ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】レッドドラゴン 決定版

2011年07月07日 19時04分55秒 | 読書記録
レッドドラゴン 決定版 [上][下], トマス・ハリス (訳)小倉多加志, ハヤカワ文庫NV ハ-11-3・4, 2002年
(RED DRAGON, Thomas Harris, 1981)

・怖い映画は苦手なはずが、本作品が映画化されたとき(2002年)は思わず劇場へ足を運んでしまいました。それというのも悪役でありながら圧倒的な存在感を放つハンニバル・レクターの活躍(?)を見たいがため。そんな作品を活字で読んでみるとまた異なる雰囲気を味わうことができます。細かなストーリーなどについての解説は省略。
・書名の「決定版」の意味は、巻頭に「運命的な会見にいたる序文」が付されたことによる。
・「小説を書くときに理解していなくてはいけないことのひとつ、それはものごとをでっちあげてはならないということだ。すべては必ず目の前にある。ただ、それらを見つけ出しさえすればよいのだ。」上巻p.9
・「ジャック・クロフォードは、声こそグレアムだが、その話し方がクロフォード自身の話し方とリズムと構文がそっくりなのに気づいた。彼はグレアムが前にもほかの人たちを相手に、相手と同じ話し方とリズムで話しているのを聞いたことがある。会話に熱中するとグレアムはよく相手の話し方と同じ調子になってしまうのだ。」上巻p.21
・「「ほかに病名のつけようがないから社会病質者(ソシオパス)と言ってる。彼にはそのいわゆるソシオパスの特徴がいくつか見られるんだ。反省心とか罪悪感ってものがまるっきりない。しかも第一の、そして最悪の徴候が見られる……子供と同様な、動物に対するサディズムだ」」上巻p.118
・「「君がわたしを捕まえたわけは、わたしたちが瓜二つだからさ」グレアムのうしろで鋼鉄のドアが閉まったとき、最後に彼の耳に聞こえたのはその言葉だった。」上巻p.145
・「タラハイドは自分が変身するのを助けるためにわざわざ死んでくれる人たちの非現実性を、レクターならわかってくれると思った。彼らは殺すとたちまち消滅してしまう光や空気や色や早い音なのだということもわかっていると思った。破裂する色とりどりの軽気球のようなものだ。彼らの変身が、祈りを捧げながらしがみついている生活より重要なのだということをレクターなら分かっていると思った。」上巻p.195
・「グレアムは保管所の荷箱に腰かけて、その長い報告書を読んだ。アジア研究部の意見では、そのしるしは中国文字で、"当たりだ" ないし "楽勝だ" の意味だ……が、時には賭けごとにも使われる表現で、その場合は "いいてだ" とか "ついている" という合図だと考えられているというのだ。そしてこの文字は麻雀牌にもあって、<赤き竜>を示すものだとそこのアジア学者たちは言った。」上巻p.214
・「「人を殺すってのは――殺さなけりゃならない場合でも――そんなにいやな気持ちになるの?」  「ウィリー、人を殺すってのはこの世の中で最低のことさ」上巻p.273
・「「じゃ、今はほんとのことを言うか? このおれについてだ。おれのする仕事についてだ。おれがこれからなるべき存在についてだ。おれの芸術についてさ、ラウンズさん。これは芸術じゃないか?」  「芸術だ」  ラウンズの顔に恐怖の色を見てとると、ダラハイドはしゃべり放題しゃべり、歯擦音も摩擦音も連発したが、破裂音がいちばん多かった。」上巻p.349
・「おれに較べりゃあんたの命なんざ石の上についたナメクジの通った跡みたいなもんだ。薄くて銀色のぬるぬるした跡がおれの記念碑の文字の上をなぞったりはみ出したりしているみたいなもんさ」上巻p.350
●『『レッド・ドラゴン』/サイコ・ノヴェルの「先の先」』評論家 滝本誠 より
・「ハリス以降溢れかえることになったサイコ系作家のなかで、トマス・ハリスが別格の存在として残ったのは彼の作品がブームを牽引したというばかりではない、ハリスの作品が実に優雅な娯楽性と余裕を感じさせ、何回読んでも飽きがこないところにある。「優雅な娯楽性と余裕」というのがミソだ。」上巻p.358
●以下、下巻より
・「グレアムはこの四十年間、自分が何も学ばなかったような気がした。ただ疲れただけだ。」下巻p.30
・「その週のうちに彼は偶然ブレイクの絵を見たのだ。たちまち彼はその絵に心を奪われた。  《タイム》に載ったロンドンのテイト・ギャラリーのブレイク回顧展に関する記事についている大きく強烈なカラー写真でその絵を見た。ブルックリン美術館はその展覧会のために<大いなる赤き竜と日をまとう女>をロンドンへ送ったのだ。  《タイム》の批評家はこう書いていた――<西欧美術に描かれた悪魔的イメージで、性的エネルギーをこれほどまでに悪夢のように発散させているものはきわめてすくなく……>。ダラハイドはその絵のそうした感じを、記事を読むまでもなく感じ取っていた。」下巻p.92
・「ほかの人たちがはじめて自分の孤独に気づいて恐怖を感じるころ、ダラハイドはもう自分の孤独がどんなものかわかるようになっていた……つまり、ほかの人間とはちがった独特な存在だから孤独なのだということだった。あらたな転換をとげようという熱意のせいで、もし自分がその熱意に取り組み、もしこれまでずいぶん長いあいだ抑えてきた掛け値なしの強い衝動にかられるままに行動したら――その衝動を霊感本来の姿として押し進めていったら――自分はなるべき存在になれるのだと理解した。」下巻p.93
・「ミス・ハーパーがやってくる。ブリーフケースくらいの大きさの平らな黒いケースを持っていた。絵はその中に入っているのだ。彼女のどこにあの絵を運ぶ力があるのだろう? 彼は今まで一度もその絵を立体感のないものとして考えたことがなかった。カタログでその大きさを読んだことはある……縦四十三センチ、横三十四センチ……が、カタログを見た時はそんな点に注意を払わなかった。彼は巨大な絵を期待していた。だがそれは小さかった。小さくて、この静かな部屋の中にある。」下巻p.234
●「邪悪でありながら華麗な存在レクター」ミステリ研究家 オットー・ペンズラ― より
・「しかしトマス・ハリスの最高傑作である『レッド・ドラゴン』は、レクター博士の登場が必要最小限だからこそ傑作なのである。」下巻p.348
●「終わりなき夜に生まれつく」作家 桐野夏生 より
・「『羊たちの沈黙』、『ハンニバル』を読んだ読者は、レクターの生き方が奇妙に時代に一致していることに気付くだろう。『レッド・ドラゴン』が1981年、『羊たちの沈黙』が1988年、『ハンニバル』が1999年、二十年の長きにわたって、トマス・ハリスは食人鬼ハンニバル・レクター博士を書いてきた。レクターが、ただの凶悪犯罪者から名精神医学者へ。そして、美食家の快楽主義者でありながら、騎士道精神を発揮する当世風ルパンへと変貌しているのも、小説が社会の変化を先取りする優れたメディアであることを思えば至極当然のことかもしれない。むしろ、レクターが時代の流れを変えたのだとしたら、これほど愉快なことはない。」下巻p.352
・「本書『レッド・ドラゴン』は、精神分析という科学にも溺れず、自分の繭にも籠らず、他人に無関心でもなく、あらゆる距離感が程良い小説である。そして、呪術的でさえある。そのバランスと野蛮さが本書の魅力であり、シリーズ中、私の最も愛する作品となっている。」下巻p.354
・「ここで、読者は逆説に気付くのである。必死に迷う人間だけが悪の姿を表せることに。ダラハイドの迷いと彷徨が、ダラハイドの悪を一層浮かび上がらせる。同じく迷うグレアム。グレアムの悪はダラハイドとも近い。開くとは弱さである。ハリスが書こうとしている悪とは、男に生まれた人間の本質に最も近い、生物的な弱さであるかもしれない。」下巻p.356
・「では、なぜレクターが人を食らうのか。シリーズの不思議はその点に尽きるだろう。」下巻p.357

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