湘南文芸TAK

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子規の鶏頭句

2018-10-19 06:51:27 | 文学
鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ
鶏頭の十四五本もありぬべし


上記の正岡子規鶏頭二句について、こんな解説を読みました。
「マダイトケナキ」の句の方は一見鶏頭を目的として描いているように見えて、野分の中にさらされている鶏頭の危うさが中心になっています。つまりこの鶏頭は子規自身の「生」そのものが投影されているわけです。
 イトケナキ鶏頭にとって野分の強風は脅威です。しかし危うさだけではなく子規はイトケナキ鶏頭の逞しさも言いたいのです。俺はまだまだ簡単には死なんぞ、そんな鶏頭です。
 鶏頭の十四五本の方の句も「ありぬべし」と書くことで、鶏頭を見ることはかなわぬが、鶏頭は在るだろう、いや、絶対在ると「思う」ことで子規のその瞬間の「生」を浮き彫りにしています。その強い推量の中に子規の意識が刻印されるのです。
 つまり子規の鶏頭の二句は秋の季語としての鶏頭を描くことが目的ではなく子規の「生」そのものを描くことが目的となっています。
 ただし間違えてならぬことは、子規は鶏頭を己の比喩として意図的に用いたのではないということ。
 言い方が矛盾するようですが、眼前の鶏頭との瞬時の出会いを通してその風景を生々しく切り取る。そしてその結果、そこに自己の生そのものが投影されるという順序が子規の写生にはあるのです。 (今井聖「部活で俳句」より)

有名な「鶏頭の十四五本もありぬべし」は、詠んでいる時点では鶏頭を見ることができていないんですよね。
でも、いとけない(幼い)時に野分に耐えていた鶏頭が、まざまざと目に浮かんでいたのでしょう。
自分の切実さを写すのも、俳句における写生なのです。

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