ひめのみち(その18)~松原八幡神社 | 大根役者

大根役者

日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

刃の宮地蔵の記事で、宇佐八幡宮の御神体が播磨国、松原八幡宮に移ったというご神託について、記述した。灘の喧嘩祭りで有名な松原八幡宮に、参拝する機会を失していたので、

山陽電車、白浜の宮駅から、松原八幡宮へ向かった。

松原八幡宮方面に歩くと、「白浜の石棺物」という案内板があった。

家型石棺の蓋に地蔵立像が彫られたもので、南北朝時代の末の明徳3年(1392)の建立。「明徳地蔵」と呼ばれている。

 

裏手に地蔵堂もあった。

道を進むと播磨西国第六番霊場八正寺が見えてくる。この境内地に松原八幡宮が鎮座している。八正寺も中世にほんにおいて、重要なポジショニングにある寺なのだ。境内地の外を廻り、松原八幡宮参道に進む。

松原八幡宮大鳥居

鳥居をくぐると左右に観客席が見える。

鳥居から隋神門に至る広場で、毎年10月14、15日の両日にかけて、盛大に行われる松原八幡宮の秋季例大祭は「灘のけんか祭り」、「灘祭り」とも呼ばれている。「華やかさと勇壮さで他に類を見ない祭りとされている。3基の神輿をぶつけあい、7台の絢爛豪華な屋台の練り合わせが、多くの観客を魅了する。」とホームページで紹介されている。

 

姫路駅には、神輿が展示されている。

一の丸、二の丸、三の丸からなる3基の神輿をぶつけ合わせる神事と、旧7ヶ村の絢爛豪華な屋台が激しく練り競う勇壮な屋台練りが行われる。

 

例祭の歴史は古く、旧暦8月15日に行われた「放生会」が原点となる。

放生会というのは、捕らえられている生き物を解き放って自由にしてやる儀式で、生類保護・殺生禁断の仏教思想と結びついて、全国各地の八幡神社で盛んに行われるようになった。なりました。松原八幡神社の放生会は、岩清水八幡宮、宇佐八幡宮の放生会から、11世紀から12世紀にかけてから行われるようになったと推察されている。

宇佐八幡宮の放生会の起源は、養老三年(719)大隈・日向の隼人族が反乱を起こしたので、八幡神社の八幡大神は託宣により神官・僧侶と共に行幸され、これを鎮めた。宇佐八幡宮ではこの隼人の霊を慰めるため、天平16年(744)和間浜で「放生会」が行われた。これが全国各地の八幡宮で行われている放生会の起源であるとされている。

石清水八幡宮の「放生会」は、貞観五年(863)旧暦八月十五日に石清水放生会と称して始められた。現在においても9月15日に行われる石清水祭で「放生会」が斉行されている。。

松原八幡神社の「放生会」は、石清水八幡宮より派生して行われるようになった。

「放生会」から近世江戸時代の祭りへの変遷はどのようであったかについて、前述寺脇先生は
中世播磨の地誌「峯相記」などから、14世紀中頃には、江戸時代と同様な祭りが斎行されていたようだ。御旅山への神事渡御の行列に壇尻や丹頂、神輿太鼓など氏子たちの自主的な出し物が随行することを認められたのは、それより15世紀中頃、播磨の守護大名赤松政則が松原八幡神社に田地と米二百俵を寄進。喜んだ氏子たちが自主的にその米俵をかついで御旅山に上ったのが最初と言われている。江戸時代には、村ごとにだんじりや屋台を造り、祭礼に参加するようになった。各村ごとの喧嘩も発生し、神社で統制が取れなくなっていく。

祭礼日は、先述したように、旧暦8月15日から、旧暦9月15日になり、新暦により、明治後期に現在の10月15日に行われるようになった。

祭礼は神宮寺であった八正寺が行っていたが、明治時代の神仏分離令で、氏子主催の祭りとなった。灘けんか祭りは、灘七村の氏子たちが権力から、祭りという本来の在り方を取り戻す長い闘いの歴史でもあった。

祭りを見るために、観客席が設けられているのは、事故を防ぐためだ。西大寺のはだか祭りにも観客席が設けられている。

山陽電車白浜の宮駅は無人駅だ。祭礼当日は、特急も臨時停車し、駅員も配置される。今年は、何とかして、祭りに行きたいtぽ思っている。

松原神宮境内に入る。

 

隋神門

隋神

姫路市指定有形文化財(建造物)楼門(随神門)は-、延宝7年(1679)建立で、昭和51年3月23日に姫路市指定有形文化財に指定されている。
 
拝殿
本殿
由緒によると、

 

『天平宝字7年 ( 763 ) 葵卯4月11日九州豊前国宇佐より白雲が東にたなびき、松原沖の海底に毎夜ひかり輝くものがあった。国司が妻鹿(めが)の漁人、倶釣 ( 久津理 ) に命じて網を入れさせたところ 「 宇佐第二垂跡八幡大菩薩 」 の文字のある紫檀の霊木があがったので、妻鹿川の下流の大岩の上に安置してお祀りした。

このことが当時の朝廷に聞こえ、勅使が下向し妻鹿の北東の山頂 ( お旅山 ) に仮殿を造り御神体をお遷しした。ある夜、国司は神のお告げを夢に見た。それは「 我が永久に鏡座しようと思う所は今は、海原であるが、そこを一夜にして白浜とし、 粟が生じるように数千の松を生やすから、そこに達して祀れ 」というものであった。

そこで、国司は諸国の工人を集め、豊前の宇佐宮に倣って立派な社殿を造営し、御神体を

現在の松原の地にお遷しした。 以来、粟生の松原という。

風光名媚な浜辺に鎮座し、天皇の御祈願所として天下泰平・国土豊饒の祭儀を行い、例祭には勅使が下向し、現在の灘まつりの元となった放生会という例祭が8月15日には厳格に行われ、八幡信仰の第二垂跡の神宮として栄えた。』

 

絵馬殿

説明版によると

『天王の始め姫路の羽柴秀吉と三木の別所長春の合戦の時、約三千人の勢力を持つ当神社は双方より援軍を依頼されましたが、旧来の縁で三木に味方せんとする者、また姫路に味方せんとする者半交し、衆議は幾度なされても決せず、ついにある者は

姫路に走り、ある者は三木を援じたと伝えられています。三木城側はこの態度を怒り、当神社に火を放ち七堂伽藍四十六坊ことごとく灰塵としてしまいました。

秀吉は天下平定後、その際の態度を怒り、当社を城南の芝原という地に移すように命じました。その際に松原は由緒ある地として秀吉に当社存続を懇願したのは黒田孝高と言われており、古来、千石千貫といわれた講田・社領は六十石に減じられてしまいましたが、神社はなんとか存続したのであります。

その後、天正十二年 ( 1584 ) 松原八幡宮社僧霊山坊快祐が八正寺六坊を含め社領を再建しました。

 

司馬遼太郎の 「 播磨灘物語 」 の小説に登場する秀吉の羅針盤黒田官兵衛孝高は中世播磨の豪族赤松円心の崇敬した播磨の古社である廣峯神社と松原八幡神社に敬神の念厚く、秀吉に特に懇願して六十石を残し当社をこの地に存続せしめたので

あり、当神社にとって大変な恩人であります。

天正十二年、松原八幡宮が復興の際、黒田官兵衛孝高が拝殿を寄進したと伝えられて

います。

松原八幡神社の下の絵馬堂は、江戸時代元禄八年 ( 1695 ) に大修復以後、大正十三年現在の土間拝殿を新築したため移築して絵馬堂として使用して参りましたが、次第に老朽化し、昭和五十六年八月に解体を致しました。

旧拝殿棟札に黒田孝高寄進と記載されていたと言われており、桃山時代の建築様式の名残のある建物であったとされています。

現在掲学されている松原八幡神社秋季大祭図絵 ( 縦幅 1.45m 横幅 6.00m 松原村十人宮大工 岡本勘左衛門重近。 倅 勘浩良 嘉永四年六月奉納 ) の大絵馬は、嘉永三年八月に拝殿が大修復され、その修復の竣功を記念してその修復に携わった宮大工棟梁の父子がこの大額を拝殿正面に奉額そいたものと思われます。』

 

稲荷社

春日社・厳島社・日清・日露戦没者慰霊堂・高良社

弁財天社・八坂社・地神社・天満社・恵美酒社

本殿裏に進む。

白躰社

俱釣祠

先述した松原八幡神社創建の御神徳を授かった妻鹿の漁人俱釣 ( 久津里 ) を

祀った祠。

住吉神社

神楽殿

弘安10年(1287)春、遊行途中の一遍が参詣し、時衆たちに「別願和讃」を示した(『一遍聖絵』)と伝わっている。

応仁元年(1467)、赤松氏は代々当松原八幡宮を敬ってきた、大勢の僧兵を持つ松原神社は山名氏と戦い、常に赤松氏を助けていた。そのため応仁の乱で山名氏は報復のため当神社の建物に火をつけ社殿を焼失させた。

永禄元年(1558)赤松政則により再建された。天正元年(1573)羽柴秀吉の三木城責めの際、別所長治の怒りにあい、火を放たれた。天正12年(1584)僧・快祐が社殿を復興した。社殿は、焼失しては復興してきた。

歴史に翻弄されてきた神社だ。現在の社殿は大正13年に建てられたものを平成7年に復興したものだ。。

 

本殿裏から、神宮寺である八正寺に入る。

 

 

 

 

Yahoo!ショッピング(ヤフー ショッピング)

 

【HIS】旅行プログラム