「この骨を研究しますと、第一にこれらの犬は、その土地土地の狼、即ち日本狼とか朝鮮のヌクテーとか野獸を馴らして犬にしたものでなく、又それ等と交配して作つたものでもなく、當時の住民が他の土地から移住し來つた時に、既に家畜となつて居つた犬を伴つて來たものであると云ふこと、第二には朝鮮は勿論、本州に於ても、當時既に幾つかの犬の系統があり、その大きさに於ては、極く小型のものから中型の中、或は中型の小の大きさ、肩の高さで申しますと、凡そ一尺二寸位から一尺六七寸くらいまでの範囲の犬であつたと云ふことがあります」
斎藤弘日本犬保存会理事『ラヂオ犬談の夕べ(昭和12年)』より

古代の犬については、出土した犬骨や埴輪からその姿を推測するしかありません。当然ながら考古学の分野なのですが、その調査研究には在野の愛犬家たちも貢献していました。
たとえば東京国立博物館所蔵の犬埴輪は、もともと個人蔵だったものが日本犬保存会員の助言で渡瀬庄三郎博士へ存在が伝えられ、宮内省帝室博物館へ収蔵された経緯があります(昭和3年の日本犬保存会誌草稿より)

【日本犬界史を辿る前に】

日本は島国ゆえに、在来の「和犬」、中国渡来の「唐犬」、ヨーロッパ経由の「南蛮犬」、そして南樺太、台湾、朝鮮半島にいた「外地の犬」が明確に区分されてきました。
混乱を避け、それぞれの「日本犬界史」に整理できるのは幸いなことです。犬の日本史においては、まず在来の和犬から話を始めるべきでしょう。
しかしその姿は、現在の日本犬とは違っていました。
そもそも現代人が知る「立耳で巻尾、茶や黒や白一枚の体毛をもつ日本犬の姿」とは、昭和に入って定着した新しい概念。古代、中近世、近代における日本犬は「多様な体型や体毛をもつ地犬群」だったのです。

帝國ノ犬達-龍野何某
江戸時代の京都にて、母猫が育児放棄した仔猫の世話を愛犬に託す龍野医師。当時の和犬が斑模様で描かれています(嘉永7年・暁鐘成画)。

ベースとなる縄文犬に朝鮮半島や中国からの渡来犬が何千年もかけて混じり合い、各地で独自の系統を形成し、ハイブリッド型となったのが現生の日本犬です。
幕末の開国によって流入した洋犬と交雑化し、行政の狂犬病対策で駆除された在来の地犬たちは、近代化の荒波によって絶滅の淵にまで追いやられました。
それを復活させる繁殖活動の過程で「地犬の多様性」は排除され、昭和3年以降は日本犬の標準化が進められます。

復活のための緊急措置として導入されたスタンダードは、いつの間にか黄門様の印籠と化してしまいました。
和犬本来の斑模様の個体は「標準化にそぐわない」「雑種と間違われて商品価値がない」と淘汰されて消滅。「日本犬標準に合わない犬は日本犬に非ず」という本末転倒の果てに、現代人の知る「単色・立耳・巻尾の日本犬」だけが残されました。
多様性の排除は、偏狭かつ幼稚な和犬論を生み出してしまいます。
時間の流れを理解できないのか「現代の日本犬こそが本来の姿で、江戸時代の斑模様の和犬は南蛮犬との雑種」などという、本末転倒の暴論まで登場する始末。

そんな日本犬のルーツを辿るには、北海道から沖縄までの地域性を時系列にそって考えることが必要です。
まずはスタート時点、縄文時代の犬から解説しましょう。

【縄文時代の犬】

日本列島の文明や文化は、一万年にも亘って海外からの影響を受け続けてきました。
日本犬界もおなじこと。
最初に定着した縄文犬、朝鮮半島経由で渡来した弥生犬、樺太経由で渡来した北方犬、古墳時代から渡来していた中国の唐犬、ヨーロッパの南蛮犬など、さまざまな影響を受けてきたのです。
ゆえに、日本犬のルーツを辿るうえで、「弥生時代より大陸犬との交雑を経たハイブリッド型現生日本犬」と「それらのプロトタイプである、最初に日本列島へ渡来した縄文犬」は、別個に論じた方がよいでしょう。
もちろん日本列島が形成される前から棲息していた古代オオカミと、日本列島が大陸から切り離された後に渡来したイヌも混同しない方が賢明です。

現在確認されている日本最古の犬は、7400~7000年前にかけた縄文早期のもの。それら最古の犬骨は、上黒岩岩陰遺跡(愛媛県)、東名遺跡(佐賀県)、夏島貝塚(神奈川県)から出土しています。
この「縄文犬」は、東日本を中心に定着。出土した骨格を総合して「体高45センチ程で額のストップ(段差)が浅く尾の立った犬」と推測されています。
もちろんニホンオオカミから進化したのではなく、縄文犬はイエイヌとして登場しました。
おそらく中国大陸のどこかに現れた縄文犬の祖先は、最終氷期が終って日本列島が形成された後、縄文人と共に海を渡ってきたのでしょう。

帝國ノ犬達-縄文犬
縄文犬の復元模型(国立科学博物館展示)。額の段差が少なく、立尾の小型犬でした。

縄文犬のルーツについては諸説紛々百家争鳴状態。「大陸から渡来した古代犬」「南方からの渡来犬」「北方からの渡来犬」「ニホンオオカミ家畜化説」までが混在しております(DNA解析からニホンオオカミとイヌの交雑はあったと思われます)。
続いて登場した説が、「日本犬の祖先はオーストラリアのディンゴである」というもの。
動物学者の石川千代松は、幼少のころ目撃した江戸末期の和犬と、オーストラリア訪問時に目撃したディンゴを重ねて、下記のように記しています。

「此處にヂンゴーと云ふ犬が居る。此の犬の大きさは元來の日本犬位で、全身は到つて丈夫に出來て居り、其の色は狐色で、頭は少し長く、額は平たく、耳は尖り、尾はふさ〃として居つて、其の端には白毛が少しある。
私が先年豪洲へ行つて、初めて此の犬を見た時には、御維新の前後に、東京の市中で多く見た日本犬を見たやうな氣持ちがした。此のヂンゴーは、其の位日本犬に似て居る」
理學博士・石川千代松『犬の話・諸君と仲好しの動物(明治42年)』より

発掘データやDNA解析で南方渡来説やディンゴ祖先説も否定された現在、一番有力なのが大陸ルーツ説でしょう。
軽視されてきた中国での古代犬研究が改められた結果、新石器時代(仰韶文化)の中国大陸には縄文犬と似た犬が存在していたことも判明しています。
 
縄文犬はほぼ一つの系統だったらしく、福島県や宮城県から出土した中型犬タイプを除いて大部分が柴犬サイズです。
しかし、その姿は現生の柴犬とは全く違っていました。日本犬保存会の斎藤弘理事は「縄文犬はワイヤーヘアードテリアみたいな(ストップの浅い)顔の犬」と表現しております。
縄文中~後期は頭数が増加した一方で小型化が進み、体高40センチ程で巻尾の犬が多くなります。頭数については人口の増加(要するに縄文犬の飼い主が増えました)、小型化は島嶼化や気候や食生活など環境の影響によるものと思われます。
歯周病にかかった縄文犬の骨が多いのも、単一犬種や食生活といった事情が影響していたのかもしれません。

ドングリや栗、山菜や豆、雑穀類などを中心に、海産物や狩猟で動物性タンパク源を確保するという食生活をしていた縄文時代。獲物を追い、外敵の接近を報せる犬は、縄文人の暮らしにも大いに貢献していた筈です。
「役に立つ動物=家畜」としての認識は縄文社会に広まり、人と犬との共同生活が定着しました。
既に雑穀や豆などの農耕は始まっていましたが、猟犬は大切に扱われていたのでしょう。獲物であった野獣やオオカミの骨が散乱状態で出土するのに対し、家畜である犬の骨は丁寧に埋葬されるケースが見られました。
人と犬が一緒に埋葬された前浜貝塚、人の墓域内に犬が合葬された田柄貝塚、竪穴住居内に三頭が合葬された高根木戸貝塚、家屋の近くに眠るような姿で屈葬された保美貝塚の事例からは、縄文人と犬との関係が窺い知れます。
「猟師と猟犬の関係」だけではなく、青森県の二ツ森貝塚からは女性と共に葬られた犬骨が出土しました。
モチロン、縄文人の愛犬精神については想像の域を出ません。しかし、牙を失ったり骨折の治癒跡がある老犬の骨まで出土していることから、獲物との格闘で重傷を負った「役立たずの猟犬」も殺処分されなかったことは確かです。

大切に飼育された一方で、犬の資源化も始まっていました。その牙や毛皮は装飾品や衣類として利用されていたのです。
解体された犬骨も出土しているので、すでに犬肉食の習慣もあったのでしょう。

「それで當時どう云ふ方面に用ひられたかと申しますと、その時代の住民は殆んど狩獵が背活の最も重要な方法の一つであり、貝塚から犬の骨と共におびたゞしい鹿や猪や其の他の野獸の骨の同時に出土しますことより考へまして、やはり犬も主として狩獵に用ひられたものと考へられるのであります。
勿論、叮嚀に埋葬されるものと、四肢骨等が折れてばら〃に發掘され、食用に供されたと思はれるものもありますが、之は、當時の幼稚な狩獵方法のため、數日間獲物のない時なぞ、已むを得ず手近の犬がその犠牲になつたものと解釈す可きで、之は歐洲の石器時代も我國も同様の現象であります(斎藤弘)」

【弥生時代の犬】

縄文晩期、九州北部へ稲作が伝わります。耕作地の確保と富の蓄積によって無数のクニが生れ、弥生時代が始まりました。
稲作と共に、日本列島へ「弥生犬」も渡来。同時代の犬骨としては、小型犬を中心に様々なタイプが出土しています。
つまり、「弥生犬」とは単一の犬種ではなく、多様な渡来犬の総称ということですね。

食生活の変化も、犬との関係に変化をもたらしました。
縄文後期に始まった稲作は、弥生時代になると急速に拡大していきます。コメという栄養価が高く収穫量が多く保存も利く便利な食料を確保できた上に、ニワトリやブタといった食用獣も持ち込まれます。
こうして、弥生人は猟犬に頼る必要がなくなりました。
縄文時代には狩猟の友だった犬も、遂には食肉扱いへと格下げ。弥生中期以降の犬骨は、毛皮や肉を解体した跡が刻まれ、投棄された散乱状態で出土します。
もっとも、縄文的な狩猟採集文化が残された地域もあったらしく、猟犬として大切に扱われた弥生犬も存在しました。
亀井遺跡では折れた牙の治癒跡がある弥生犬の骨も発見されていますし、食用犬と猟犬は区別されていたのかもしれません。
「弥生時代の国際化」に伴って縄文犬は姿を消していきました。縄文犬からトップを奪った現生日本犬も、2000年後の「明治時代の国際化」で洋犬に駆逐されてしまうのですが。

帝國ノ犬達-弥生犬
弥生犬の復元模型(国立科学博物館展示)

縄文犬と弥生犬は交雑しつつ、全国各地で独自の系統を形成。日本犬のルーツを巡る議論が混乱しているのは、この「弥生時代に始まる日本犬界の国際化」が原因です。
朝鮮半島から渡来した弥生犬は西日本から勢力を拡大。縄文犬と交雑しつつ東日本へ到達した弥生犬は、さらに蝦夷から南下したオホーツク文化圏の北方犬も呑み込みながら日本列島全域へ勢力を拡げました。
長い年月に亘って縄文犬、弥生犬、大陸犬、北方犬などが交雑し続けた結果、現生の「ハイブリッド型日本犬」が誕生したのです。複雑であるがゆえに、そのルーツを辿るのも難しくなってしまいました。

現代の日本犬ルーツ論では、北海道の真上にある樺太(サハリン)の存在を忘れて、朝鮮半島ルートばかり論じられる謎現象も発生。縄文犬は津軽海峡を渡れたのに、カラフト犬の先祖は宗谷海峡を渡れなかった理由でもあるのでしょうか?
戦後に根付いた島国的視野狭窄も、混乱の一因なのでしょう。

【続縄文時代とオホーツク文化時代の犬】

弥生犬の勢力拡大について、現代ではDNA解析を基に二つの仮説が主流となっています。
ひとつが岐阜大学の田名部雄一氏の説で、「縄文犬は南方から渡来し、後に朝鮮半島から渡来した弥生犬と交雑。弥生犬が侵入しなかった琉球や蝦夷では縄文犬の形質が残存した(1996年)」というもの。
広く流布した田名部説に対し、帯広畜産大学の石黒直隆氏は「弥生時代は縄文犬と交雑しつつ九州から東日本へ勢力を拡大した弥生犬と北海道から関東まで南下した北方犬が混在し、北海道の縄文犬も弥生犬と交雑していた(2003年)」というDNA解析結果を発表しています。
また、内山幸子氏によるサハリンと北海道の犬骨発掘データ比較など、「オホーツク犬界と北海道犬界の交流」を視野に入れた調査も大変興味深いものがありますね。

ここで注目されるのが、和犬とは異質の存在とされる北海道犬。この犬が「弥生犬との交雑を避けられた縄文犬の末裔」だと証明できれば、日本犬のルーツ解明における重要な存在となります。
縄文時代の青森県には巨大な集落が長期間に亘って維持されていました。その食料供給のため、多数の猟犬が飼育されていた筈です(周辺地域のシカやイノシシは狩り尽くされ、食肉の中心はウサギなどの小型獣が中心となっていました)。
しかし、それら「本州最北端の縄文犬」が津軽海峡を渡って北海道へ拡散したルートは解明されていません。
そもそも、北海道地域で出土する縄文犬の骨はあまりにも少ないのです。

アイヌ民族の猟犬を巡っては、戦前から激しい論争が繰り広げられてきました。
「古代から蝦夷に定着していた縄文犬の末裔である」
「極東沿岸部から蝦夷地へ渡った大陸犬がルーツである」
「鎌倉時代に本州から渡ってきた和犬である」など、諸説紛々状態。
そして決定打とされた田名部説に欠けている視点が、樺太や千島列島にいたオホーツク文化圏の犬たち。
おそらくはカラフト犬のルーツである「北方犬」が、隣接する北海道地域へもたらした影響です。

北海道で犬の骨が出土しはじめるのは、縄文末期以降のこと。
稲作が伝わらなかった北海道の場合、「弥生時代」ではなく「続縄文時代」「オホーツク文化時代」「擦文文化時代」「アイヌ文化時代」へ移行しました。最初に登場したのは小型のタイプだったようで、弥生犬と同じく食用として殺処分されていました。
ヒグマやエゾ鹿を狩るのに猟犬は必要だった筈ですが、青森県の縄文人のような「猟犬を埋葬する文化」はほぼ存在しなかったと思われます。

続くオホーツク文化時代(3世紀~13世紀頃)にかけて、新たな勢力が北海道へ現れました。
それが、樺太方面から南下した犬たち。幅の広い吻部と強靭な下顎骨をもつ大型犬であり、縄文犬や弥生犬とは全く異質の「北方犬」でした。
北海道や樺太各地で出土した犬骨には、肉や毛皮を切り離した解体跡が刻まれています。その多くが若犬のうちに殺処分されており、寿命を全うした成犬や老犬の骨はあまり見つかりません。
つまり、食用犬だったワケですね。
北海道で勢力を拡大した北方犬ですが、なぜか定着することはできず、遂には姿を消してしまいました。
本州へ南下した北方犬も、西日本から北上した弥生犬に駆逐されて消滅。樺太地域の犬が日本列島へ再渡来するのは、明治38年の南樺太占領以降となります。

「日本列島」ではなく、「北の樺太と南の本州と西の極東沿岸部に隣接する北海道」という地理で考えてみましょう。
たとえ北海道に少数の縄文犬がいたとしても、体格や頭数で圧倒する北方犬や弥生犬に太刀打ちできた筈がありません。
それでは、北方犬を駆逐したのは西日本から勢力を広げた弥生犬でしょうか?
それとも、極東沿岸部から北海道へ渡来した大陸犬でしょうか?
彼らが北海道犬のルーツなのでしょうか?

考え始めると、次々と疑問がわいてきます。
「そもそも北海道犬は縄文犬の生き残りなのか?」
「北海道犬が縄文犬の生き残りならば、何で柴犬サイズではなく中型犬なの?」
「続縄文時代から現代に至るまで、カラフト犬と北海道犬が交雑を避けられたのは何故?もっと新しい時代に本州から渡来した和犬なのでは?」
これらが解明されない限り、軽々に結論を下すべきではありません。

南に目を向けますと、琉球諸島の人々も犬と暮らしています。旧石器時代の状況は不明ですが、沖縄貝塚時代あたりに九州方面から南下した縄文犬が「琉球犬」のルーツかもしれません(九州沖縄地域の交流としては、佐賀県産の黒曜石が沖縄の遺跡から出土しています)。
更なる謎として、琉球犬からは北方犬のDNAも検出されています。
台湾方面につきましては、台湾土着犬の研究が疎かにされてきたので琉球犬との関係までは不明。

斯様に、日本犬のルーツを探る研究は現在も道半ばです。解析技術の進歩や新たな発掘データによって古代犬の解明も進んでゆく筈。楽しみですねえ。

【古墳時代の犬】

稲作による耕作地の独占が小さなクニを生み、互いに激しい武力衝突を繰り返しつつ「倭国」が形成されていった弥生時代。
以降も人と犬の共同生活は続きます。ヤマト王権樹立により古墳時代へ移行すると、日本の犬は「官の犬」と「民の犬」へ分化しました。

帝國ノ犬達-埴輪
国立博物館所蔵のイヌ埴輪。群馬県で出土した6世紀ごろのもので、首輪に鈴を付けています。

この時代になると縄文犬は姿を消し、発掘された犬骨も弥生犬タイプが占めるようになります。
さらに大陸からの移住者とともに新たな渡来犬も登場。体格や体色もさまざまな、ハイブリッド型の日本犬の先祖が形成されていきました。
同時に支配層と犬との関係も強化されます。古墳からはイヌ埴輪がシカやイノシシ埴輪とセットで出土する例もあり、これは権力者の猟犬や番犬を象ったものかもしれません。
西暦300年頃の仁徳天皇の時代には鷹甘部(たかかいべ)が制定され、狩猟用の鷹や犬の飼育が始まります。538年に安閑天皇が屯倉(みやけ)を設置すると共に犬養部(いぬかひべ)も置かれました。
屯倉は天皇の猟場であると共に穀倉でもあり、犬養部の犬は屯倉の猟犬や番犬として用いられたのでしょう。

「朝廷には獵のために鷹飼部が置かれたのは今を去る約一千六百年前の仁徳天皇朝であり、犬飼部が置かれたのは宣化天皇朝の約一千四百年前になりますが、何分當時の犬に對する記録が極々僅少であり、御鷹の家柄として現在にまで傳はつて居る西園寺公、持明院子爵両家にも犬書の傳來が殆んどありませんために、他書により僅かにその飼育法、治療法の一端を知るのみでありますが、當時天皇の御獵のための禁獵區、即ち交野の設置、その番のための野守りの役があつたことや、勅命によつて狩りの使が差遣せられ、鷹をすへ犬を従へて諸國を巡視させられた等の記録等より見て、犬の飼育訓練の方法等相當進んでゐたものと考へられます(斎藤弘)」

【飛鳥・奈良・平安時代の犬たち】

これら「公的機関の犬」が出現した事により「御犬飼」という犬の専門家も生れ、鷹甘部や犬養部では当時最先端の飼育訓練技術が研究されていきました。長屋王の屋敷では「仔を産んだ母犬に米の餌を与える」との木簡が発掘されています(海外の飼育訓練法も導入されており、百済から渡来した袖光という人物なども犬飼に関わっていました)。
近代以降の「公的機関の犬」といえば警察犬や軍用犬ですが、この時代は猟犬や番犬だったんですね。
675年には犬肉食を一定期間禁じる通達も出されていますし、様々な理由によって犬は保護されるべき対象となっていったのでしょう。

一方で、日本人は犬を食べ続けました。特定地域の食習慣などではなく、全国規模で食べ続けました(犬を大切にしていたアイヌ民族でも、老いた犬は食用や毛皮にしています)。
食用犬の骨が、その地域にいた犬の種類を推測するカギとなることもあります。
奈良時代、蝦夷方面への軍事拠点として設置された多賀城跡(宮城県)からは、食用犬の骨が大量に出土しました。北方系から大陸系まで、その犬種はさまざま。
奈良~平安時代にかけても、犬の移動と交雑化が繰り返されていたワケですね。

帝國ノ犬達-元明天皇
元明天皇(飛鳥~奈良時代)陵に八基据えられた狗人(火酢芹尊の子孫)の石彫図。
「隼人の狗吠」の儀式を執り行った人々を現したものです。日本書紀に登場するこの儀式は、我が国で最も古い「犬の鳴き声の記録」でした。
当時はどのように表記されたのか不明ですが、平安時代の犬の鳴き声は「ひよ」、室町時代は「びよ」、江戸時代に「わん」、大正時代に「のをあある とをあある やわあ」へと変化したそうです(嘘)。

古墳時代から飛鳥時代へ移行する中で、犬の記録も次第に増加。興味深いのは、忠犬・義犬談のような犬物語が早期から現れることです。日本人と犬との関係は、社会の発展と共に強まったのでしょう。
日本で初めて「名前のある犬」が登場するのは奈良時代に書かれた日本書紀。
その犬の名は足往(アユキ)といいます。

足往は丹波國の桑田村に住んでいた甕襲(ミカソ)という人物の愛犬でした。記されているのは「この犬が牟士那(ムジナ:アナグマのこと)を噛み殺したところ、ムジナの腹から八尺瓊(やさかに)の勾玉が出てきた」というお話。

帝國ノ犬達-足往
足往とムジナの闘い。『犬の草紙(嘉永7年)』より

この時代から、日本人は犬の忠誠心を物語化し始めます。
応神天皇をイノシシから護った猟犬「麻奈志漏(まなしろ)」や、587年に物部氏の武将であった捕鳥部萬(ととりべのよろず)が蘇我氏に敗れ自刃した際、最期まで主の首を守り抜いた白犬の話などが初期のものでしょう。
主人に尽くす「義犬」は称賛され続け、約1400年後の忠犬ハチ公ブームへ繋がるのです。

帝國ノ犬達-捕鳥部萬
『有真香村に義犬、主の首を埋む(嘉永5年:左半分のみ掲載)』より、捕鳥部萬の愛犬。「犬の墓ハ萬の墓の北にあり」と伝えられる通り、萬と白犬は並んで葬られました。

やがて平安時代になると、犬の話も増えてきました。
有名なのが、『枕草子』に登場する翁丸。当時の宮中でも犬を飼っていた事、犬よりも猫の「命婦のおとど」が官位を授かるなど珍重されていた様子を窺い知ることができます。
可哀想な翁丸は、命婦のおとどを脅かしたことを帝に咎められ、宮中から追出されてしまうのでした。揚句、戻ってきたところをボコボコに殴られるという……。

帝國ノ犬達-犬の草紙
「上東門院一條院の女御とならせ給ふの時、御帳の中に小さき犬子の一疋あるを、官女たちの見つけたり。何地よりか入りたりけん、斯る所がらには甚あやしく、将おそろしき事なり(『狗兒御帳の内に遊ぶ』より)」
朱雀天皇が誕生する直前、御所に迷い込んだ仔犬。瑞兆として女官たちのマスコットとなります。

同じく平安時代には、宗教的な犬物語も現れます。弘法大師を高野山へ導いたという、狩場明神の黒白の犬もそうですね。
信仰と犬の結びつきは、時代を経て安産や育児のお守りである犬筥や犬張り子、怪異から人間を護る義犬談、殺生への戒めとしての動物愛護、差別へつながった犬神信仰、事故死した猟犬を狩猟神「コウザキ様」として祀る九州南部の山岳信仰などへ発展していきました。

平安時代末期の1160年には武家階級が政権を握り、時代は中世へ移行。それに伴い、日本人と犬の関係も更に変化していきます。

(第二部へ続く)