観音寺十一面観音

 

 大仏殿をはじめとする大伽藍を建築するためには大量の木材が必要である。

東大寺造営のとき、伊賀の玉滝杣、近江の高島杣、田上杣に山作所(さんさくしょ)が営まれ、伐採が行われた。田上杣はまさに湖南アルプスである。また、石山には木材集散や経理を扱う役所、石山院が置かれたが、良弁の開いた石山寺と同じ場所とされている。

木材は石山から木津川を筏で運び、奈良へ向かった。その途中の三山木(みやまぎ)には実忠ゆかりの観音寺(普賢寺大御堂)がある。

 伊賀の玉滝からも、木津川を下って奈良へ木材を運んだ。その途中点に観菩提寺笠置寺がある。観菩提寺が実忠の開基であり、修正会で有名である点はすでに紹介した。

また、笠置寺が実忠修行の地と伝承され、修二会の創始と深いかかわりがあることも既に見てきた。

 どうやら良弁・実忠らは、伐採地と輸送上の要所に寺を開いているのではないだろうか。実忠が林業に通じていたことを物語る史料がある。

 「東大寺権別当実忠二十九箇条事」(とうだいじごんべっとうじっちゅう にじゅうきゅうかじょうのこと)という史料である。これは老境に達した実忠が、自らの業績をまとめたものである。

これを見ると、実忠が東大寺の土木・建築に欠かせない存在であったことがうかがえる。

たとえば、大仏建立のとき大きな光背の造立が難航し、大仏師国中公麻呂も辞退したため、実忠が乗り出し、九年の歳月で完成させたという。

また、この光背を収めるには大仏殿の天井は低すぎ、一方、光背を短くすればバランスを欠いて醜悪になるとみられた。とはいえ、大工たちは今から天井を切り上げるのは無理だといって譲らない。

朝廷の要人が集まって相談し、このことは実忠をおいて解決できる者はいないだろうということになった。

そこで実忠は大工たちを指揮してついに天井の切り上げ工事に成功したという。

さらに、大仏殿に「副柱」の造立が必要になり、親王禅師や良弁僧正の依頼を受けた実忠は、自ら諸匠夫を率いて近江国信楽の杣に入り、用材を調達して8ヶ月で完成させたという。

こうしたことから、実忠は林業・建築に通じ、工人を指揮できる統率力をもった実務僧であったことがわかる。

東大寺大仏殿

 また、「塔一基を造立し奉る。新薬師寺の西の野にあり。」とも記されているが、この塔が現存する「頭塔(ずとう)」であることはほぼ異論がない。

これは石仏が据えられた大きな土盛りであると、ながらくの間、思われていたが、近年の発掘で、7段もの石垣を積み上げた層塔であることが確かめられた。ボロブドール遺跡のようなエキゾチックな石造物で、堺の大野寺に土塔と呼ばれる例がある以外、国内には類例がほとんどない。藤原広嗣の怨霊に取殺された玄昉の頭部が落ちた場所だとも言われ、少々薄気味が悪い。

 

 鉱業・林業を通じて湖南アルプスや伊賀の山林に出入りし、十一面観音を悔過する実忠

水銀鉱床を守護するのかもしれない遠敷明神を修二会に参加させる実忠

また、チベット仏教のような五体当地を行い、ゾロアスター教かタタール人に由来するともいう達陀の行をおこなう実忠

あるいはボロブドールのような頭塔を築いた実忠。その真の姿は謎につつまれており、生没年もはっきりしない。ただ、出自について「東大寺縁起」は記す。

天竺ノ人ナリ」と。

 

                                 (続く)

頭塔頭塔

(写真はwikipedeaから引用。ただし観音寺は京田辺市観光サイトから引用。)