の「胸より胸に」、「めぐり逢ふ君やいくたび」(「其の一」)、「あゝさなり君やいくたび」(「其の二」)、「思より思をたどり」(「其の三」)、「吾戀は河邊に生いて」(「其の四」)、「吾胸の底のこゝには」(「其の五」)、「君こそは遠音に響く」(「其の六」)はいずれも秀逸で、やはり詩人出身の小説家だった高見順(1907-1965、中原中也と同年生まれ)は長編小説に藤村の詩から『胸より胸に』『わが胸の底のここには』とタイトルを採っています。現代詩の詩人はもはや藤村の文体では書けず、また藤村の詩はすでに時代的に古風なものですが、その分藤村は時代の彼方に勝ち逃げした存在なので、現代の詩人は藤村よりも歴史的耐久力を持つ詩を書く力を失っています。しかし現代の読者が藤村の詩から学べるものは何かとなると、その答えは思うよりずっと容易ではありません。
(以下次回)

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)