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闇金ウシジマくん・清朝末期くん

2008-12-22 23:54:30 | 読書
『阿Q正伝・狂人日記』魯迅(岩波文庫)
周囲の人間から食べられてしまうという被害妄想を抱く男の姿に儒教道徳への疑問を込めた「狂人日記」、最下層の小作人“阿Q”の短い生涯を描く「阿Q正伝」など、清朝末期から中華民国成立の当時、日本に留学した経験も持つ魯迅自らの経験も織り込んで、中国に近代文学を導入しようとする意気込みのもと書かれた14の中短篇。

歯医者へ行く。どうってことない治療である。しかしパーテーションで隔てられた隣りの治療台からはどうってことある気配が。耳をダンボにしても、ぼそぼそとした患者の声は聞き取れず、医者の声のみ聞き取れる。「ちょっとチクチクッとしますよ。もし我慢できないようだったら右手を上げてください」「う~ん。短期的には治るんですが、長期的に見ると、根っこを抜いたほうがいいですね」
つい顔がほころんでしまう、他人の不幸をおかしがってしまう性根の卑しいオラ。『闇金ウシジマくん』を最初に手に取ったときもだいたいそんな感じだったかもしれない。オラは借金なんてしないから、借金まみれで不幸の底に落ちてゆく人たちのドラマを賞味しちゃおう。ところが、そのマンガはまったくそれどころではない、初期からわりとすごかったものの巻を追うにつれオラをとりこにするばかりである。借金や悪徳や、場合によっては完全な法律違反の犯罪行為まで、いったい何が彼らをそうさせたのか、させずにおれなかったのか、その複雑怪奇な因果関係・人間模様をあますところなく描き伝える。そうすると読者は彼らを他人と思えなくなる。借金するような別世界の人たちではない。彼らの中にもオラがいて、オラの中にも彼らがいる。これまでのところ、完全に理解できないモンスターとして描かれてたのは、肉蝮(にくまむし)って人と鷺咲(さぎさき)って人くらいかな。鷺咲くんは年末SP企画に出演していただくので覚えててね。その2人でさえ人の子。そうさせた事情があるのかも。いずれマンガにも再登場して彼らの人生を語るときが…来ないか。まあ、できるだけいろんな人の物語を語ってもらって、いつまでも連載していてほしいですね。
今現在進行中でいよいよ佳境を迎えつつあるのが「スーパータクシーくん編」で、ホストクラブ勤めや離婚の経験もあるタクシー運転手・諸星信也を描く。つかみどころのない人間像で理解できにくかった彼も、今は「がんばれ!」と応援したい気持ち。その昔、とどのつまり野垂れ死にすることになる漫才師がタクシー運転手を「かごかき!」と侮辱したところ訴えられて裁判で負けちゃった。しかしすごいよな。駕籠っていう移動手段。駕籠からタクシーまでの間に、人力車というのがあったそうじゃないですか。それまたすごい。このたび読み終えた魯迅という人の短編集にも、いくつかの話に人力車夫が象徴的な形で登場する。ウシジマくんとの共通点はそればかりではない。
そもそも中国の文字ってのは、どうして漢字なのか。意味するところの違いに応じて膨大な数の漢字。知識を蓄積したり人に伝えたりするためには、それを学ばなければならない。ゆえに多くの民は文盲のままに。漢字という存在は、知識や教養みたいなものはそれを学べる環境に恵まれた特権階級・支配階級が独占していればいいという価値観を暗に示している。民衆の向上心や下克上を狙うエネルギーをも利用して成し遂げられた欧米の、それを追う日本の近代化に、中国が乗り遅れてしまったのはそのためもあるのではないか。そのさなか、諸外国から寄ってたかってむしられる当時の中国で、魯迅は文学の力によって民衆の意識を改革しようと考え、中国語の文法を改良することまで試みて中国最初の近代文学者となった。
しかし彼は《民衆というものをあらかじめ善なるものとはとらえなかった。なにかにつけて付和雷同し、裏切り、だましあい、互いに互いを食いあう度しがたい生き物と見ていた。魯迅の眼の深さは、食人関係性にしばられた民衆を、単に忌むべき“他者”とはせずに、自己のなかにも民草のやりきれなさを見ていた=辺見庸》。他者の中に自己を、自己の中に他者を見る、そこに生ずる共感や同情心、優しい情緒やユーモア。殺伐たる世の中でもなるべく笑って生きたい。極貧にあえぐ“阿Q”の、争いに負けたりひどい目にあっても、心の中で勝ったことにしてしまう独特の“精神勝利法”は、「自分で自分を励ます毎日」を送るタクシー運転手・諸星信也の心にも受け継がれている。そしてその中に、赤色革命につながるような理念も、すでに生じているのかもしれない。
魯迅=本国ではルー・シュンと発音するとか。小5のときのオラのクラスに迅と書いてシュンと読ませる名前の男の子がおっただ。シュンコちゃんと呼ばれるくらいかわいらしい。でも水泳もピアノも習ってて勉強もできて、人格的にも小5にしてひとかどの人物。小6でそこから去ったオラは後に彼が慶応中学へ進んだらしいと知る。小学校からエスカレーター式に上がってくる、生まれながらに支配階級にいるようなフシュウ漂うセレブたちに囲まれても、彼ならスポイルされないで立派に育ってると思う。ああ、フシュウの人は慶応じゃなくて学習院か。スピリッツ誌を読んでるとも聞くのだが(フシュウの人がね)、革命思想も隠し持つような『闇金ウシジマくん』は飛ばしてるかも。熟読してるとしたら、ちょっとばかり好感度アップだわよ。今さら遅いけどな。



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