第一波が襲来したのは、15時18分だった。
防波堤が隠れ、海面から7メートルほどある待合所の屋根、さらには10メートルほどあるお土産の二階の屋根も次々に水面下に消えていった。
約10分後の15時29分、今度は水が急激に南北両方向に引き始め、1分もたたないうちに建物や桟橋が完全にもとの姿を現した。
そして、33分には金華山と牡鹿半島との間の金華山瀬戸からはほとんど水が引き幅数百メートルの枯れ河のごとくになった。
それも束の間、1分後の15時35分には、30メートル近くある津波が南北両方向から怒涛のように押し寄せてきた。
南(太平洋側・鮎川方面))から押し寄せる津波は、翼を広げたように中央がややへこん出ような形で迫ってくる。金華山と牡鹿半島に挟まれた金華山海峡に入るとぐんぐんとすぴいーどを増してくる。
一方、北(女川側)からの津波は中央が尖った形をしており南かれの津波よりもやや高速で押し寄せてくるように見えた。
北からの津波が南からの津波に食い込むように我々の眼前で中央付近から次々に激突した。
その瞬間せりあがって50メートルくらいの波になった。
そしてまるで津波が高台までよじ登って来るように我々のいる高台を目掛けて押し寄せてきた。
各地で津波が高い防波堤を楽々越えてしまったのはこのよじ登りによるものだろう。
慌てて撮影をやめてさらに高いところまで駆け上がった。
せっかく地震やがけ崩れから逃げおおせてきて、ここまで来て津波にやられたのでは元も子もない。
我々が避難した高台からさらに5~6メートルほど高いところに、「大震嘯災記念碑」と書かれた石碑がある。
とにかくその津波碑より高いところまで必死に走った。
その日より距離にして50mほど向こうで振り返ってみると、津波は20mほど手前で引いていて行った。
これの碑昭和8年3月3日の昭和三陸沖地震の被災記憶を残すために建立されたもので、
津波が収まってから見ると。碑文には、次のように書かれていた。
「地震があったら津浪の用心」
「それや来た逃げよう五本松」
こうした碑は、三陸各地にあるが、大きな津波がここまで登ってきた…という津波の恐ろしさを知らせる警報の役割を果たしている。
我々は知らずにこの教えを守ったことになる。
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