笠置山笠置山

笠置寺の洞窟

 

 実忠は、笠置山で修行していたとき、竜穴をみつけた。天平勝宝3(751)年10月のことである。洞窟に入って北へ一里ばかり行くと、にわかに光輝く世界に入った。そこは兜率天の内院になっていた。その世界には四十九院が備わっており、巡礼してゆくうちに紫金の光が旋回する摩尼宝殿の前に出た。さらに常念観音院という所に出ると、聖衆が集まって、しきりに十一面観音悔過の行法を修していた。行法が進むと、生身の観世音菩薩が現れた。実忠は驚き、ぜひこの素晴らしい行法を下界にもちかえりたい、と聖衆の一人に言った。

  「それは無理だ」、と聖衆は言った。

  「人間界の時間は、短かすぎる。この兜率天にあっては、一昼夜が人間界の四百年にあたる。この行法は一日千遍の行道を怠りなく修さなければならぬ。人間界でやれば数百年をかけねばならず、とても無理だ。しかも、生身の観音が本尊としていらっしゃらなければ、この行法はできない。諦めることだ。

 実忠はこう返答した。

ここでは、行法の動作がゆるやかでございます。一日千遍の行法といえども、下界でそれをやるとき、作法を急激にして走って行い、数を満たすことができます。生身の観音は私が必死に祈って勧請してみましょう

 実忠は、帰るとすぐ難波の海岸へ行った。そこで香華を供え、海の彼方、天竺(インド)の観音浄土、補陀落山(ふだらくせん)を念じ、「生身の観音、渡らせ給え」と一心不乱に祈った。海に浮かべた閼伽の器は南へ漂流してはまた戻ってくる。それを100日のあいだ繰り返した頃、閼伽の器に乗って光る金銅仏が漂ってきた。7寸の十一面観音像であった。歓喜した実忠の掌に、人肌の温かさが伝わってきた。まさしく生身の観音である。この観音は奈良へ迎えられ、堂を建てて収められた。それが今の二月堂だという。

 実忠は、天平勝宝4年2月1日から14日間、兜率天で見てきた十一面悔過を修法した。以来、毎年一度も欠かすことがなかった。これは二月堂縁起絵巻などに記されている修二会の始まりの話である。実忠が感得した7寸の十一面観音像は、「小観音」と呼ばれ、いまも修二会の本尊として祀られている。面白いことに、二月堂にはお堂の本尊である「大観音」もある。お水取りの前半7日間は大観音を本尊として行法を行い、後半7日間は大観音の前に小観音の位置を移し替え、これを本尊として行っている。

また、作法を急激にして走って行うと実忠が言ったとおり、修二会では練行衆が須弥壇の回りを走る「走りの行法」が行われている。

 さて、笠置寺である。

ここは木津川の絶壁を形成する急峻な山で古くから山岳宗教の霊地であった。

今日でも修験道の行場に特有の「胎内くぐり」「覗き岩」「蟻の戸渡り」などの奇岩霊石が見られる。実忠の竜穴らしきものも伝わっている。

 実忠には、山の行者としての横顔も感じられるのである。思い出してみよう、二月堂の境内には「良弁杉」がそびえ、若狭井がある。それを取り巻いて、遠敷明神祠、飯道明神祠、興成社がある。この三社は、実忠が勧請した神で、いまでも練行衆はお水取りの成功を祈願してこの三社に詣でている。つまり、実忠と関わりの深い神ということになる。

  遠敷明神とお水取りの不思議な因縁、お水送りをする若狭の小浜と奈良文化の不思議な交流については既に記した。また、実忠の師、良弁には小浜の根来出身という説があることも記した。なお、良弁は近江または相模の出身とも伝えられており、幼い頃鷲にさらわれたが、ある日、杉の木の枝に引っかかっているのを発見された。それが東大寺の「良弁杉」である。相模で鷲にさらわれても大和に着地するのが偉人というものである。後にその地に東大寺を開くのだからよくよくの因縁というものである。

飯道神社飯道神社

 もうひとつの飯道明神は、近江の飯道山の神である。

注目すべきは、飯道山も笠置山と同様に修験道の霊場で、蟻の戸渡り、胎内くぐりなどの奇岩霊石があることである。飯道山(はんどうさん)の麓には信楽がある。聖武天皇の謎の都、紫香楽宮(しがらきのみや)が営まれたところである。藤原広嗣の叛乱以後、聖武天皇はおびえたように平城京を離れ、難波、信楽、恭仁などを転々とした。紫香楽宮では大仏を着工したが未完成のまま都が平城京に戻ったといわれている。

 従来、紫香楽宮は単なる離宮で、そんな大掛かりな造営はなかっただろうという見方があった。が、最近の発掘で朱雀大路が確認され、大仏鋳造の工房らしきものも見つかった。聖武天皇は本気で紫香楽宮を営み、大仏を建てようとしたようである。その動機は謎に包まれている。が、信楽は、飯道山、金勝山、阿星山といった山岳信仰の山に囲まれている。しかも金勝山、阿星山は良弁が開いたと伝承されている。

聖武天皇は、良弁や藤原仲麻呂の導きで、この山ふところに抱かれた信楽に心の平安の地を求めたのではなかろうか。

 飯道山、金勝山、阿星山などの山並みは、現在、湖南アルプスと呼ばれているが、良弁僧正が開いたと伝承される常楽寺・長寿寺・金勝寺・金胎寺などの寺院が分布し、山岳宗教の跡をとどめている。

 笠置山は、湖南アルプスの南端に接しており、良弁文化圏との関わりが暗示される。

近くには実忠の開いた観菩提寺もあるのである。観菩提寺は十一面観音を本尊とし、東大寺修二会に先立って「修正会」が営まれ、そこでは達陀も行われるという。あまりの二月堂とのゆかりのため、「正月堂」の名で知られている。

 良弁・実忠が開いたと伝承する寺院は特異な分布を見せている

次回は、実忠とその師、良弁について、単なる学問僧ではない不思議な顔をもう少しみてみよう。                             (続く)

良弁僧正良弁

(写真はwikipedeaから引用。ただし笠置寺洞窟は笠置町ホームページから引用。)