NHK俳句テキスト6月号を読む(9)。


今号の「わが師を語る」は上田日差子さんによる「上田五千石」でした。

上田五千石さんと言えば「眼前直覚」という言葉がすぐ浮かびます。単なる写生ではなく、俳人の感性で見た物事の本質。「眼前」は文字通り眼前であり、「今」であり、作者の眼前である。「直覚」は文字通り真っ直ぐ物を観ることでありそこには粉飾も引用でもない、自分の心より出ずる言葉による表現である。そこにあるのは、俳句に対する、あるいは詩に対する真摯な姿勢であり、俳人たる者の生き方なのである。(すえよし)


以下、本文より。


上田五千石(うえだごせんごく) さん

昭和8(1933)~平成9(1997)年。享年63歳。東京都生まれ。昭和20年、空襲により生家焼失。22年、静岡県に転居。中学時代より作句、校内の文芸誌に投稿する。28年、上智大学文学部新聞学科に入学。過度の神経症に悩み、母の勧めで句会に出席、 秋元不死男に出会う。不死男主宰の「氷海」に入会。32年、上智大学卒業。堀井春一郎、鷹羽狩行らと「氷海新人会」を結成。35年、結婚。36年、長女・日差子誕生。43年、第1句集『田園』刊行。44年、同句集で俳人協会賞受賞。48年、「畦」創刊。61年、「畦」150号記念号にて五千石の俳句理念「眼前直覚--いま、ここ、われ、をうたう」を明らかにする。62年、NH K趣味講座「俳句入門」講師。句集に『田園』『森林』『風景』『琥珀』『天路』『上田五千石全句集』、俳書に『生きることをうたう』『俳句塾』『春の雁』『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』などがある。


上田日差子(ひざし)さん

昭和38 (1961)年、静岡県生まれ。52年「畦」入会。上田五千石に師事。60年「畦」同人。平成9年9月、五千石急逝により12月に「蛙」終刊。10年3月「ランブル」創刊、主宰となる。俳人協会評議員。日本文藝家協会会員。静岡英和学院大学非常勤講師。句集に「日差集」『忘南」「和音」(第34回俳人協会新人賞)。句文集に「子育ての十七音詩」「ちきゅうにやさしいことば」がある。


わが師を語る----上田日差子」


▪️父を師と語るは難し春の炉辺 日差子


平成9年、父没後まもなく詠んだ拙 句である。予期せぬ別れであったこともあり、上田五千石はあくまで父親であり、俳句の師を失った悲しみよりも父を失った衝撃のほうが勝っていたことは確かであった。

父が残した五冊の句集、わずかな俳句入門書を頼りに、俳句と俳文を読み返す日々が続いた。「眼前直覚」の持論 「いま・ここ・われ」という作句指針、「俳句をやると幸せになるよ」の呼びかけ、「俳句は詩である」などの俳句精神は、私の俳句生活を支えてくれているのである。

第五句集は、父が生前準備していたものを一周忌前に刊行した。句集名は 『天路』、ジョン・バニヤンの小説名「天路歴程」から父が引用したもの。あたかも自らの命の終馬を悟っていたかのような覚悟さえも覚えてしまう。まさに主人公の清教徒は父そのものであ り、俳句の求道者として生き抜いた感がある。

ただ実作に励むだけではなく、常に「俳句とは何か」を己に問い他者に問いかけていた。その父の俳論の発芽は十代に遡る。中学二年に文芸部に入り俳句を発表、その後は詩作に転じ、十六歳の時に和綴じの詩集を手作りし、十七歳でもう一冊、大学入学までにはノートに詩日記を綴っている。それら は紙袋に包まれるまま、書棚の抽斗しに大事に保管され、父亡き後に発見された。若い頃に詩を書いていたことは父から訊いていたが、実際に見ることはないままであった。父に尋ねると、きまって「ようするに、耽美的な甘い詩だよ」と照れ笑いをしていた。

詩は情を叙べるものであるが、俳句は言い切るものである。詩のポエジー性を十七音の定型に投じた。「常識を破り、予定観念をくつがえして、現実の中に超現実を見ることは、初めての新しい世界の開示です。これが詩というものです。俳句はこの「詩」を十七音に成就させるものです」という父 の論理につながる。没後二十三年、残した言葉を解く宿題はまだ山積みである。

五千石さんの俳句と日差子さんの短評。


▪️指さして寒星一つづつ生かす 『田園』(昭和43年刊)

秋元不死男に入門。神経症から脱れ、俳句によって命を守られた。「生かす」ことは生かされることである。


▪️萬緑や死は一弾を以て足る 『田園』(昭和43年刊)

一弾で足りる死の容易さに対して怯えているのではない。死の厳粛性よりも萬緑の生命力が勝っているようだ。


▪️もがり笛風の又三郎やあーい 『田園』(昭和43年刊)

兄事した堀井春一郎に「これが君だ。君ははじめて君の句を作った」と言われた句。童心が詩に叫びをもたらした。


▪️冬銀河青春容赦なく流れ 『田園』(昭和43年刊)

渋谷村(岩手県)での作。石川啄木の夭折を偲ぶに、過ぎゆく青春の早さを思わずにいられない27歳の五千石。


▪️青胡桃しなのの空のかたさかな 『田園』(昭和43年刊)

疎開先信濃の3年間は少年期を育て、季語体験を培ってくれた。山国の空のかたさと青胡桃の質感が重なる。


▪️柚子湯出て慈母観音のごとく立つ 『田園』(昭和43年刊)

狩野芳崖画「悲母観音」の切り抜きを母親が拝して胎教としたという。目の当たりにした母子の姿の清らかさ。


▪️父といふしづけさにゐて胡桃割る 『田園』(昭和43年刊)

初案の「さびしさ」を「しづけさ」に改めた。生活の労苦を負う父の弱音はポエジーには足らないのである。


▪️渡り鳥みるみるわれの小さくなり 『田園』(昭和43年刊)

見送る自分がみるみる小さくなっていく逆説的な感覚。つき放されたような寂しさは予期せぬものである。


▪️水鏡してあぢさゐのけふの色 『田園』(昭和43年刊)

水に映る紫陽花の色が水鏡に照らし出されている。今日は今日の色があり、色は移ろう。「けふ」の色は尊い。


▪️この秋思五合庵よりつききたる 『森林』(昭和53年刊)

書の手本として良寛の字を学び、漢詩にも親しんでいた。五合庵で昼寝をしたという。離れ難い思慕である。


▪️山開きたる雲中にこころざす 『森林』(昭和53年刊)

御神体の富士山は雲に閉ざされているが、雲中に確と富士の姿を見定めた。「畦」創刊前年の志が見える。


▪️竹の声晶々と寒明くるべし 『森林』(昭和53年刊)

身延山(山梨県)の裏山。歩くことで無心になり、気配に敏くなり見えなかったものが見えた。「現前直覚」の契機の句。


▪️こゑにせず母呼びてみる秋の暮『森林』(昭和53年刊)

6月23日が母親の忌日。父を早く失い母子の暮しは長かった。一周忌の墓地に句碑を建て母への供養とした。


▪️生きてあるこの暑さ不死男忌とこそ『風景』(昭和57年刊)

7月25日は大方暑い。俳句人生を導いた師は命の恩人でもある。自身が生きることが師への鎮魂である。


▪️これ以上澄みなば水の傷つかむ『風景』(昭和57年刊)

これ以上澄んではいけないと水を戒める。硝子と化して自らを傷つけてしまうことの怖さ心にも言える。


▪️早蕨や若狭を出でぬ仏たち『風景』(昭和57年刊)

残雪を踏みながらの仏めぐり。里の人々の信仰の篤さを讃えては、若狭の春の到来を喜ぶのである。


▪️塔しのぐもののなければしぐれくる『琥珀』(平成4年刊)

京都東寺の五重塔は特に高く、しのぐものは仰ぐ天にはない。しぐれは塔から降ってくるものに見えた。


▪️まぼろしの花湧く花のさかりかな 『琥珀』(平成4年刊)

眼前には満開の桜がある。しばらく佇んでいると「まぼろしの花」が幻影として加わる。虚実の詩情か。


▪️あたたかき雪がふるふる兎の目『琥珀』(平成4年刊)

一面雪の白い世界に二つの赤い粒の兎の目を点じた時の清浄感とメルヘン性が、雪をあたたかいものに導いた。


▪️色鳥や刻美しく呆けゐて『天路』(平成10年刊)

亡くなる前日の句。「刻美し」は無意識ながら生涯を顧みての感慨とも。色鳥の明るさに慰められる。