美城丈二@魂暴風;Soul storm

僕が見た、あの日(と今日)の悲喜哀感。
A writer;美城丈二Another face綾見由宇也

“殺人風車”ゲーリー・オブライト「リング上では別人!!を地でいったフルネルソンの驚愕(きょうがく)」

2012-01-08 19:05:25 | “魂暴風”popular request column 
(初出:2007/7“魂暴風”popular request column)

    
 既に伝説化しつつある。
 時代の移り変わりは速い。

 彼のことを
 リアルタイムで目撃した世代も遠のきつつ、ある。
 「吸引力を逸したプロレス界」
 “その最期のあだ花”
 などと彼を指してささやく一群もある。
 彼が煌めいた季節は
 遠い季節の残り香か?

      


 見知らぬファンも増えつつある。だが、いまは良い時代だ。ネットではからずもその一端を望むことが出来る。
 
 相手を後方から羽交い絞め、フルネルソンに捕らえただけでどっと観衆は沸いた。彼特有だったのは強引に倒れこんでいる相手でも持ち上げ、そのまま投げ落としたことだ。

 その速さは、全盛時のロビンソン、ボックのそれを連想させ、時の識者は“殺人風車”とネーミングした。

 かつて、ゴッチはスープレックスなるものは後方から胴をクラッチし、反り投げたあとブリッジして固めることこそスープレックスだと自身の編み出したジャーマンスープレックスホールドを誇った。厳密に、この言説に頼れば彼のスープレックスはサルトということになり、相手の両腕を前から掴んで投げるものがスロイダーだと仮説されたりもするのだが、ええーい、そんなこんなの講釈は要らぬ、彼のスープレックスの前では問答無用!!見る者をして驚愕足らしめる、確かに怒涛の破壊力を存分に発揮していた。

 “必殺技”が文字通りまかり通った最後の凄技かも知れない。

 “敢えて受ける”プロレスなるジャンルの特有性を超え、必死にあがなっても公称191cm、160kgの巨体から発揮される、まさに“むんずと力任せに強引に”ぶん投げるさまは誠に“絵”になっていた。

 当時、試合終了後、会場をあとにしつつ、「あれをこの路上でやったらどうなるんだろうねぇ?」と友人は自身で答えを悟っているかのように頷きつつ、ひとり呟いていたものだ。

 Uインターも皆々一致あげて高田戦の前に作り出した、いわばファンの幻想を膨まらせる為の所業、或いは虚像だったのだと揶揄する向きがあるとしても、私には当時の対戦相手、その失神の山の連続にそんなこんなのこざかしい誹謗・中傷の類いを超えた、見る者に迫り繰るプロレスリングなる世界の“弩級性(どきゅうせい)”、ひいてはかつての、多くのスープレックスの使い手達を連想させる“ノスタルジー性”をも思わずにはおれなかった(それだけUインターの面々が“受けの猛者”だったという反証にもなるが……)。

 リングの華はやはりスープレックスにあるのだと、私たちは幼き頃から既に気づいていた。その破壊力とともに起こる神秘性、華麗という仮面の下に隠された受身を取らせまいと思えばそうしてもかまわぬ壮絶さなるものに酔わされ続けてきた。

 相手をマットにぶちのめしても必ずクラッチをはずす必要は無い、なのに投げっぱなすというスタイルで彼ほど説得力を有したスープレックスを放つ強者もそうそういなかったように私は思うのだ。

 ネブラスカ大学時代にNCAA(グレコローマン)レスリング選手権スーパーヘビー級を三度制覇。このバックボーンはやはり伊達では無かった。多くのスープレックスの担い手達が腰に負担のかかるスープレックスを敬遠、または滞空時間を長めにすることでその“破壊力”を貶めてしまう中、彼は繰る日も繰る日もあの“殺人風車”を繰り出し続けた。そうして或る日遂に訪れた頚椎への病の元。併せて襲い来る糖尿病という、格闘家としては致命的な病巣。

 癌に侵され臥した父を想い、金メダル確実とされたロス・オリンピック出場を断念。その金メダルに輝いた男とは彼の友人でもあったジェフ・プラトニック、そのひと。オリンピック選考会にてさもあっさりとピン・フォールした相手でもあった。そんなバックボーンともいうべきアマレス仕込の“反り投げ”を放つことが出来なくなった時、彼のレスラー人生は儚く尽きてしまったのかも知れない。

 プロ転向後は、新日本、そうしてUインター、全日本とまさに請われるままに来日を続けたが、重度の糖尿病に冒されてしまった彼にとっては、毎日毎夜、各地を巡業するスタイルの全日本ではスタミナの消耗は甚だしく遂に彼は彼自身がそうと呟いた“メジャー・リーグ”全日本で本領を思う存分に発揮するという段階までには至らなかった。特にその独特の間合いに上手く順応することも至らず、1996年3月に三沢光晴選手の保持する三冠ヘビー級王座に挑戦、このあたりまでが彼の“域”ともいうべき片鱗が垣間見えた時期でもあろうと考える。

 当時の新聞報道に拠れば2000年1月7日、米ペンシルベニア州で行われた試合中、相手の技を受けた彼はまさに大木が崩れるようにダウン。そのまま息を引き取ったとされる。享年36歳の若さであった。死因は急性心不全だが、彼の身体に以前から“異変”があったことは様々な書物群、関係者の証言によって明白であろう。だが、そこまでして彼は何故、リングに向かい続けねばならなかったのか?その本当の理由を私は定かには知らない。既に黄泉のひとである。知らぬとも、あの“フルネルソン”を思うだけで私には彼へのはなむけだと信じて疑わない。

 「Mr、ゲーリー。スープレックスの“驚愕”を有り難う。いつまでも忘れずにいるよ。」

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