豊臣秀吉がしたこと、すごいところを簡単にわかりやすくまとめ

豊臣秀吉がしたこと、すごいところを簡単にわかりやすくまとめ

安土桃山時代の日本史に出てくる『豊臣秀吉がしたこと』がよくわからない!信長の草履を温めた人がなぜ天下統一したの?関白って何?太閤検地とか刀狩令にはどんな意味があったのか簡単に知りたい。出来事や大事なポイントがよくわかる。教科書に載っている ”豊臣秀吉がしたこと” をわかりやすくまとめてみましょう。

教科書に載っている豊臣秀吉がした有名なこと

豊臣秀吉は日本の戦国時代に活躍(かつやく)した武将で、織田信長の草履(ぞうり)を温めた逸話(いつわ)で知られています。

農民として生まれた豊臣秀吉は織田信長に仕えて出世し、最終的に天下統一をしました。

まずはじめに、主な出来事をまとめた「豊臣秀吉の簡単な年表」を見てみましょう。

豊臣秀吉の簡単な年表

山崎の戦い(1582年)
関白(かんぱく)就任(1585年)
バテレン追放令(1587年)
刀狩令(かたながりれい)(1588年)
天下統一(1590年)
朝鮮(ちょうせん)出兵(1592年、1597年)
以上が、豊臣秀吉の重要な出来事です。

このほか、太閤(たいこう)検地(1582〜1598年)の政策も教科書に()っています。

それでは、豊臣秀吉がしたことを順番に大事なポイントと合わせて紹介(しょうかい)します。

1582年:山崎の戦い

山崎の戦いのポイント
  • 本能寺の変で明智光秀が織田信長を倒した。
  • 豊臣秀吉が明智光秀を討った。
  • 豊臣秀吉が織田家を支配するきっかけになった。
本能寺の変と山崎の戦いのあった場所(1582年)

1582年7月2日に起こった山崎の戦いは、豊臣秀吉が織田信長の(かたき)である明智光秀を討った戦いです。

天下統一に(せま)っていた織田信長が、これより11日前に起こった本能寺の変で自害しました。本能寺の変を起こしたのは、明智光秀でした。

豊臣秀吉と明智光秀はともに信長の家臣でしたが、信長を自害させた光秀を討つことにより、豊臣秀吉が織田家を支配するようになりました。


山崎の戦いを
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京都で本能寺の変が起こったとき、秀吉は備中国(びっちゅうのくに)(岡山県)で毛利氏と戦っていました。信長の死を知り、秀吉は毛利氏との戦いをやめて大急ぎで京都に向かいました。

(おどろ)くべきスピードで()けつけた秀吉は、ただちに光秀を撃破(げきは)しました。このときの(ちょう)高速移動は『中国大返し』と呼ばれています。

1585年:関白就任

関白就任のポイント
  • 摂関家に養子に入って関白になった。
  • 朝廷の権威を得て戦国大名を従えた。
  • 豊臣秀吉を名乗るようになった。
豊臣秀吉は朝廷の最高位である関白に就任した(1585年)

1585年7月、豊臣秀吉は関白(かんぱく)に就任します。関白(かんぱく)とは、天皇を補佐(ほさ)して政務を行う役職のことで、秀吉は日本で2番めに高い身分になりました。

関白に就任した秀吉は、朝廷(ちょうてい)の権力を背景にして全国の戦国大名たちを従えていきます。これに逆らった者は朝廷(ちょうてい)の敵と見なされ、討伐(とうばつ)する大義名分になりました。


関白就任を
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摂関家(せっかんけ)の血筋でなければ関白(かんぱく)になることはできない決まりでした。そこで秀吉は、摂関家(せっかんけ)のひとつである近衛前久(このえさきひさ)の養子になり、関白(かんぱく)職に就く資格を得ました。

これまで「羽柴」を名乗っていた秀吉は、関白に就任した翌年に正親町(おおぎまち)天皇から授かった「豊臣」を名乗るようになりました。

1587年:バテレン追放令

バテレン追放令のポイント
  • キリスト教の布教を禁止した。
  • 南蛮貿易は禁止しなかった。
【バテレン追放令】豊臣秀吉が行った布教禁止政策のイメージ(1587年)

1587年7月24日にキリスト教の布教を禁止するバテレン追放令を発令します。南蛮(なんばん)の宣教師を国外へ追放しました。

日本でキリスト教を広めることを禁じるものでしたが、貿易の利益と南蛮人(なんばんじん)から得られる知識が貴重だったため、南蛮(なんばん)貿易は奨励(しょうれい)しました。


バテレン追放令を
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秀吉はキリスト教の布教を認めていましたが、禁止にした理由があります。日本人が奴隷(どれい)としてヨーロッパに売られていたり、キシリタンが仏閣を破壊(はかい)していたためでした。

1588年:刀狩令

刀狩令のポイント
  • 農民が一揆を起こせないようにした。
  • 農民を農作業に専念させた。
  • 結果的に兵農分離が進んだ。
【刀狩令】豊臣秀吉が農民から武器を没収した政策のイメージ(1588年)

天下統一が近づいてきた1588年8月29日、豊臣秀吉は農民が武器を持つことを禁じる刀狩令(かたながりれい)を発します。

戦国時代の農民は戦いに借り出されることもあったので、家に武器を持っていました。秀吉は、農民が一揆(いっき)などの反乱を起こせないように武器を取り上げました。

大仏建立(こんりゅう)を理由にしたことで、ご利益があると信じた農民たちは喜んで武器を差し出しました。


刀狩令を
もうちょっと詳しく

刀狩令(かたながりれい)には、農民を農業に専念させるねらいもありました。結果的に兵農分離(へいのうぶんり)が進み、安定した年貢(ねんぐ)徴収(ちょうしゅう)が可能になりました。

刀狩令(かたながりれい)と同じタイミングで海賊(かいぞく)停止令も発令しています。海の民が武装することも禁じました。

1590年:天下統一

天下統一のポイント
  • 小田原征伐で北条氏を降した。
  • 奥州仕置を行い東北まで支配下に置いた。
  • 日本国内に対抗勢力がいなくなった。
豊臣秀吉が天下統一を果たす様子(1590年)

西日本の大名をすべて従えた豊臣秀吉に最後まで抵抗(ていこう)したのは、関東最大の勢力である北条氏でした。

1590年5月の小田原征伐(せいばつ)で、北条氏の小田原城を()めた秀吉のもとには伊達政宗など東北の大名も加わり、8月には北条氏も(くっ)しました。

西日本から関東まで制覇(せいは)した秀吉は、奥州仕置(おうしゅうしおき)を行って東北も統制し、天下統一を達成しました。


天下統一を
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北条氏の小田原城は総構えで9kmにもおよぶ要塞(ようさい)でした。豊臣秀吉はこれを武力で()めることをせず、たくさんの兵力で包囲して降参させました。

秀吉は、北条氏の領地だった江戸に徳川家康を移します。この出来事が後の江戸の開発につながり、現在の東京が首都となるきっかけとなりました。

1592年、1597年:朝鮮出兵

朝鮮出兵のポイント
  • 朝鮮への出兵は2回行っている。
  • 明を征服するのが目的だった。
  • 明に攻め入るために朝鮮半島から侵略した。
  • 豊臣秀吉が病没して戦争が終わった。
豊臣秀吉が行った朝鮮出兵ルート図(1592年)

豊臣秀吉の朝鮮(ちょうせん)出兵は、1592年の文禄(ぶんろく)(えき)、1597年の慶長(けいちょう)(えき)で2回行われています。

日本を制覇(せいは)した秀吉は、つぎは(みん)国を征服(せいふく)しようと考え、朝鮮(ちょうせん)半島から(みん)へ攻め入ろうとしました。

1593年の停戦を経て、再び朝鮮(ちょうせん)に出兵しますが、1598年に豊臣秀吉は病気で亡くなりました。秀吉の死により、朝鮮(ちょうせん)から撤兵(てっぺい)しました。


朝鮮出兵を
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秀吉は、朝鮮(ちょうせん)が日本に服従していると誤解していました。(みん)との戦いでは朝鮮(ちょうせん)が味方をすると考えていましたが、朝鮮(ちょうせん)は日本軍の侵攻(しんこう)(はば)みました。

秀吉は日本にいて、朝鮮(ちょうせん)(わた)って戦っていたのは大名たちでした。日本軍の多くは()えと寒さに苦しみ、戦争の続行を望んでいませんでした。

朝鮮出兵と関わりが深い武将
小西行長の顔イラスト
小西行長 朝鮮国との交渉を行ったが、秀吉の思惑どおりにならず、嘘でごまかした。やがて朝鮮出兵に発展した。

豊臣秀吉が実行した政策

太閤検地で生産量をデータ化した

1582年から1598年にかけて豊臣秀吉が行った検地を『太閤(たいこう)検地』と呼びます。

全国の生産量を正確に把握(はあく)するために収穫(しゅうかく)した米を量る(ます)のサイズを(そろ)えるなど、これまで曖昧(あいまい)だった測量方法を統一しました。

太閤検地で規格が統一された計量用の枡

田畑の大きさや収穫量(しゅうかくりょう)をもとにランク付けし、全国の生産量を見える化したことで、公平に年貢(ねんぐ)徴収(ちょうしゅう)できるようになりました。

秀吉は、太閤(たいこう)検地で田畑と農民を一対にする『一地一作人(いっちいっさくにん)』を義務付け、年貢(ねんぐ)を納めるべき人を明確にしました。

太閤(たいこう)検地は、土地の生産力を米の量で表す「石高制(こくだかせい)」を確立しました。

太閤(たいこう)検地によって、奈良時代から続いていた荘園(しょうえん)が消滅しました。

身分統制令で身分を固定した

身分統制令』は1591年に定められた法令で、農民はずっと農民、武士や商人になることを禁じるものでした。

この法令は、農民が田畑を(はな)れることを禁じ、生産性を安定させました。その結果、兵農分離(へいのうぶんり)が進み、太閤(たいこう)検地の一地一作人(いっちいっさくにん)の制度が最大限に活用されました。

身分統制令により、個々の身分が固定され、秀吉のような才能ある人物が武士に転職することも抑制(よくせい)されました。

キリシタンを処刑するなど迫害した

1587年にバテレン追放令を発した秀吉でしたが、南蛮(なんばん)との貿易は続けていました。それからしばらく経った1596年、土佐国(とさのくに)にスペイン船サン・フェリペ号が漂着(ひょうちゃく)します。

その乗組員が「スペインは領土を拡げるために宣教師を利用し、キリスト教の信者を増やしてその国を征服(せいふく)する」と話しました。

これを聞いた秀吉は激怒(げきど)し、キリスト教の宣教師や信者26名を()らえ、見せしめのために市中を引き回すなどしたうえで長崎に運び、4千人の群衆の前で処刑(しょけい)しました。

この『日本二十六聖人』事件をきっかけに、秀吉はスペインとの国交を断絶しました。

先のバテレン追放令もそうですが、秀吉がキリスト教に厳しくしたのは、日本人や日本の領土を異国から守るためでした。

豊臣秀吉はどうやって天下統一した?

朝廷の地位を利用した

農民から出世した豊臣秀吉は、武家を支配するために朝廷(ちょうてい)の地位を利用しました。

朝廷(ちょうてい)とは、天皇を中心とした皇室とその周辺で政務を行う機関のことで、朝廷(ちょうてい)の高位とは天皇に近い身分の高い人々でした。

そこで豊臣秀吉は、関白(かんぱく)という地位を利用しました。

関白(かんぱく)になったことで、秀吉に従わない者は天皇の敵という図式が成り立ち、討伐(とうばつ)する正当な理由になりました。

こうして秀吉は世論を味方につけ、大名たちを従えていったのです。

関白を選んだ理由

豊臣秀吉が武士の頂点である征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)ではなく、朝廷(ちょうてい)のトップである関白(かんぱく)を選んだのはなぜでしょう?

一説では、秀吉の出自が武家の伝統に合わず、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になれなかったと言われています。そのため、秀吉は朝廷(ちょうてい)とのつながりを強めて関白(かんぱく)になることを選びました。

朝廷(ちょうてい)のトップの立場から、諸大名に争いを禁じる『惣無事令(そうぶじれい)』を発して、争いをやめない武家たちを討伐(とうばつ)しました。

織田信長の天下統一との違い

織田信長は武力をもって大名たちから領地を(うば)うやり方で天下統一を目指しました。

一方、豊臣秀吉の天下統一は、敵意のない者や敵対した者であっても領地をそのまま残しました。そのため、大名たちも「従っておいたほうが得」と考えたのです。

信長の死からわずか8年というスピードで、秀吉は天下を統一しました。

豊臣秀吉のイラスト
豊臣秀吉のハナシを読む

豊臣秀吉(羽柴秀吉、木下藤吉郎)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将・大名です。貧しい身分の出ですが、織田信長のもとで頭角を現し、出世していきました。信長の死後、巧みな手腕で全国の大名を従えていき、天下統一を果たします。天皇に次いで身分が高い、関白・太政大臣まで上りつめました。享年62。

豊臣秀吉がしたことのまとめは以上です。
つづいて【織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の関係】についてまとめたページがおすすめです。

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