刺青の人体標本「女盗賊 雷お新」
明治時代に実在した女盗賊 雷お新(1849 - 1890頃)と思われる女性の刺青標本の写真を発見しました!
「近世悪女奇聞」 (中公文庫) 綿谷雪・著 の中で紹介されている雷お新の標本の記録と特徴がぴたりと符合します。
<近世悪女奇聞より引用>
『お新は明治二十三年(1890年)ごろに四十一歳で病死した女賊であるが、遺言によって全身の皮膚を剥いでナメシ革とし、そのみごとな刺青が保存されたのだった。』
『お新の刺青のナメシ革は、明治四十五年四月以来、大阪医学校(大阪医科大学の前身)で保管することになり、たしかに大正三年だったか、大阪天王寺公園で開催された衛生博覧会や、その後、神戸新開地での衛生博覧会にも出品され、私は二度ともそれを見に行った』(中略)
『衛生博覧会には特別陳列室というのがあって、そこでは主として花柳病と出産に関する飾り付けがしてあり(中略)その陳列品のなかでもっとも妖異・幻怪だったのは、壁面に高々と釣りあげられた雷お新の全身の皮膚のナメシ革であった。』
(中略)『大の字なりにひろげた全身の、肛 門と局部の近辺だけがわんぐりと紡錘型の穴にえぐり取られていた』
※紡錘型: 両端の尖った楕円形
その後、雷お新の刺青標本は、大正10年に開催された警察展覧会にも出品されたようです。
読売新聞 1921年(大正10) 9月12日 朝刊より
毒婦雷お新の鞣皮も出る 警察の大展覧会
刑事参考の興味ある出品 浦和署が主催で十五日締切
埼玉県浦和町浦和警察署長宮本貞三郎氏は刑務部長本田楢次郎(本田子令息)と協力発起して警察展覧会を開く事となり、来る十五日を締切日として全国各警察署から刑事保安に関する種々の材料を蒐集中である、市内の各警察でもこの計画に賛成するもの少なからず何れも出来る限りの尽力をすると云う。 元来この種の展覧会は極く小規模なものが以前京都に催されたことがあったけれども、今回の如き大規模な計画が理想通りに出来れば警察官ばかりでなく一般民衆に非常な興味を與えることになるだろう。(中略)
市内警察の某方面では明治の毒婦 雷お新の入墨した鞣皮に揃えて、当時探査に苦心した経路を概述したものを出品する。
『当時の記録によってしらべてみると、左右は両腕のヒジまで、胴は首のつけ根から、腹はヘソの下まで一直線に切りひらき、両足は左右の関節部からカカトまである。首からヒジまで一尺八寸(54.5cm)、胸のまわり二尺(60.6cm)、股から膝のした二尺二寸(66.7cm)で、ひじょうな大柄な女だったことが、わかる。』
『刺青は、せなかには弁財天と北条時政、おしりには雲をよぶ六角の蛟竜、左右の股には岩見重次郎の大蛇退治、腹部は筋彫りにほんのりとぼかしを入れた九紋竜史進、花和尚魯智深の深彫り、右うでには金太郎、左腕には人物四人と緋桜の大彫もの』
■背中: 弁財天と北条時政(溪斎英泉作の錦絵「北条時政」の写し)
■尻: 雲をよぶ六角の蛟竜
■左右の股: 岩見重次郎の大蛇退治
■腹: 筋彫りにほんのりとぼかしを入れた九紋竜史進、花和尚魯智深の深彫り
■右腕: 金太郎
■左腕: 人物四人と緋桜の大彫もの
標本の背中には、溪斎英泉作の錦絵「北条時政」を基にしたと思われる弁財天、北条時政、龍の刺青が確認できます。
腕の刺青は、記録とは逆の「左腕に金太郎」、「右腕に桜と人物」が彫ってあるように見えます。
さらに股部分に彫られた人物、腹の筋彫り、特徴的な局部周辺を紡錘型に切り取った穴など、刺青箇所や肘から踵まで剥がされた形状の点でも符合します。
お新は、土佐藩士の娘で高知城下でも評判の美人だったのだそうです。
嫁ぎ先との不和から離縁されたことで自暴自棄をおこし、明治元年(1868年)に18歳で家出して大阪に出ると、万引、まくらさがし(眠っている旅人の枕元から金品を盗むこと)、にせ金使いや、恐喝などの悪事を働くようになります。 2、3年経つと、たくさんの子分ができたため、貫録をつけるために全身に刺青を彫ることを思い立ったのだそうです。
明治7年(1874年)に強盗罪で逮捕され、明治15年(1882年)終身刑で服役中に脱獄して再逮捕。 その後、明治22年(1889年)に赦免されるが翌年明治23年(1890年)大阪で病死。(享年41歳)
※福士政一博士は明治40年頃より刺青の研究を始めたので、お新の標本制作には携わっていないと思われます。
お新の遺言によって、刺青を彫った全身の皮膚を剥いでナメシ革とし、標本は大阪医学校(大阪医科大学の前身)で保存されることになります。
綿谷氏は最後に『お新の刺青のナメシ革、戦後どうなっているのか私は知らない。戦災に失われてしまったのじゃないだろうか』と結んでいます。
さらに、朝倉 喬司 著 「毒婦伝」には、『決して標本などではなく、香具師の手に渡り、衛生博覧会の出しもののひとつとして各地をまわった。つまりは見世物。後世にわたる学術的な観察の対象物として残されたわけではない。』と書かれています。
※香具師: 街頭で見世物などの芸を披露する商売人
そうすると、現在 お新の標本は大阪医科大学ではなく個人が所有しているということでしょうか? さらに謎が深まりますね。
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「近世悪女奇聞」 (中公文庫) 綿谷雪・著 の中で紹介されている雷お新の標本の記録と特徴がぴたりと符合します。
<近世悪女奇聞より引用>
『お新は明治二十三年(1890年)ごろに四十一歳で病死した女賊であるが、遺言によって全身の皮膚を剥いでナメシ革とし、そのみごとな刺青が保存されたのだった。』
『お新の刺青のナメシ革は、明治四十五年四月以来、大阪医学校(大阪医科大学の前身)で保管することになり、たしかに大正三年だったか、大阪天王寺公園で開催された衛生博覧会や、その後、神戸新開地での衛生博覧会にも出品され、私は二度ともそれを見に行った』(中略)
『衛生博覧会には特別陳列室というのがあって、そこでは主として花柳病と出産に関する飾り付けがしてあり(中略)その陳列品のなかでもっとも妖異・幻怪だったのは、壁面に高々と釣りあげられた雷お新の全身の皮膚のナメシ革であった。』
(中略)『大の字なりにひろげた全身の、肛 門と局部の近辺だけがわんぐりと紡錘型の穴にえぐり取られていた』
※紡錘型: 両端の尖った楕円形
その後、雷お新の刺青標本は、大正10年に開催された警察展覧会にも出品されたようです。
読売新聞 1921年(大正10) 9月12日 朝刊より
毒婦雷お新の鞣皮も出る 警察の大展覧会
刑事参考の興味ある出品 浦和署が主催で十五日締切
埼玉県浦和町浦和警察署長宮本貞三郎氏は刑務部長本田楢次郎(本田子令息)と協力発起して警察展覧会を開く事となり、来る十五日を締切日として全国各警察署から刑事保安に関する種々の材料を蒐集中である、市内の各警察でもこの計画に賛成するもの少なからず何れも出来る限りの尽力をすると云う。 元来この種の展覧会は極く小規模なものが以前京都に催されたことがあったけれども、今回の如き大規模な計画が理想通りに出来れば警察官ばかりでなく一般民衆に非常な興味を與えることになるだろう。(中略)
市内警察の某方面では明治の毒婦 雷お新の入墨した鞣皮に揃えて、当時探査に苦心した経路を概述したものを出品する。
『当時の記録によってしらべてみると、左右は両腕のヒジまで、胴は首のつけ根から、腹はヘソの下まで一直線に切りひらき、両足は左右の関節部からカカトまである。首からヒジまで一尺八寸(54.5cm)、胸のまわり二尺(60.6cm)、股から膝のした二尺二寸(66.7cm)で、ひじょうな大柄な女だったことが、わかる。』
『刺青は、せなかには弁財天と北条時政、おしりには雲をよぶ六角の蛟竜、左右の股には岩見重次郎の大蛇退治、腹部は筋彫りにほんのりとぼかしを入れた九紋竜史進、花和尚魯智深の深彫り、右うでには金太郎、左腕には人物四人と緋桜の大彫もの』
■背中: 弁財天と北条時政(溪斎英泉作の錦絵「北条時政」の写し)
■尻: 雲をよぶ六角の蛟竜
■左右の股: 岩見重次郎の大蛇退治
■腹: 筋彫りにほんのりとぼかしを入れた九紋竜史進、花和尚魯智深の深彫り
■右腕: 金太郎
■左腕: 人物四人と緋桜の大彫もの
標本の背中には、溪斎英泉作の錦絵「北条時政」を基にしたと思われる弁財天、北条時政、龍の刺青が確認できます。
腕の刺青は、記録とは逆の「左腕に金太郎」、「右腕に桜と人物」が彫ってあるように見えます。
さらに股部分に彫られた人物、腹の筋彫り、特徴的な局部周辺を紡錘型に切り取った穴など、刺青箇所や肘から踵まで剥がされた形状の点でも符合します。
お新は、土佐藩士の娘で高知城下でも評判の美人だったのだそうです。
嫁ぎ先との不和から離縁されたことで自暴自棄をおこし、明治元年(1868年)に18歳で家出して大阪に出ると、万引、まくらさがし(眠っている旅人の枕元から金品を盗むこと)、にせ金使いや、恐喝などの悪事を働くようになります。 2、3年経つと、たくさんの子分ができたため、貫録をつけるために全身に刺青を彫ることを思い立ったのだそうです。
明治7年(1874年)に強盗罪で逮捕され、明治15年(1882年)終身刑で服役中に脱獄して再逮捕。 その後、明治22年(1889年)に赦免されるが翌年明治23年(1890年)大阪で病死。(享年41歳)
※福士政一博士は明治40年頃より刺青の研究を始めたので、お新の標本制作には携わっていないと思われます。
お新の遺言によって、刺青を彫った全身の皮膚を剥いでナメシ革とし、標本は大阪医学校(大阪医科大学の前身)で保存されることになります。
綿谷氏は最後に『お新の刺青のナメシ革、戦後どうなっているのか私は知らない。戦災に失われてしまったのじゃないだろうか』と結んでいます。
さらに、朝倉 喬司 著 「毒婦伝」には、『決して標本などではなく、香具師の手に渡り、衛生博覧会の出しもののひとつとして各地をまわった。つまりは見世物。後世にわたる学術的な観察の対象物として残されたわけではない。』と書かれています。
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