東山魁夷の白い馬の見える風景

  • 2018/11/04
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  • 17:31

2018年10月25日

国立新美術館の東山魁夷展には5点の白馬の作品が展示してあります。

 

緑響く(1982年)

弦楽器の合奏の中を ピアノの単純な旋律が通り過ぎる

 

水辺の朝

みずなら林が芽吹く りゅうきん花の黄が鮮やかである

 

草青む

海近くの湿地帯に日が翳ると 間もなく霧が流れてくる

 

白馬の森

心の奥にある森 誰もが窺い知ることができない

 

春を呼ぶ丘

それは喜びであると風が語った 大地の鼓動が聴こえる

 

昭和47(1972)年に、画面に白馬がひそかに描かれている習作を含む18点の展覧会が開かれました。

これが「白い馬の見える風景」と言う連作シリーズです。

5点の作品はこの連作シリーズに含まれた作品です。

 

ところが連作シリーズの中心的作品であった「緑響く」が行く方不明になり、パリで同じ展覧会を開催するに際して、1982年に再制作された作品が展示されました。

上記掲載の作品は再制作された作品です。

 

1972年の「緑響く」はこんな感じでした。

1972年の作品の方が、木がやや黄緑がかっているようです。

 

「緑響く」はテレビCMにも登場して話題となった作品です。

農業用の溜池としてつくられた御射鹿池がモチーフとなっています。

その幻想的な美しさから多くのカメラマンが撮影に訪れるそうです。

         ネットで映像拝借しました。

この作品について東山魁夷さんは次のように言っています。

 

一頭の白い馬が緑の樹々に覆われた山裾の池畔に現れ、画面を右から左へと歩いて消え去った。

そんな空想が私の心のなかに浮かびました。

私はその時、なんとなくモーツァルトのピアノ協奏曲の第二楽章の旋律が響いているのを感じました。

おだやかで、控えめながちな主題がまず、ピアノの独奏で奏でられ、深い底から立ち昇る嘆きとも祈りとも感じられるオーケストラの調べが慰めるようにそれに答えます。

白い馬はピアノの旋律で、木々の茂る背景はオーケストラです。

 

モーツァルトのピアノ協奏曲は第23番 K488ですが、You Tubeで聴けるので鑑賞の足しにしてください。

 

連作シリーズ「白い馬の見える風景」の他の13の作品です。

 

芒野(習作)

高原を風が渡る くぬぎ林が乾いた音を立てる

 

綿雲(習作)

再び春は巡ろうとしている 再びあなたは帰らないであろう

 

曠野(習作)

原野に一羽の鶴が降り立った すぐそれは白馬の姿に変わった

 

渚の白馬

波の轟が快かった かもめの姿は見えなかった

 

荒寥(習作)

鳥が渡って行った 雲の中に小さく

 

森装う

秋の豊かさがある 冬を目の前にして

 

風吹く浜

波の打ち寄せる砂浜を廻ると 荒々しい岩礁が海に乗り出していた

 

樹霊(習作)

森の深みの暗い沼に 毀れた鐘が沈んでいる

 

夕明り

祈りの時が来た 静かにならせ つりがね草

 

湖澄む


湖を囲む岩山に 遠く一筋の滝が懸る

 

若葉の季節

美しき五月 すべての樹々の芽吹くとき

 

麦秋

麦笛を吹いていたのは誰だったか 遠い6月の記憶

 

早春の丘(習作)

ひっそりとした小さな町をはずれると 水溜りのある道を馬車は揺れながら走った

 

「白い馬の見える風景」について作者の言葉があります。

ある時、一頭の白い馬が、私の風景の中に、ためらいながら、小さく姿を見せた。

するとその年(1972)に描いた18点の風景(その中には習作もあるが)の全てに、小さな白い馬が現れたのである。

白い馬は、たとえば協奏曲ならば、独奏楽器による主題であり、その変奏である。

協奏する相手のオーケストラは、ここでは風景である。

白い馬は風景の中を、自由に歩き、佇み、緩やかに走る。

しかし、いつも、ひそやかに遠くの方に見える場合が多く、決して、前面に大きく現われることはない。

この小さな馬の出現は、私にとって思いがけないことである。

一切の点景を排した風景を描き続けてきた私であるし、人もそれを私の特徴と思っているに違いない。

 

また白い馬について以下のように語っています。

 

この白い馬はいったい何を表すのかと、よく、人に聞かれる。

私はその度に、見る人の心に任せたいとのみ答えてきた。

それは、私の心に内在しているものの象徴であることは間違いない。

心の祈りとでもいうべきものであろうか。