9/30(土)に、大阪難波の歯医者へ行った後に、前々から行きたかった中世城館である「上窪田環濠集落」(奈良県生駒郡安堵町)へ出向きました。

 

ここは、城郭考古学者の「千田嘉博」先生の著書「歴史を読み解く城歩き」の中で、”当時の姿を留めている中世唯一の館城(やかたしろ)がある”とのことで「上窪田環濠集落」とその中に建つ「中家」が紹介されていました。

 

それを見学する為に、近鉄「大阪難波駅」から「近鉄奈良線」に乗車し、「大和西大寺駅」で「近鉄橿原線」に乗換えて「平端駅」で下車しました。

 

当日は土曜日だったにも拘わらず、平日の「コミュニティバス」の時間を見て計画を立ていたので11時15分発のバスが無くて約30分も歩いて向かいました。本来なら、7分で「東窪田(中住宅前)」まで運んでもらえるところだったんですが、当日の太陽がサンサンと輝く中をモクモクと歩きました。

 

着いたとたん、木々が覆いつくした中に水濠と古建築が現れて雰囲気が変わります。

 

重文「上窪田環濠集落(中家)」の「内濠」と「館城」↓

重文「上窪田環濠集落(中家)」の「内濠」と「館城」↓

 

「中家」には前日に予約を入れていたので、「中濠」に架かる「はねあげ橋」を渡って「表門」を潜り「主屋」の中に入ると、団体の方が既に見学を済まされた所でして、私はマンツーマンでの説明を受けることができました。

 

重文「表門」と「はねあげ橋」↓

 

まずこの「上窪田環濠集落・中家」の歴史と城主(館主)について触れておきます。

 

「中氏」はもともと「足立氏」と称して「足利尊氏」に従って大和に入り、「窪田」姓を名乗ってこの地に居館を造りました。1391年に「窪田中氏」と改姓し、岡崎・笠目・窪田の地を拝領して「筒井一族」の武士でした。しかし「筒井氏」が「伊賀」へ国替えとなりましたが同行せずに、武士から帰農して大地主となって現在に至っているそうです。

 

その「中氏館城」の縄張りは、「外濠」と「内濠」の二重の濠に囲まれた「環濠屋敷」で、二つの濠の間は竹藪となっていますので、外部からは一見すると古墳や神社の森を思わせるようになっています。

 

現在は、この二重の環濠のうち、南外濠は失われていますが、その他の濠はほぼ残っていて中世土豪の「平城式居館」の姿をよく伝えています。

 

「主屋」は、1659年の創建らしく、「新屋敷(勅使屋敷)」は1773年の棟札があるそうです。この環濠の中には2軒の居館がありましたが、現在「中家」屋敷だけが上記以外にも「表門」「米蔵」「新蔵」「乾蔵」「牛小屋」「持仏堂」「庫裏」そして「宅地」「濠」「竹藪」が重要文化財に指定されています。

 

もう1軒は、「中家」の分家である「石田家」の屋敷が建ちますが、既に居住者も無く荒れはてた状態になっているのは勿体ないことです。「石田家」の件については後述します。

 

私はまず「主屋」内の説明を順次受けました。

 

「縄張り図」(配置図)↓

 

土間にある「竈(かまど)」は、11の焚口があり形が勾玉(まがたま)状になっていて、天井に簀子が張られ煙は「煙出し」から出るようになっています。この辺りの天井の梁は太いです。

 

重文「主屋」内の「竈」↓

重文「主屋」の「天井」↓

 

土間から上がって「主屋床の間」には、天正年間、安永年間の二時代の「梅干し」が展示され「末代まで伝えよ」との家訓が残されているようです。「床」に掛けられている「掛け軸」は凄い数の小さな「鹿」が描かれている珍しい図柄でした。

 

天正年間、安永年間の二時代の「梅干し」↓

凄い数の小さな「鹿」が描かれている「掛け軸」↓

 

縁側に目を向けると「内濠」が縁側近くまで入り込んだ「入り舟」となっています。右手にある「新屋敷(勅使屋敷)」に数年に一度訪れる役人を舟に乗せて観月会等を催したようです。

 

「内濠」が縁側近くまで入り込んだ「入り舟」↓

「内濠」が「主屋」近くまで入り込んだ「入り舟」↓

右手に建つ重文「新屋敷(勅使屋敷)」↓

 

左手の黄色外壁の建物の中は、「厠」と「戸棚式蒸し風呂」でここも訪れた役人用として使用されたそうで、風呂の入り口には刀を掛ける細かいおもてなしもあります。

 

重文「主屋」内の「厠」と「戸棚式蒸し風呂」の建物↓

「戸棚式蒸し風呂」↓

刀掛け↓

 

今回「新屋敷(勅使屋敷)」を特別公開で別料金(200円)で見学できました。身分の高い役人用ということで「主屋」から数段階段で上がる高い位置に設けられています。

 

重文「新屋敷(勅使屋敷)」入口↓

 

手前には「茶室」があり、奥には「付書院」「床の間」「違い棚」を設けた「書院造り」となっていて、「付書院」の障子越しに入る光で明るい部屋でした。

 

重文「新屋敷(勅使屋敷)」の「茶室」↓

重文「新屋敷(勅使屋敷)」の「書院造り」↓

 

「襖絵」は「狩野派」の絵師による鶴が描かれ、「欄間」は「月にむら雲、波に兎」が彫られています。また、天井の桟の向きが床の間に対して横ではなく縦になっていることや、天井板の素材も最高級のモノを使用し、「釘隠し」も普通のお城では使用されないモノが使われていて、やはり元々「武士」が「大地主」になったお家であることから、武家に対する尊敬を忘れていないような造りにしているように思われました。

 

「襖絵」は「狩野派」の絵師による鶴の絵↓

「欄間」は「月にむら雲、波に兎」↓

天井の桟の向きが床の間に対して横ではなく縦↓

「釘隠し」↓

重文「主屋」(北側から)↓

 

そこを見学した後に北側の広い庭に出ると、東側に「新蔵」、西側に「米蔵」「牛小屋」が残り、真正面には大きな「米蔵」と敷地北西隅には「乾蔵」という「乾櫓」に相当するような蔵が横たわります。

 

重文「新蔵」↓

重文「牛小屋」↓

重文「米蔵」↓

 

「米蔵」を抜けると「北内濠」に橋が架かり、「外濠」との間の敷地となります。この敷地を西側へ進むと竹藪の中に入り、更に突き当りを南方向へ曲がって進むと「庫裏」に繋がった「持仏堂」が建ちます。

 

重文「米蔵」から「内濠」を渡る↓

「中家」敷地の石垣↓

手前が北西隅に建つ重文「乾蔵」(櫓を想定しているのでは)↓

「内濠」と「外濠」の間の竹藪(西方向)↓

「西内濠」↓

「内濠」と「外濠」の間の竹藪(南方向)↓

重文「庫裏」↓

重文「持仏堂」と重文「庫裏」

 

「持仏堂」は寄棟造りで屋根上には2匹の鯱が載っています。これは「中家」個人が持つ菩提寺で、阿弥陀如来像を中心に諸仏を安置しています。敷地内に「菩提寺」を建てるのは非常に珍しいとのことです。

 

重文「持仏堂」↓

重文「持仏堂」の鯱↓

 

「竹藪」は冒頭でもお話ししましたが、外部からは森のように見える工夫がなされているようです。

 

「内濠」と「外濠」の間の竹藪↓

竹藪の中に「祠」↓

 

もう一度、「主屋」に戻り、昭和40年代頃の写真が掲出されているのを見ました。この頃の改修前の写真では「主屋」に「千鳥破風」が付いていたのですが、改修時に、江戸時代当時の姿に戻すことをコンセプトに改修されたことから破風が取り外しされ、それに伴って付随していて外された瓦類が並んでいました。特徴ある瓦で勿体ない気がしました。

 

改修前には「主屋」に下のような「千鳥破風」が付いていた↓

「千鳥破風」と共に外された珍しい瓦↓

 

「表門」の内側から改めて写真を撮ると、「主屋」の屋根は庇の上に傾斜の違う茅と瓦葺きの二つの屋根が乗っかかっています。こらは「大和棟」という造り方だそうです。

 

重文「主屋」の屋根は庇の上に傾斜の違う茅と瓦葺きの二つの屋根が乗っかかる「大和棟」↓

 

さて「石田家」の門は、「松永秀久」の居城「多聞城」の「城門」との碑が立っていて、ネットでも紹介されたりもしていますが、何とその門はもう崩れかかっていますし、壁はボロボロ、屋根の茅葺には草木が生えて見るも無残な姿になり果てていました。

 

「多聞城門」碑(「石田家」の前)↓

伝移築「多聞城門」(「石田家門」に移築)↓

伝移築「多聞城門」(「石田家門」に移築)↓

伝移築「多聞城門」(「石田家門」に移築)↓

伝移築「多聞城門」(「石田家門」に移築)↓

伝移築「多聞城門」(「石田家門」に移築)↓

伝移築「多聞城門」(「石田家門」に移築)↓

 

中の屋敷も崩壊寸前で、西側の庭では木々を伐採する音が聞こえてくるので、何らかの作業が行われているようでした。お隣(中家)の説明の方にその門について聞きますと、鑑定をするとどうも「多聞城」の「城門」ではなかったようです。私の想像ですが、その結果が分かりもう放置しているのではないでしょうか。

 

その後、残っているという「外濠」を見るために一周グルっと廻った後、昼食時であり、この「環濠集落」西外濠の西側にある天然酵母パン「樸木=あらき」という店に目星を付けていたので、そこへ入りました。

 

西側から見た「上窪田環濠集落」の姿↓

「北外濠」(東方向)↓

「北外濠」(西方向)↓

「東外濠」(北方向)↓

 

外は質素な店舗ですが、中はなかなかイケてるパン屋さんで、靴を脱いで上がれる板の間に座ることができてゆっくりと寛ぐことができました。3個の美味しそうなパンとアイスコーヒーを選びました。天然酵母パンだからなのか、もっちりと柔らかい触感で、3種とも違った味のモノを選び凄く美味しくいただけました。

 

天然酵母パン「樸木=あらき」↓

天然酵母パン「樸木=あらき」(この入口の感じがいい)↓

天然酵母パン「樸木=あらき」↓

天然酵母パン「樸木=あらき」↓

天然酵母パン↓

 

食後、「大和川」を渡り、南にむかって進み、この近くにある(といっても25分くらい歩いたか)環濠集落跡地である「結崎(ゆうざき)環濠集落」(奈良県磯城郡川西町)に立ち寄りました。

 

こちらは、南側に「環濠」が残るだけで、その中のお宅も近代的な家に改築されていました。奈良地区は非常に「環濠集落」が散らばっていますが、最近は「濠」を埋め立てることが多くなっているようです。

 

「環濠集落」の案内↓

「結崎環濠集落」の「環濠」跡↓

「結崎環濠集落」の「環濠」跡↓

「結崎環濠集落」の石垣(当時のモノかは?) ↓

「結崎環濠集落」の中のお宅↓

 

私は近鉄「橿原線結崎駅」から電車に乗るために駅へ向かいましたが、電車が出た後で約20分待ちました。約50分歩きましたので汗でベッチャリです。

 

今回は、「近世城郭」や戦国時代の「中世城郭」よりも更に以前の「中世館城(やかたしろ)」まで時代を遡ってお城巡りを敢行しました。冒頭に記載した「千田嘉博」先生の本を見たのがキッカケでしたが、今まであまり見たことがないお城巡りができて有益な一日となりました。

 

 

 

 

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