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歴史秘話ヒストリア「夫婦で起こした家電革命 松下幸之助と妻 むめの」を視聴して

2019年10月17日 05時36分57秒 | Weblog

2019年9月25日、NHKTV歴史秘話ヒストリアは表題のテーマで放送されました。

この番組で気になったことと妻「むめの」の実弟で三洋電機の創業者「井植歳男」との

関係も含めて書いていきます。

まず、松下幸之助と妻「むめの」生年、没年の字幕とともに紹介したお二人の写真を

紹介します。

松下幸之助(1894~1989年)明治27年(1894)11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木

(現:和歌山市禰宜)に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。

松下むめの(1896~1993年)明治29年(1896)3月3日、兵庫県津名郡浦村(現在の東浦町浦)

に、井植清太郎・こまつの二女として出生。

松下氏が生まれたころ松下家は村の旧家で、父親も村会に出たり役場の仕事をしたりと

暮らし向きも豊かなほうでした。しかし明治32年(1899年)頃に父親が米相場に失敗、

破産したため一家の生活は様変わりすることになったのです。

松下幸之助は10歳から大阪の自転車店で丁稚奉公、松下むめのは高校卒業後大阪で女中奉公

2人は同じ大阪で働いており大正4年(1915)9月4日、見合いで結婚。(幸之助20歳、むめの19歳)

上の写真は幼少期の松下幸之助。

結婚当時、松下幸之助の両親はすでになく、8人兄弟のうち、残ったのはわずかに長姉と

幸之助の2人だけであった。

松下幸之助は明治43年(1910)16歳で大阪電灯(現:関西電力)に入社し、7年間勤務する。

むめのとの結婚当時(幸之助20歳)は大阪電灯で配線工として勤務するサラリーマンであった。

当時の電球は自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な

作業であったため、簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案する。

大正2年(1913)に18歳で関西商工学校夜間部予科に入学した。

上述の電球ソケットを上司に対して提案するが受け入れられず大正6年(1917)、大阪電灯を

依願退職した。(退職後おしるこ屋を経営することも考えた)

上の写真は結婚当初の松下幸之助と松下むめの。2人は大阪船場で暮らし始めた。

会社を辞めた松下幸之助と松下むめの及び大阪電灯の元同僚2人、さらに「むめの」に実弟

井植歳男は大正6年(1917)6月、大阪の鶴橋でソケットの製造を始めた。


上の2枚の写真は当時の製造現場であった長屋のスケッチとアタッチメントソケット

制作には苦労の連続であったが大正6年(1917)10月に何とか少数のソケットが出来て

いざ販売となったがさっぱり売れず資金繰りにも困窮し風呂代にも困る生活であった。

上の写真は当時、経理を担当していた「松下むめの」資金繰りのため質屋に入れた品々の

通い帳。現在も大阪府門真市のパナソニック本社に大切に保管されているようです。

この苦境により元同僚の2人は去り、幸之助、むめの、井植歳男(14歳)の3人だけが残った。

この窮地を救ったのが川北電気から持ち込まれた扇風機の碍盤(がいばん※絶縁体で電気を通さない板)

1000枚の大量注文でした。それまで川北電気は碍盤を陶器でつくっていましたが練物に代える

ことになり、「結果さえよければ2万なり3万なりの扇風機に全部応用する」となった。

3人はこの注文の製造に全力で取り組み80円の利益を生むことができた。

この成功によって窮地を脱した松下氏はその後、アタッチメント・プラグや二灯用差し込み

プラグを考案。これらがヒットしたことで経営が軌道に乗るようになり、大正7年(1918)の

12月に大阪市福島区大開町に松下電気器具製作所を創業することとなった。

上の写真は松下電器製作所が拡張する段階で雇用された従業員。

その賄や世話はムメノが担った

上の写真は当時の賄に使用された大鍋

井植歳男は大正12年(1923)20歳で軍隊に入営(旅順の重砲隊に配属)大正15年(1926)

1月に除隊後に松下電器製作所に復職、昭和10年(1935)12月に松下電器産業株式会社が

設立され専務取締役として同社の発展に尽くしています。

松下電器製作所は自転車ランプのヒットなどで順調に業績を伸ばすことになりますが、

昭和に入ってからは昭和4年(1929)の世界恐慌などにより、倉庫に入り切らないほどの

在庫を抱えてリストラを行うほかないという状況に追い込まれます。

しかしこの時、松下氏は「生産は即日半減するが従業員は1人も減らさない。このため工場は

半日勤務とする。しかし従業員には日給の全額を支給する」としたのである。

上の写真は当時開発された自転車のランプ

上の2枚の写真は自転車用のランプなどで急成長し300人規模の会社となった松下電器

 


上の3枚の写真は昭和4年(1929)の世界恐慌で景気が悪くなった時期にとった松下幸之助と

松下むめのがとった行動を示したものです。

松下氏はこの時期に「生産者の使命とは何か」を考えるようになり、米国で成功を治めていた

フォードの車を大量生産し安価に消費者に提供する大量生産方式を考え実行していきます。

有名な「水道哲学」(水道の水のように良質なものを大量に供給し、消費者に廉価で届けること)

昭和7年(1932)5月5日のことで、この日が会社の創業記念日となっています。

松下幸之助は電気アイロン、電気コタツ、ラジオなどの品を大量生産で安価で国民

に届けることとしました。(上の3枚の写真)

昭和8年(1933)広い工場敷地を求めて大阪府北河内郡門真町に移転。(下の写真)


さらに昭和10年(1935)には松下電器産業株式会社として法人化した。

不況を乗り越えて3,000人の従業員を擁する大企業となった。

上の写真は昭和14年(1939)西宮に建てられた松下幸之助・むめの夫妻の新しい住まい光雲荘

上の写真は光雲荘の「むめの」の部屋

しかし、昭和16年(1941)に太平洋戦争が勃発し、工場は軍の要請により木造の飛行機や

木造船の製造をするようになる。(木造船は昭和18年(1943)4月より着手)(下の写真)

そして、昭和20年(1945)の敗戦

上の写真はGHQの本部が置かれた東京大手町の旧第一生命ビルで、松下はGHQにより

財閥と認定され公職を追放された。

以下Wikipediaより引用。

戦後ただちにGHQによって制限会社に指定され、松下幸之助・井植歳男以下役員の多くが
戦争協力者として公職追放処分を受ける。
暖簾分けの形で井植兄弟を社外に出した幸之助は、「松下は一代で築き上げたもので、
買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁した。
一方で昭和21年(1946)11月にはPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出すことで世評を高めた。
内部留保を取り崩して人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、
間もなく制限会社指定を解除され、昭和22年(1947)5月に社長に復帰する。

上の写真は労働組合がGHQに提出した嘆願書。
GHQは処分を解除。幸之助は社長職に復帰。(当時、約8,000人の署名が集められた)


一方、幸之助の義弟の井植歳男は昭和21年(1946)12月戦時中に軍需の生産を担当した
責任をとり、松下電器産業株式会社の専務取締役ほか各子会社の役員を辞し退社。
昭和22年(1947)1月、世界に通じる仕事を行い、日本の復興発展に尽くそうと、大阪府
守口市で三洋電機製作所を創設。北条工場(現在の兵庫県加西市)で自転車発電ランプの
生産を開始しています。
さらに、昭和25年(1950)4月、三洋電機株式会社を資本金2,000万円で設立。
取締役社長に就任。井植歳男47歳であった。

社長に復帰した松下幸之助は事業のヒントを得るために米国へ出張します。

上の2枚の写真は昭和26年(1951)1月、米国に出張する松下幸之助。
出張で目にしたものは米国の女性が生活家電(洗濯機、掃除機、冷蔵庫)により家事が軽減
され仕事場で女性が活躍している姿でした。
そこで考えついたのが主婦向けの生活家電の大量生産でした。(上の写真)

松下幸之助は洗濯機、電気炊飯器、電気掃除機、電気洗濯機など女性の家事を大幅に
軽減する品々を使いやすく壊れにくく高品質、低価格で供給していったのである。

昭和34年(1959)の皇太子さまご成婚でテレビが必需品となりこれらの製品が
益々売れていった。
この頃、むめのは経営から離れていたが洗濯機のモニター等をして夫を支えた。(上の写真)


当時の松下電器産業株式会社の販売は個人経営ナショナルショップで互いに競わせながら
販売方式をとっていた。西宮市で今もなおナショナルショップを経営されている高畑夫妻が
松下うめのから貰った手紙を残されており「むめの」さんの当時の気持ちが伝わるエピソード
が紹介されていました。

上の写真は戦後から昭和40年(1965)までの従業員数と売上高の推移表




上の4枚の写真は米国の雑誌「Times」1962年2月23日号に紹介された松下幸之助・むめの
夫妻の紹介。
上の写真は昭和43年(1968)に行われた創業50周年の式典で妻「むめの」に
感謝の言葉を述べる松下幸之助。
平成元年(1989)4月27日 松下幸之助永眠(享年94歳)
今年(2019)は没後30年の節目の年であります。
松下幸之助が亡くなって(1993)5年後の平成5年(1993)9月5日、松下むめのが死去

2人は松下電器(現パナソニック)本社敷地内の創業の森で銅像が建てられ

会社の行く末を見守っておられます。

 

やっと、書き終えました。ああしんど。・・・・・・・



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