北野進の活動日記

志賀原発の廃炉に向けた取り組みや珠洲の情報、ときにはうちの庭の様子も紹介。

もう一度読みたい高木仁三郎さんの著作

2011-08-19 | 脱原発
 来週、金沢のある労組の集会で原発問題について話をさせてもらうことになっている。
 珠洲のこと、志賀のこと、福島のこと、さらに伝えたいことなんでも、ということで1時間20分という時間をもらっている。
 ありがたいことだ。
 お盆の間には、内容を整理しよう。そんな予定を立てていたが、いまだ悪戦苦闘中。

 特に福島についてはたくさんの課題、たくさんの情報が溢れていて、整理が追いつかない。
 そんな中、今日はサンダーバードの車中で、久しぶりに高木仁三郎さんの本を読み返した。
 高木さんは私が原発問題に関心を持つきっかけとなった人で、30年前の学生時代から、高木さんの本が出れば読み、出れば読み、と20冊近くの本が本棚に並んでいる。
 これらは高木さんの著作の一部だが、初期の頃の本はかなりほぼ持っているのではないか。
 今日は電車の中ということもあり持ってきたのは講談社現代新書の「核時代を生きる」。出版は1983年、私が大学を卒業した翌年である。

 日進月歩の科学技術の世界。そして原発問題で言うとチェルノブイリの前である。
 それにも関わらず、書かれている内容がいまでも新鮮で、福島の事故の真っ只中にあっても、本質を突く指摘に改めて驚きの連続である。
 (裏を返すと、高木さん亡き後の運動が、高木さんを超えられていない証左かもしれないが) 

 一昨日の毎日新聞は「この夏に会いたい」ということで高木さんを取り上げている。
 
 残念ながらもう会うことはできないが、秋になっても冬になっても、とにかく一冊でも多く、著作を読み返してみたい。

(以下、2011.8.17 毎日新聞夕刊より)

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特集ワイド:この夏に会いたい/10止 原子力資料情報室代表・高木仁三郎さん

モーツァルトを聴きながら、最後まで原発の危険を訴えた=東京・原子力資料情報室で1994年10月、橋口正撮影 ◆原子力資料情報室代表 高木仁三郎さん(2000年死去、享年62)

 ◇あきらめから希望へ 「市民科学者」に徹して
 古びたテープレコーダーとカセットテープ十数個が2階書斎に残されていた。千葉県鴨川市の田園にある高木さんの自宅。出迎えてくれた妻の久仁子さん(66)は晩年がんの闘病生活を送りながら原稿を書く高木さんの姿を語った。「仁さんはモーツァルトの音楽をかけながら、そのイスに座って、テープレコーダーに原稿を吹き込んでいました」

 東大で核化学を学び、30歳の若さで大学助教授となった「原発エリート」は、熟慮の末、脱原発に転じ、生涯をかけて50冊を超える本を残した。東京電力福島第1原発の事故以来、新聞や雑誌には日々、この人が発していた「警告」が引用される。

 高木さんが亡くなったのは2000年10月。その2カ月後に出版された「原発事故はなぜくりかえすのか」(岩波新書)では、原子力村についてこう書いている。<原子力村というのは、お互いに相手の悪口を言わない仲良しグループで、外部に対する議論には閉鎖的で秘密主義的、しかも独善的、という傾向があります>。安全意識にも苦言を呈する。

 <ことさらに安全、安全と言うことによって安全が身につくのではなくて、技術というものの一部に、人間の生命を大事にするような思想が自然と組み入れられていないといけない>

 読むほどに、原発事故は起こるべくして起きた、と思えてくる。

  ■

 高木さんは7歳の時に終戦を迎えた。「米英は鬼畜の類いだ」と言っていた教師が、玉音放送を境に「これからは民主主義の社会で米軍(駐留軍)は解放軍だ」と手のひらを返す。自伝的な著書「市民科学者として生きる」(岩波新書)では<国家とか学校とか上から下りてくるようなものは信用するな(中略)なるべく、自分で考え、自分の行動に責任をもとう>と思ったと書いている。

 現役で東大に合格。安保闘争中だったがあまり関心を示さず、プルトニウムを含む人工元素の生成に魅せられ、核化学を専攻する。卒業後、原発関連会社に入社。原子炉の水に放射性物質がどのくらい溶け込んでいるかを研究したところ、上司から「(汚染の研究は)会社向きではない」と忠告された。会社での居場所を失い、東大原子核研究所に転職、宇宙からの放射線を研究した。このころ水俣病などの公害が問題になり、高木さんは「放射能汚染に絡む公害問題が出たら、正面から向かい合えるか」と自問するようになる。

 矛盾を抱えたまま69年、東京都立大学助教授に就任。当時は日米安保更新をめぐる学生運動のさなか。高木さんは学生側に共感し、成田空港建設に反対する地元農民の活動「三里塚闘争」にもかかわった。現場では農民が農地を守るため体ひとつで抵抗していた。高木さんは<心情的には農民の側にいるが、実際には明らかに自分は巨大システムの側にポストを占めているのではないか>(「市民科学者として生きる」)と再び自問した。岩手県出身の童話作家で、詩人の宮沢賢治の言葉に出合ったのは、このころだ。

 「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」

 賢治が農民に行った講義の演題だった。73年、高木さんは大学を辞す。2年後、脱原発活動を行う市民団体「原子力資料情報室」の世話人となり、米スリーマイル島原発事故(79年)や、旧ソ連チェルノブイリ原発事故(86年)で、脱原発派の科学者・市民活動家として頭角を現していく。

 眼光鋭く、周囲から「野武士」と呼ばれていた。息抜きに仲間に誘われていくカラオケでは、石原裕次郎さんの「嵐を呼ぶ男」を手を振りかざして歌った。高木さんの都立大学時代の教え子で、高木さんの著作全集も出している七つ森書館(東京都文京区)の社長、中里英章さん(61)は「ちょっとカッコ付けているところもあって」とほほ笑む。

 チェルノブイリ後、哲学者の花崎皋平(こうへい)さんとの対談集「あきらめから希望へ」(七つ森書館)を出版。「いつも希望について語っていきたいという思いを込めて」とつけたタイトルだった。しかし、現実は厳しかった。高まる反原発運動に乗じ「脱原発法」の制定を求め90~91年に330万人の署名を国会に提出したものの、無視されたのだ。高木さんはこの挫折をきっかけにうつ病を発症。医師に「休養が必要」と診断され、料理を作ったり、モーツァルトを聴いて数カ月間を過ごした。

 中里さんは「仁さんは、国や企業のための科学ではなく、農民や労働者、学生をひっくるめた市民のための科学を、大学や研究所に所属せずに自ら切り開いた自負心があった。一方、何をやっても成功しないいらだち、お金の工面などで内心は葛藤に次ぐ葛藤もあったと思います。それでもあきらめずに希望をもって、自らの運動と生きることが一つになることを求め続けていました」と語る。

  ■

 「走れコウタロー」「岬めぐり」で知られるフォーク歌手で白鴎大教授(社会学)の山本コウタローさん(62)に都内の喫茶室で会った。70年代に公害問題に関心を持ち、反原発活動にも取り組んできた人だ。高木さんとは80年代中ごろ、反原発のシンポジウムなどで知り合い、高木さんが代表を務めた情報室に何度か足を運んだ。テレビの討論番組「朝まで生テレビ!」に反原発側の論客として一緒に出演している。

 山本さんは手持ちのファイルから数枚の紙を取り出した。96年の原子力資料情報室通信。高木さんはチェルノブイリから10年の教訓と題し、こう書いている。<事故は、防災・避難・損害賠償(国際的にも)・正確な情報伝達・食品汚染など多くの点で、現代社会がこの種の巨大事故にまったく備えがないことを示した。この教訓はどれだけ活(い)かされたか>

 「結局、政府や経済産業省、東電はチェルノブイリから何も学んでいない」と山本さん。「(3・11後は)大量消費という生き方が問われている。高木さんは著書で希望について語っているが、あれは、お金やものをたくさん作るのとは違う生き方を選ぶことができるんだよ、という問いかけだと僕は思っています」

 高木さんは亡くなる直前まで本を書き続けた。久仁子さんは言う。「仁さんは今の福島の事故じゃないけど、いつどんな事故が起きてもおかしくないと危機感を持っていました。自分の命はもう長くないが、次世代の人たちには原発がない世の中で生きてほしいと願っていました。国ではなく市民が現実を選んでいける社会にしていく。そのことをあきらめずに希望を持って訴え続けたと思います」

 残されたメッセージをどう生かすか--「野武士」に静かに問われているような気がした。


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