執金剛神

金鷲行者の念持仏だったかもしれない

法華堂の執金剛神

 

 平城京に都がおかれてまもなくの頃である。

そのころ東大寺はまだなく、あたりは春日山に連なる原始林であった。

そこには、山林に寝起きして不可思議な呪術を行う行者が色々居て、「指を焚き、膂を剥ぐ」ような激烈な修行をするものも居た。その回りには民衆が集ったので、民衆の集会を本能的に嫌う朝廷はたびたび禁令を発していた。

奈良時代に著された「日本霊異記」によると、金鷲行者(こんすぎょうじゃ)という者が山房を営み、執金剛神の像を祀っていた。金鷲行者は執金剛神のふくらはぎに縄を掛けて行を行うと、像が光を放った。その光はいつしか宮殿に達し、天皇の知るところとなった。こうして金鷲行者は寺を開くことを許されたが、それが現在の東大寺法華堂であると記している。

驚くなかれ、法華堂には執金剛神像が現存するが、まぎれもなく天平彫刻の国宝である。

金鷲行者の開いた寺は、当初 金鐘山寺(こんしゅさんじ)と呼ばれた。聖武天皇は基王という愛児を幼くして亡くし深い傷を負ったようである。供養のために金鐘山寺を崇拝し、拡張した。寺は金光明寺と改称され、さらに東大寺となっていった。

この金鷲行者こそ、東大寺の開山、良弁僧正であるというのは定説になっている。あの、鷲にさらわれて東大寺の杉の枝に引っかかっていたという伝説の人である。

  さて、聖武天皇は紫香楽宮に謎の遷都をしたが、そこで大仏建立の詔を発し金鐘寺(こんしゅじ・こんしょうじ)を造り始めた。この寺の名前に、私は良弁の影を見るのである。

信楽の北には金勝山(こんしょうざん・こんぜさん)、阿星山(あせいざん・あぼしやま)、田上山(たなかみやま)という山岳信仰の山がある。しかも、そこにある寺々(長寿寺、常楽寺、金勝寺、金胎寺)は良弁僧正が開いたとされている。私は、聖武天皇は良弁僧正の導きでこの信楽の地に心の平安郷を営もうとしたと確信している。

注目すべきは、良弁にまつわる「金鷲(こんす)」「金鐘(こんしゅ・こんしょう)」「金勝(こんしょう)」という発音の近似である。これは一体なにを暗示するのか。

 「続日本紀」698年の条には「近江国金青を献ぜしむ。伊予国には朱沙」という簡潔な記事がある。

金青(こんしょう)の実体は定かではないが、顔料に使われる藍銅鉱(アズライト)ではないかともいう。少なくとも、珍しい鉱物であっただろう。私は、良弁の呪術のなかには金青を念じ、鉱物の出現を祈念するものがあったのだろうと考えている。

 さきほど紹介した金勝山、阿星山、田上山のあたりは今日「湖南アルプス」と呼ばれる。ここは良弁文化圏であるが、奇妙なことに、日本で三本の指に入るペグマタイト鉱床であり、「田上鉱物博物館」がある。つまり、水晶・トパーズの産地なのである。

アズライト藍銅鉱(アズライト)

 

また、湖南アルプスの西端には石山寺があるが、ここも良弁が開いた寺である。「石山寺縁起」が記すところによると、東大寺大仏造営に際し、黄金が不足した。良弁は黄金を求めて吉野山で祈祷をしたが、蔵王権現は「この地では黄金を得られないから近江国志賀郡へゆくように」と指示した。そこでこの地に来り、観音菩薩を念じていたところ、陸奥の国で黄金産出の朗報があったという。

大仏造営にあたって良弁が黄金などの鉱物探査・祈願をおこなっていた様子が浮かび上がってくる。

 若狭の小浜に遠敷(おにゅう)川があってお水送りすることは既に触れた。「にゅう」の発音を含む地名は「丹生」など各地に分布するが、かつて松田寿男氏は「丹生の研究」で、丹生の地名があるところには水銀鉱床があることを論証した。水銀は大仏に金メッキをするときに必要な触媒である。

しかも、「石山寺縁起」に登場した吉野山は、古来「金御岳(かねのみたけ)」と呼ばれ、黄金を蔵する山と信じられてきたことは有名である。吉野山の神はその名を金山彦という鉱物神であるが、またの名を金精明神(こんしょうみょうじん)といい、またしても「こんしょう」の発音に行き着いたのである。これはいかなる暗合であろうか。

 謎は深まるばかりだが、鉱業のほか、次は林業とのかかわりも見てみよう。  (続く)

辰砂辰砂:丹生

(写真はすべてwikipedeaから引用)