里見弴「いろおとこ」の山本五十六 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
みずすまし亭通信-里見弴
里見弴:椿(石井鶴三挿絵)いろおとこ(田村孝之介)

丸谷才一「ある花柳小説(日本文学早わかり所載)」は里見弴(とん)の小品「いろおとこ」に言及している。小太りの60男が旦那持ちの芸者を連れて温泉に遊びにきている。閨房はお盛んなようすだが、昼間はぼんやり外を眺めてばかりいて、芸者に「しらばが持てないのね」などと言われる始末。「しらば」とは、宴会では芸達者だが二人きりになると場が持てないことをいうらしい。芸者はそれでも好いたらしく思うのだが、数日逗留した後は別々に別れてそれきりになった。

この場持ちのしない60男の名前は伏せられているが、読み終わると山本五十六だと知れる。昭和22年、進駐軍による占領下に発表されたため、あえて名前をださずに書かれたが、やはり進駐軍を慮って批評子が沈黙したために忘れられてしまった佳品です。「椿」は30過ぎた独身の叔母と若い姪がひとつ部屋で寝ていると、床の間に飾られた赤い椿がパサッと音をたてて散った。驚く姪と、その驚きように笑い出す叔母を映したワンシーンだが味わい深い。小津映画のワンシーンを観るごとく。

中央公論社版「日本の文学・里見弴集」附録に、確かに小津の映画「秋日和」「彼岸花」原作を手がけたが「僕の方が上等だよ」。大正期の文士は金の貸し借りをしたりいいかげんなものだったが、昭和の始めころから人間が実直になってきて、月給取り文士に変わっていく。芥川龍之介が自殺する少し前に北海道にいっしょに講演にいったが、いたずら好きでね。僕が連れて行った女のことをバラしたり、おどけたりで自殺する気配はなかった。などとある。恥ずかしながら里見弴を読んだのは初めて。ほんとに上手い。