高橋新吉「戯言集」定本全詩集版(昭和47年/1972年)・後編 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

高橋新吉(1901-1987)・51歳、
創元選書版全詩集『高橋新吉詩集』刊行の頃
高橋新吉(1901-1987,)・『高橋新吉全集』
(青土社・昭和59年/1984年)刊行の頃、83歳 


 これまでも高橋新吉(1901-1987)の連作長篇詩「戯言集」を、昭和9年(1934年)刊の初版型、最初の全詩集『高橋新吉詩集(創元選書版)』(昭和27年/1952年)の改訂をさらに改訂した創元社『全詩集大成・現代日本詩人全集』の高橋新吉全詩集版(昭和29年/1954年)と改訂型を追ってきましたが、今回は前回に継いで、高橋新吉71歳の昭和47年(1972年)に既刊詩集15冊・拾遺詩集・未刊詩集をまとめた『定本高橋新吉全詩集』収録の再々改訂型「戯言集」をご紹介します。高橋はさらに逝去5年前の全集『高橋新吉全集』(昭和57年/1982年・全4巻、青土社刊)の第1巻の全詩集で既刊詩集20冊・拾遺詩集・未刊詩集の総計2000篇あまりをまとめていますが、『高橋新吉全集』では『詩文・戯言集』は初版型をそのまま復刻収録しています。高橋新吉がどのような詩人で、詩集『戯言集』がどのような背景から書かれたかは旧記事で詳細に触れました。これは27歳から29歳までの三年間を統合失調症治療のために窓もない二畳の座敷牢に隔離監禁療法を受けた高橋の、精神疾患患者自身による監禁療法の記録という点でも世界的に類を見ない条件下で書かれた長篇詩です。この座敷牢でのモノローグだけで始終する長篇連作詩は、監禁療法という具体的なシチュエーションを別とすれば、アイルランド人作家サミュエル・ベケット(1906-1989)の、謎の失踪者モロイのモノローグとモロイの失踪を追跡する探偵父子のドタバタ追跡劇を描いた『モロイ』1947(1951年刊)、何もない部屋に監禁された記憶喪失の男マロウンの手記『マロウンは死ぬ』1948(1951年刊)、まったく状況が明らかでない無名の語り手のモノローグだけの『名づけられぬもの』1950(1953年刊)、さらに泥の中を漂流する無意識がカップル、また「ピム」と呼ばれる存在と遭遇して離れていくだけの『事の次第(そんなこと)』1960(1961年刊)にも、また生涯を深刻な統合失調症に苦しんだフランス作家アントナン・アルトー(1896-1948)の詩論とも散文詩とも演劇論とも朗読劇とも空想的評伝ともつかない『神経の秤』1925、『思考の腐蝕について』1927、『芸術と死』1929、『ヘリオガバルス、または戴冠せるアナーキスト』1934、『演劇とその二重性』1938、『タラフマラ族の国への旅から』1943-45、『ヴァン・ゴッホ~社会が自殺させた者』1947、『神の裁きと決別するために』1947、遺稿『賢者の石』『もう大空はない』なども、高橋新吉の詩とテーマ、手法、文体のいずれにも非常な類似が見られる、と言ってもあながち牽強付会ではないでしょう。アルトーの翻訳者・宇野邦一氏が近年はベケットの新訳を手がけているのも偶然ではないでしょう。日本人読者にとってはドメスティックな面が強く感じられるためかえって盲点になってしまっていますが、詩、小説、批評、禅研究にいたる高橋新吉の文業は日本の現代詩のみならず、意識と書法(古典的書法=エクリチュールの崩壊、果てしなく続く足踏み、持たざる者の疎外されたエクリチュール)の関係の特異性において、ウォレス・スティーヴンスやマルコム・ラウリー、アルトーやバタイユ、ベケット、モーリス・ブランショ、ウィリアム・ギャスらの系譜において改めて現代文学的可能性とその極限が注目され(没後ようやく評価の高まったアンナ・カヴァンもこの系譜に入るでしょう)、読み解かれてもいいと思われます。今回は連作全67篇の後半をご紹介します。

『詩文・戯言集』
昭和9年(1934年)3月15日・読書新聞社刊
『高橋新吉詩集(創元選書版)』
昭和27年(1952年)2月15日・創元社刊
『全詩集大成・現代日本詩人全集』第12巻
昭和29年(1954年)4月15日・創元社刊
『定本高橋新吉全詩集』
昭和47年(1972年)10月15日・立風書房刊


 戯言集
 (立風書房『定本高橋新吉全詩集』版)
 高橋新吉

 三十七

私は盲目も同然である。
四方は板壁にふさがれた牢屋の中に居る。

 三十八

私は死ぬまで此の牢屋の中から出る事が出来ないか。
死ぬまで此んな辛い生活をしなければならないか。
此の不安は二六時中私の頭脳から消え去らない。

 三十九

ミイラ取りが木乃伊になつたやうな工合に、八幡の藪知らずに這入つたやうな工合に、私はどうもがこうが叫ばうが誰も取り合はないやうな目にあつてゐる。
此れで私は感謝して満足して生を終るべきであるか。

 四十

物の成長を見る事、それは我々には楽しみだと言へる。
しかしながら草が繁殖し樹木の実が熟するのも、それは我々の屍体が腐敗するのと同じ工程であつて、時の流れに抗する事が出来ない事を思はす丈ではないか。

 四十一

かくの如しにして、日が流れ、日が去る。
私は精神病者には違ひない。
精神を病んでゐる。

 四十二

あなたが先に死なうが、私が先に死なうが心おきなく死ぬるやうにしておきます。

 四十三

死は私ばかりを狙つて居るのぢやない。
ところで青年諸君、死は今私の腹の中に逃げ込んでかくれてゐるんだ。
石でもつて叩きしやいでくれたまへ。

 四十四

又同じやうな明日を迎える事の馬鹿らしさ。
此の窮屈な二畳敷の牢屋の中で、首をくゝる事も又大儀で馬鹿らしくて不可能なのだ。

 四十五

私が嘗めた苦しい様々の出来事、それを他人に知つて貰つたからと言つて今になつて何にならう。
私の今の苦しみが減るわけのものでもない。

 四十六

此の我々の愛情、考へ、之等のものが凡て空に消え去るものであらうか。
此の悲しみの試練に堪え、此の肉体の苦艱に堪えて私は更生するかしないかの瀬戸際にある。

 四十七

希望を持つて生きたい。
心の希望を失ふほど人間にとつて落莫たるはない。
例へば死んでから後に、極楽に往生する事を信じないで生きてゐる事、或は死ぬ事などは私には出来ない。

 四十八

君に将来の希望を与へる。
其のかはり現実の虐遇に甘んじて居れ。
若し君の現実が楽しいと言ふなら、君の将来に希望がないからだ。

 四十九

死の準備はしとかなくちやならんしバケツは修繕しなければならぬ。

 五十

下駄を穿いた足だけを世の中に出して見せるのだ。
太陽のそばへもそれで以て歩るいて行くのだ。

 五十一

頭をつかひ過ぎて気が狂つた男、しかし彼は今、頭をつかひ過ぎる程、つかはなくて生きて居られないやうな体になつてゐる。

 五十二

人間がどれほどの悲哀に湛え得られるものかは人各々意見を異にするであらう。
だが人間が経験する以上の悲哀がそれならば此の世に存在するか。
誰しも人間はそれある事を否定するに違ひない。
自分の悲哀憂鬱寂寥が一番大きく甚く痛感される事を人々は知らないのだらうか。
そして自己の悲哀を他人の悲哀と比べたりなんかするには及ばないのだ。

 五十三

凡てを新らしくする事、此れは必要だ。
凡てを固定せしむるなかれ。
と云ふよりも、凡て固定してゐるものは一つもない。
ところが此れは大変ないつはりだと私は思ふ。
凡てが固定されてゐるのだ。
一切が宿命だとも思へる。

 五十四

他人の考へを私は何う変革しようにも私には不可能な事だ。
只他人の行為の暴慢に対して防御し、こちらも又行為で以て考へを現はす事の出来る丈である。

 五十五

君は感謝して好い事と、感謝して悪い事を区別しなければならない。
君が神に感謝するなら此の世の何人にも感謝するにはあたらないのだ。

 五十六

私の考へは言葉に現はす事が出来ない。
適当な言葉が見つからないのだ。
お互ひに死ぬまで生きて居りませう。
あなたは其のかはり、めしを焚いて毎日食べさせて下さい。
私はじつと遊んで居りますから。

 五十七

私は絶望の真ん中に居る。
そして絶望の右と左には鍋とはがまが居る。
犬か豚の食ふやうな食物にあまんじて、私は生きてゐなければならない。
決して私は安楽にめしを食つて生きてゐるのぢやない。

 五十八

短夜を、つまり私は一枚の着物に過ぎなかつた。

 五十九

我々はきつと生れかはる事があるのであります。
それはキリストが再臨するばかりでなく、我々はすでに誰かの生れかはりなのであります。

 六十

たつた三十ぺんしか私はまだ夏を経験してゐない。
此れからあと、何べん夏が経験される事かそれも不定だ。

 六十一

牛や馬や豚よ。
おう可愛い牛や馬や豚よ。
鳥が鳴いてゐるのを君達は何んな風に聞いてゐるか。

 六十二

米をといだり、お菜を煮たりする事は、私には凡ゆる最新のスポーツよりも楽しく栄光に充ちた労働のやうに思ふ。
口を磨く事すら許されてゐない私には、此れ等の事も言ふに及ばず、特定の人の手に委ねられてゐて、古新聞に包んで持つて来るめしとさいを、盲目か、感情を持たない白痴かの如くに食ふより外に術もないのだ。

 六十三

世の中は斯うしたものか。
それで先に急いで死んだ人が利口と言ふ事になる。
私はでも死ねない。
死の幸福を先に先にと延ばして、苦しみもがき、あえいで生きてゐる。

 六十四

人間はあまりに今まで魚を食べ過ぎた。
それで私は魚よ食べものにならう、海に死んで。

 六十五

そんな世迷ひ言や、厭世家めいた事を言ふのは君の心に余裕があると言ふものだ。
煙が廂を匍つてゐる。

 六十六

夢を丁寧に覚えてゐる人間があらうか。
夢なんか丁寧に覚えてゐたところで何にもならないのだ。
ところが人生も又夢の如きだとすれば何うしたら好いか。

 六十七

山鳩よひよろ\/と鳴け、川魚よ涙を溜めてピチ\/と泣け。

(以上『定本高橋新吉全詩集』版「戯言集」全篇)

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)