不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(53)「いろは」の兄弟

2013-10-29 17:38:09 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、木村荘太と荘八の兄弟について。この二人のことは、私にとっても非常に気になる二人なのだが、彼らを知るきっかけになったのがこの記事であった。

「木村荘八に「牛肉店帳場」という油絵の大作がある。
 玄関に下足番がいて、正面の階段では、ふたりの軽子が手盆をひょいと翳して、登り降りする。左手は調理場、ガラス戸棚に大きな牛肉がぶらさかっている。階段の蔭のやや奥まったところの帳場に、荘八らしき人が坐るという構図である。描きこまれた人物は六人、そこで働く人々の姿が生き生きと写されている。階段を三つ上った踊り場の大鏡の枠に「第八いろは」の銘のあるところから、作者は自分の生家を再現したものとみえる。
 昨年の梅雨のころ、木村荘八の生誕百年記念展が練馬区立美術館でひらかれて、私はこの絵をひさびきにみることができた。北野美術館の収蔵とのことであった。まえにみたときはさほど気にとめなかったが、図録の解説を読むと、荘八はこの作にかなりの執着をもっていたらしい。昭和六年四月の第九回春陽展に出品、加筆修正して翌七年四月の第十回展に再度出したとあった。伊藤匡氏は第一作(当時の絵はがきに依る)と完成作をくらべて「床や帳場に影と反射をつけ、さらに鏡の中の色調、女中の盆を持つ手の指の曲がり具合い、足袋の汚れなど、造型面から綱部の実証的側面まで細心の工夫が施されている」と書いている。なるほど、画家の仕事も時問をかけて、こういうふうに練り上げてゆべものなのかと教えられたが、二年つづけておなじ絵を出品したことに、私は彼の芸術家としての執念に輿味をおぼえたのである。」

 この作品は、書籍やネットで見ていたので、実物を今年行われた木村荘八展で見ることが出来て、良かったと思っている。この作品は文字通り大作で、非常に大きな作品である。荘八の作品の中でも大きな作品は幾つかあって、それらを一度に見ることが出来たのは今年の荘八展の大きな収穫だったと思っている。大きな絵の前に立ってじっと見ていると、その絵の世界に引き込まれるような力を感じる。この「牛肉店帳場」も、店のざわめきや牛鍋の香りすら漂ってきそうな、そんな臨場感を感じさせられた。その木村荘八展が生誕120年記念であったわけで、この文章が書かれてから既に20年の歳月が流れたことを改めて知らされる。
 この「牛肉店帳場」は荘八の代表作の一つだが、この辺りが荘八という画家のユニークで面白いところだと言える。画廊羽黒洞の主人、木村東介は荘八のことを劉生に勝るとも劣らない、画家としての力量の飛び抜けた一人であるにも関わらず、金持ちの応接間に掛けるような絵を描かなかったから不当に低い評価をされてきたと書いていた。確かに、自らのルーツでもある明治の牛肉店の光景を鮮やかに描いた大作は、金持ちの応接間にはそぐわないだろう。だが、眼の前にその絵をみると、荘八という人の描いた世界がまさに引き込まれるような力を持っていることに気付かされる。

杉並区和田の長延寺。


ここには荘八の墓がある。彼は、高輪の木村家の墓所に入らなかった。


「父親木村荘平はひとことでは言いあらわしようのない複雑で、豪快な事業家であったらしい。荘八はオヤジがどこから、いつ東京へ出てきたのか「ボクなんかは少しも知りません」というが、荘太の自伝によると、山城国宇治の上林家の出で、『風俗文選』の銘類に記載されている、代々茶師の家系だったとある。祖父の代におなじく宇治の木村家に夫婦養子となり、ゆえあって養家を去るが、父が木村家を継いでいる。
「維新になると、京都の附近が騒擾の巷になって、上林家もこの渦ちゅうに墜って没落した。そのあいだに、木村家を継いでいた父だけが成功して東京に出たのだ。父は養家の木村家で妻を娶ったが、父もこの妻をそこに残して、早くから家を出て、いろんなことをしていたらしいが、明治の初年東京に出たときにせ、神戸で栄子之いうむすめを生ました女や、なにかを連れて来ていた。
 それで私が生れて、知ったころの父は、東京の各区に『いろは』というなん十軒かの牛肉店を出していて、その店店には故郷から父を頼って出てきて、多く婿をとって上林姓を名乗っていた三人の妹たちや、妻妾たちを一軒ずつに住まわせていた。そして自分は、まだ埋め立てられていなかったころ、いまの京浜線のレール近くまで水の寄せて来ていた芝浦の海岸に鉱泉が出たのを浴場に引いた料理旅館を営んでいた家を本拠にして住み、当時東京にひとつしかなかった町屋の火葬場会杜の社長になっていた。」
 牛肉店の経営だけが荘平の仕事ではなかった。いろは四十八店まで、東京市内の目貫通りに建てるという目標で「いろは牛肉店」を計画したわけだが、割烹料理、製茶貿易、諸獣、競馬、火葬場経営のほか、甜菜の製糖会社、日本麦酒会社の社長をつとめ、さらに東京市会議員になり、フロックコートを着て飛びあるく。そして明治三十九年四月、最後の三十人目の一歳の子をのこして死んだというのである。」

 彼らの父である木村荘平という人物も、明治という時代の傑物という以外の形容のしようのない様なユニークな人物であった。彼が宇治に生まれてから、東京で牛肉店のチェーンを展開する事業家になるまでの間には、明治維新があり、戊辰戦争があった。茶師の家系の出といいながら、荘平は家を飛び出たようで相撲取りになろうとしたり、色々の挙げ句の果てに八百屋をやっていた。そこに明治維新、戊辰戦争が起こり、進撃する官軍が彼の店で食糧の野菜を調達したものの、官軍は軍費に事欠いていた。その為に彼の店は潰れてしまう。その後、荘平は神戸に出て新たな商売をしていたらしい。その荘平に声を掛けたのが、薩摩出身の警視庁大警視の川路利良であった。維新後の東京では開国して外国人が居留地に入ってくるような時代を迎えていたのだが、官営で設けた屠場の経営が上手くいかずに頭痛の種になっていた。これをどうするのかというところで、戊辰戦争の折に恩義のある荘平にこの話を持ち込んだというわけであった。この話を受けて、荘平は上京してきて屠場の経営を引き受けた。三田四国町の武家屋敷跡を借り受け住まいにした。その時に長女の曙の母であった荘平の二番目の妻(といっても、妾であった)の発案で、四国町の屋敷の一部を使って牛鍋屋を始めたのがいろはの始まりであった。その後は上記の様な次第で、いろはの店を増やしていった。
 荘八が生まれた頃には、いろは牛肉店は東京の主な目抜きには店を構えるまでに成長していた。京浜線のレール近くまで水の寄せていた云々は、当時芝浦が言わばシティリゾートといった賑わいを見せていた時期があって、その頃に芝浦館という温泉宿を海辺に建てていた。これを契機に芝浦に花柳界が出来たという。だが、埋め立てが行われて行き、都市化の波の中に呑み込まれていったことで、この芝浦のリゾート気分というのは儚く消えていった。後年、木村荘太が第二次「新思潮」の発刊にたずさわった時にも、ここがその発行所になっていたという。この辺りのことは、以前「港区芝浦一丁目」に書いた。
 そんなわけで、いろは大王と渾名された荘平だが、彼は牛鍋チェーンの主というだけの男ではなかった。製茶貿易は神戸でもやっていた事業だし、は東京に来る契機となった事業でもある。そして火葬場の経営というのもユニークで、今もある町屋の火葬場を作りレンガ造りの西洋式の火葬の設備を最初に作ったのが彼であった。町屋の火葬場の構内には荘平の胸像があったらしいのだが、建て直されて以来どこかへいってしまっているようで、見当たらなかった。日本麦酒の社長というのも、この会社が後にヱビスビールを作り、今のサッポロビールに繋がっている訳でもある。
 さらに政治的な野心もあったようで、市会議員から国政を狙っていた矢先に病に倒れたという。

芝、高輪の正覚寺。


ここに木村荘平も眠る木村家の墓がある。円筒形の墓石がユニーク。


そして、現在の町屋の火葬場。元々江戸以来の歴史のある火葬場だが、明治になって近代化を持ち込んだのが荘平であった。


「ちなみに、荘八の文によって「いろは」二十一支店の所在をしめすと、つぎのとおりである。
第一支店    芝三田四国町
第二支店    日本橋呉服町
第三支店    京橋采女町
第四支店    芝南佐久問町
第五支店    京橋八丁堀
第六支店    神田連雀町
第七支店    深川西森下
第八支店    日本橋吉川町
第九支店    浅草吉原堤
第十支店    浅草広小路
第十一支店   神田白壁町
第十二支店   本郷三丁目
第十二支店   麹町隼町
第十四支店   浅草馬道五丁目
第十五支店   神田美土代町
第十六支店   麻布六本木
第十七支唐   赤坂青山
第十八支店   牛込神楽坂
第十九支店   芝三田
第二十支店   四谷伝馬町
第二十一支店  下谷池の端仲町」

 荘八によるいろは牛肉店のリストだが、同時に存在していない店があったり、浅草には番外の廉価版の店があったりとか、今のチェーン店のやっているようなことは一通り先んじている様で面白い。木村荘太は神田橋の店で生まれたが、大火で店が焼けてしまい、その為に日本橋吉川町の第八いろはへと移った。そこで生まれたのが、荘八である。神田橋の店というのは、このリストではどれに当たるのだろうか?神田連雀町だと、ちょっと離れすぎているように思える。
 それにしても、荘平はこれほどの店を流行らせて朱塗りの人力車を三人引きで曳かせ、日々店を巡って回ったというから、明治の東京のまさに名物といって良い存在であったことだろう。

「「日露戦争前のことで、二階に赤や紫の色硝子をはめた戸を入れ、銅葺のひさし屋根をピカピカ磨き立てた店で、奥は蔵造りになっていた。隣りに紺ののれんをかけた小間物屋があり、前にも、紺のれん、紺の日除けを石の重しで店先へ張った、土蔵造りの紅白粉を売る店と、大きな湯屋があった。
 私は、そういう、うろ覚えの記憶と共に、あの艶のある板の間や、黒く光る蔵の厚い扉や、段々や、暗い網戸、挨だらけの棚や長持を目に浮ぺることが出来る。
 そしてまた、高い窓から射す薄明の中で、ばっと開いた花の色を・・・・・・おきゃんな、下町娘の引き締った浅黒い躰の、美しい起伏を、たしかに見たことがあるような気もするのである。」
 このような生い立ち、家族事情、生活環境は、各店め異母兄弟と共通するものがあったにちかいない。東京で成功をおさめたばかりに乱脈をきわめた父親であっただけに、彼にたいする想いは各人各様だったとしても、共通するなにかがある。」

 荘十が書いた第七いろはの想い出である。荘十は、母親が荘平の元から飛び出してしまい、愛人と逃げてしまった。浅草吉原堤の第九いろはで育てられた。戦前に小説家となり、直木賞を受けている。この第七いろはの様子は、荘八が書き残している第八いろはの有様とも極めて近い。いろはという店が、この明治の時代からいわばCIと言えるような外観の統一まで行われていたことが窺える。そして、なによりも巨大で怪異な父親像の影とどう向き合っていくのか、そのことがいろはの子孫達には常につきまとっていたようだ。今の時代とは違う明治からの時代の中、世間の誰もが知っている荘平の子であるというだけでも充分なプレッシャーであったようだ。

「たとえば、いま引いた文章からもわかるように、いろは牛肉店の古風で、格式のあるたたずまいは、大衆的な牛鍋屋とはいえ、荘八の描いた「牛肉店帳場」の風景と完全におなじである。荘八は「第八いろは」の五色のガラスについて詳述したことがあって、舶来ものの、分厚なキリコ風の、映像にムラのない厚板の装飾ガラスだったと考証したが、明治の文明開化の雰囲気は牛鍋セともに、和風のなかに洋風装飾を。とりいれたところに生きていたのである。
 いま、下町の料理店ではほとんどそれを感じなくなった。震災、戦災とともにみな消えてしまったのだ。明治の牛肉店の雰囲気をすこしでもったえるところがあるとすると、浅章の米久、吉原大門の中江、森下のみの家あたりであろうか。客をむかえたときの下足番の応待、磨かれて黒光りのする床板、それは荘八の「牛肉店帳場」を連想させずにおかぬものがある。
 異母兄弟のなかにもうひとつ共通するものがあったとすると、芸術・文化・学術への希いが幼いころからそれぞれのうちに育まれたことであろう。前記の正妻の長女栄子(明治五年生)は『婦女の鑑』を書いた木村曙である。荘太(明治二十二年生)から歴史家の荘五、新派立女形の荘七、画家の荘八、作家の荘十、編集者の荘十一、映画監督の荘十二とあげてゆくと、彼らのなかには共通するなにかがあったにちがいない。
 荘八は、語りつたえだけできいてきた姉曙のことを「私の家では偶像になっていた」と書いている。しかし苦しみながら天折した。そのあとにつづくものもみな苦しみつつ生きた。血につながるのはカラマゾフの十字架であったのか、カインの末裔であったのか。彼らの人生をおもうと、血につながるデモーニッシュなものを感ぜずにはいられない。いま、荘八の文章は、小高志郎、槌田満文、三井永一の三氏の編集によって『木村荘八全集』全八巻(講談社)にまとめられている。そのうち自伝的文章は一巻分を占める。荘太、荘十の自伝とあわせみると、「いろは」のなかには明治の妖気がただよっていて、血のつなかりと人間苦にもがいてきた彼らの姿を読みとることができる。ことに荘太の最期は悲惨だった。『魔の宴』を書きおえて、上梓寸前に自殺してしまったのである。」

 荘平の子供は男女合わせて三十人に及ぶのだが、その中には小説家になったもの、画家になったもの、映画監督になったもの、奇術師になったものなど、様々な形で才能を発揮していった者が多い。異才の家系と言えるのかもしれない。画家でありながら全集が編まれるほどの文章を書き残していった荘八、そして自らの命を絶ってしまった兄の荘太の兄弟は、やはり一族の中でも私にとっては心を捉えて離さないものがある。とりわけ、荘太という人は知れば知るほど、その最期の痛ましさが心に沁みる。
 何よりも、私にとっては日本橋横山町で明治三十年から店を構えていた曾祖父のことを知るようになって以来、まず間違いなく行き合ってすれ違いながら、同じ町で同じ時代を過ごしていた訳で、そこからの親しみというのも感じる。荘八の書き残してくれた数多くの文章で当時の日本橋川の両国の様子を知ることが出来た訳だが、その荘八にも大きな影響を与えた荘太の人物に興味を覚える。同じ町で、江戸以来の町人文化の気風を色濃く残していた時代、そんな空気の中で育った兄弟を見る面白さというのもある。都会っ子であり、洗練されたセンスの持ち主である一方で、逞しさを持てないひ弱さを抱え続け、人の弱さを体現して見せたかのような荘太のことをより知りたいと思っている。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« いたばし文化財ふれあいウィ... | トップ | いたばし文化財ふれあいウィ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東京・遠く近き」カテゴリの最新記事