<ドラマ第五共和国より>
 
6章 朝鮮の人物ー80 現代16
朴正煕パクチョンヒと金大中キムデジュン❶パクチョンヒ
 
 
 
5月16日はパク・チョンヒ『5.16軍事クーデター』を起こした日です。
 
小さい頃、自分が置かれた境遇、祖国が分裂して在日として他人の国に暮らさなければならない悲劇の原因を作った元凶として1番憎んで居たのがパクチョンヒ朴正煕です。
学校でそう教わり、自然と身に付きました。
 
サングラスを掛け、見るからに強面(コワモテ)、どう見ても悪人面でした。
 

 

朝鮮はひとつだ』と言う、あの頃流行った共和国の歌の2番で
 
誰が敢えて統一を妨害するのか
そいつは米帝と日帝
誰が敢えて国を売るのか
そいつは朴正煕傀儡
 
 
と言うフレーズが有り、今思うと過激な歌でしたがデモ行進などに打って付けの歌で、
あの頃は年に2回以上はデモ行進大会が有ったので良く歌われましたし、私も好きで良く歌いました。
 
逆に応援してたのが民主化の闘士キムデジュン金大中です。
金大中拉致事件などをリアルタイムで体験して居るので彼をいつも応援して居ました。
高校生になっては雑誌『世界』に連載されて居たTK生の「韓国からの通信」を貪り読みました。
彼が大統領になりどれだけ喜んだか分かりません。
勿論、その過程において不満は有りますが。
 
今回と次回で現在も愛憎半ばの元大統領2人を見たいと思います。
 
まずは朴正煕ですが、彼は1917年11月慶尚北道亀尾の下級将校を務めた農民の子に生まれました。
 
 
4男2女の末っ子ですが、生活が貧しかったせいか小柄でした。
1932年に大邱師範学校に入学、1937年聞慶公立普通学校に赴任しましたが、病気を患っていた父の懇願により19歳で政略結婚して娘を設けるも気が合わず別居して居ます。
 
教師として在職中、元々軍人への憧れと韓国人教師差別の問題などの理由で1938年11月に満州国軍官学校 志願、未婚が条件の募集要項に引っ掛かり落選しそうになりますが、有名な「小指を切り血書を送った行動」が新聞で話題になり受験に漕ぎ着け入学しました。
1942年に首席で卒業しますが、使用した名前が創氏改名した『高木正雄』です。
 
 
「大東亜共栄圏を達成する為の神戦で、私は命を賭けて桜の様に見事に死にます」と宣誓、日本陸軍士官学校留学生隊に編入・卒業しました。
 
1944年関東軍635部隊に配置され、その年の7月満州軍第6軍管区所属歩兵第8団 小隊長として勤務し、八路軍攻撃の際小隊長として作戦に参加したと有ります。
 
朴正熙は部隊でも認められるエリートで、1945年7月には中尉に昇格、1945年8月10日ソ連軍の進撃阻止の命令を受けて移動しましたが、18日に日本が敗亡したニュースに接し、軍団の中国軍人によって役職から解任され武装解除されました。
 
 
9月に逃亡する為仲間たちと一緒に北京に渡り、日本軍将校経験者を探していた韓国光復軍に編入されて、第3支隊長第1大隊第2中隊長に任命されます。
そしてあろう事か光復軍将校として活動しましたが、翌年4月に第1大隊が解散した後、 5月米軍政の方針により米軍輸送船に乗って釜山港に帰国しました。
 
1946年9月に帰国した朴正煕南朝鮮国防警備隊に入隊しますが、軍で服務中に3番目の兄で共産主義者の朴相熙大邱10.1事件で警察に射殺される事件が起こると、右翼への復讐と兄の友達リジェボク李在福の勧めで南朝鮮労働党に入党、大韓民国軍内の内通者として活動しました。
 
1948年南朝鮮を揺るがした麗水軍人暴動に連塁され逮捕されますが、陸軍軍官学校出身の軍人たちの救命により処罰を免れて転向、軍内の南労党職員約300人の名簿を提供し、その功労で死刑を免れて懲役10年に減刑されました。
 
この行動を当初から南労党撹乱の為に潜入したと見る向きも存在します。
 
以後、朴正煕の能力を惜しんだペクソンヨブ白善燁の推薦で、彼は民間人(軍属)の身分で陸軍に勤務する事になり、ここで後日クーデター主軸勢力になる陸軍8期と接触、中でもキムジョンピル金鍾泌リフラク李厚洛と格別の縁を結びました。
 
 
朝鮮戦争が没発すると陸軍砲兵少佐に復帰し中佐に進級し陸軍本部輸送指揮官を務めます。
1950年2月愛人と別れ、11月に妻と協議離婚、ユクヨンス陸英修と結婚しました。
 
彼は着々と軍内で昇進、4.19人民蜂起リスンマン李承晩が下野すると陸軍本部作戦参謀部部長に就任しました。
そして翌年の5月16日軍事政変を起こします。
 
彼を求心点とする将校らは1961年5月16日、海兵隊、第1・第2野戦軍の一部を結集して国連軍司令部から離脱、ソウル、春川、大邱、光州、釜山に駐留していた軍隊でクーデターを敢行、大韓民国政府の主要機関や施設を掌握しました。
 
クーデターの一部始終を述べると長くなるので割愛しますが、軍事革命委員会として全権を掌握し自分の政治基盤を築きます。
 
ちなみに訓育将校だったチョンドゥファン全斗煥がこのクーデターに加担、「朴正煕クーデター支持パレード」を敢行して居ます。
 
 
1961年11月米大統領ケネディと協議の上軍政から民政に移管し、一院制国会と大統領中心制を中核とする新憲法を公布して国内政治資金、日本の財閥のロビー資金を元手に民主共和党を結党、大統領選挙で15万票差で大統領に就任しました。
 
彼が執権後急いだのは良く知られる様に日韓国交正常化です。
朴正煕は中央情報部(KCIA)長金鍾泌の秘密交渉に基づき独立祝い金(対日請求権放棄)の形式で無償3億ドル、有償2億ドル、民間商業借款1億ドルの提供で妥結、反対するデモなどの反対世論を弾圧し1965年日韓基本条約を締結しました。
1964年7月にはベトナム派兵を決定、西ドイツとの経済協力の合意などを進めます。
 
1967年の大統領選挙で朴正煕は経済発展の成果で国民的支持を得て、再選に成功しました。
スパイ捜査が大々的に行われ、超法的権力行使も本格的に行われました。
国家安全保障の強化と経済発展を口実に民主化運動勢力の激しい反対を弾圧して3選改憲案を強行します。
 
<維新憲法発布>
 
海外借款、技術の協力を通じて国家レベルのセメント工場肥料工場などの工業化農水産の開発、鉄道と道路の建設、発電所やダム建設、消費財の生産奨励などの経済政策を展開しました。
特に1970年代に建設された京釜高速道路は今日の経済開発のシンボルの一つです。
 
3選改憲を断行した後、2年ぶりに行われた選挙で朴正煕は新民党の金大中を53.2%対45.25%の95万票の僅差で締め出し3度目執権に成功します。
この選挙に当時の国家予算の15%を使ったと言われ、金大中については「選挙で勝って開票で負けた」という言葉が流行するほど不正選挙が横行しました。
 
1970年代共産圏と自由主義陣営の間に平和ムードが流れると朴正煕も歩調を合わせ1971年から離散家族再会の為の南北赤十字会談を開始し、1972年には歴史的な『7.4南北共同宣言』を発表、南北は平和統一の3大原則(自主、平和、民族大団結)に合意しました。
 
しかしこの平和ムードは、その後の「10月維新」に向かって国民世論を欺く為の布石でした。
1972年10月朴正煕は国会を解散し、全ての政治活動を禁止、非常戒厳令を宣言しすべての出版、メディア活動を点検し、団体の活動も制限しました。
 
 
この様な抑圧的な状況の中で第3共和国憲法を廃棄し、大統領に超法規的な権限を与える「維新憲法」を通過させたのです。
翌年の8月金大中拉致事件が起こりアメリカ、日本でも抗議が殺到します。
 
1973年セマウル運動実施、重化学工業育成、工業団地造成計画を策定するなど経済発展を促します。
 
1974年8月には文世光事件こと「朴正煕狙撃事件」が起こり夫人陸英修が犠牲になりましたが、この事件は未だ陰謀か否か判断が分かれて居ます。
 
 
そしていよいよ1979年YH事件金泳三議員除名騒動が起き、釜山と馬山で釜馬民主抗争が勃発しました。
この弾圧を巡り10月26日夕食会の席上で当時中央情報部長金載圭により暗殺され、その生涯を終えました。
 
以上彼の生涯を駆け足で見ましたが、彼ほど功罪がハッキリして居る人物は珍しいです。
現在の韓国では経済発展のノスタルジーから彼の人気がかなり高いと言います。
功罪相半し、あれ程憎まれた人物でも時が経つにつれ功績のみがクローズアップされるのは、「悪しき思い出は忘れ易く良き思い出のみが記憶に残り易い人間の性」とも言えるでしょうか?
 
次回は彼の最大の政敵キムデジュン金大中についてみたいと思います。
 

 

<参考文献>
한국민족문화대사전
나무위키
 
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