23歳の若さで藤原義清が出家して西行となった原因のひとつとされる、鳥羽天皇の中宮、待賢門院へのかなわぬ恋。絶世の美女と伝わる待賢門院が隠棲して暮らした法金剛院は、春は桜、夏は蓮華、秋は紅葉が美しい花の寺として知られます。

 

JR嵯峨野線(山陰線)の花園駅から近く、仁和寺や妙心寺も指呼の間にあり、春秋には格好のプロムナードです。コロナ禍で門が閉じられていましたが、蓮の花の時期とあって特別に8月2日まで境内が公開されています。あいにく本堂は閉鎖のままですが、ここに座している阿弥陀如来さんが今春、重要文化財から国宝に昇格しました。

わたしは、5~6年前の秋に訪れて、池の周囲の紅葉を堪能し、本堂の大きな丈六仏、阿弥陀如来を拝観しました。お顔は彫の浅い、優しい表情をした典型的な「定朝様式」の阿弥陀さんでした。

 

定朝は藤原道長・頼通父子のころに活躍した仏師で、「寄せ木造」の造像法を大成した名仏師として知られています。それまでの一木造りの方法では、大きな像をつくれる巨木がなく、また時間もかかります。このころは、釈迦の力が及ばなくなるという末法思想が流行り、お寺や仏像をたくさん作って善行を積むことによって浄土に行ける、という考え方が貴族の間に出てきます。

 

そこで考案されたのが、流れ作業による寄木造です。大勢の仏師たちが、仏像の頭、胴体、手足などそれぞれのパーツを分担し小さな材料で彫り進め、指揮を執る大仏師がそれを組み立てるという方法です。これによって、巨木がなくなった中でも、激増する需要を賄うことができたのです。

 

そして、この「定朝」風の浅い彫の慈愛に満ちた優しいお顔の像は貴族の間に超人気となり、これをまねた「定朝様式」の仏像がたくさん作られるのですが、肝心の「定朝」作と確定できるのは、なんと宇治平等院鳳凰堂の「阿弥陀如来」、たったひとつだけなのです。

 

この法金剛院の阿弥陀像は鳳凰堂の定朝作より80年ほどのちの1130年ごろの作品ですが、定朝の直系の流れをくむ「院派」の棟梁、院覚の手になるもの。作風はほぼ継承されながらも「仏像としての存在感が抑えられるかわりに、光背や台座に徹底した装飾を施すことで、荘厳具を含んだ全体として当時の王家・貴族たちの希求した唯美的な世界が表出されており、院政期彫刻の代表作の一つと評価される」(文化庁)と、国宝昇格の理由が書かれています。

  醍醐寺閻魔天騎像

 

今は小さな境内に本堂が一つだけですが、待賢門院がこのお寺を創建した当時は、西、東、南と3つの阿弥陀堂があり、当時の記録と突き合わせると、最初に作られた西御堂に安置された作品に比定できるそうです。また、院覚作とされるのも、院覚の作品とはっきり記録が残る醍醐寺の「閻魔天騎像」の顔と酷似しているからと指摘されています。

 

そして、この閻魔像は、待賢門院が鳥羽天皇・上皇の子供を5人産みますが、その都度、安産祈願のための「閻魔天供」が修法され、その法要の本尊とされたものだというのです。待賢門院とのつながりがこれほどあるのですから、「国宝」とされても不思議はありませんね。

 

美貌の待賢門院を深く思慕していたと言う西行は、女院の生前も死後もここをしばしば訪れて歌を詠んでいます。

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なんとなく芹と聞くこそあはれなれ 摘みけん人の心知られて

(「芹摘む人」と言うのは后など高貴な女性にかなわぬ恋をすることを意味する)と歌い、

また、待賢門院が亡くなられたあと、次の歌を残しています。

 

紅葉みて君が袂やしぐるらむ 昔の秋の色をしたひて

                                               (法金剛寺HPより)