ほんだ まさのぶ

本多正信

1538.?〜 1616.7.20

 
本多正信の面白いイラスト
  

本多正信(正保)は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。三河一向一揆のおりに独立直後の徳川家康に叛いて一揆勢に与し、出奔しますが、許されて帰参します。徳川氏の関東転封の頃から重臣に加わると、陰謀において数々の知恵を発揮し、家康から「友」と呼ばれました。江戸幕府創成期に活躍。享年79。

本多正信は何をした人?このページは、本多正信のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと本多正信が好きになる「政敵を封殺する陰謀の数々で晩年の黒い家康を創出した」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:本多正保 → 本多正信
  • 官 位:従五位下、佐渡守
  • 幕 府:関東総奉行、老中
  •  藩 :玉縄藩主
  • 出身地:三河国(愛知県)
  • 居 城:玉縄城
  • 正 室:寿林尼
  • 子ども:3男 2女
  • 跡継ぎ:本多正純
  • 父と母:本多俊正 / 不明
  • 大 名:徳川家康 → 出奔 → 帰参

政敵を封殺する陰謀の数々で晩年の黒い家康を創出した

佐渡殿(さどどの)雁殿(かりどの)、お六殿(ろくどの)」これは晩年の徳川家康の大好物といわれたものです。

雁殿(かりどの)とは(たか)狩りのこと、お六殿(ろくどの)とは36歳下の側室のこと。そして、佐渡殿(さどどの)とは本多佐渡守(さどのかみ)正信のことを指しています。

本多正信とは、江戸幕府の開府から戦国期の終末まで徳川家康の腹心(ふくしん)であった政治参謀です。本多正信と相談をするとき、家康はこれを寝室に呼んでなにやらヒソヒソと話しました。

本多正信と相談をするとき、家康はこれを寝室に呼んでなにやらヒソヒソと話しました。本多正信とのおしゃべりは家康の楽しみであり、謀略に華を咲かせるひとときでした。

用心深い家康が本多正信には脇差を(たずさ)えたままでも部屋に入ることを許しており、ドラマでは家康をマッサージしながら話すシーンもよく見ます。

まさしく気の置けない友といった関係でした。


大御所さまの
知恵袋

三河一向一揆のあと1564年に家康のもとを出奔(しゅっぽん)し、つまづいていた本多正信のキャリアは、1570年頃に徳川家に復帰を果たしてから好転します。

鷹匠(たかじょう)だった本多正信は、家康の趣味である(たか)狩りに同行。

ゴルフでいうキャディさんのような立場から気の利いた助言をして家康を喜ばせました。

1590年に豊臣秀吉が天下を統一したあとは、これまでと変わってゴリゴリの武断派(ぶだんは)よりも頭が良い文治派(ぶんじは)がもてはやされるようになります。

本多正信はまさにこの流れにのった格好で、事務的な処理に非凡さを発揮し、能吏(のうり)として家康に取り立てられます。

秀吉が亡くなり、家康が台頭するとこれに石田三成が反発しました。本多正信はこれを利用する策を提案します。

三成と加藤清正らを対立させて豊臣家を分断。
三成を嫌う武将たちを家康に(なつ)かせたうえで、石田三成をアイコンに反徳川派を結集させ、1600年の関ヶ原の戦いで一気に叩いて排除しました。

ふたりは陰謀を語るとき「こうなると」「うふふ」といったように言葉を発せずとも内容を理解して、あうんの呼吸で会話ができました。

こうして「(たぬき)」と呼ばれる晩年の黒い家康に変貌(へんぼう)したのでした。


方広寺の鐘に
因縁をつける

1603年に江戸幕府がひらかれて天下泰平へと向かうなか、目の上のたんこぶだったのが豊臣家でした。

かつての天下人である秀吉の威光はないものの、豊臣家は反徳川の()り所になっていました。反乱分子になりかねないリスクです。

しばらくして、1614年に『方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件』が起こります。

豊臣家が再建した方広寺(ほうこうじ)釣鐘(つりがね)に彫られた「君臣豊楽(くんしんほうらく)」と「国家安康(こっかあんこう)」の文字をみて「豊臣の字は並んでいるのに、家康の名を割ったな!呪ったな!」と言いがかりをつけたのです。

【方広寺鐘銘事件】国家安康の文字に言いがかりをつけた

鐘の文字を指摘したのは本多正信だったといいます。

これを口実に大坂の陣が勃発。家康は豊臣氏を攻め滅ぼしました。

本多正信のズル賢い策によって、徳川政権は泰平の世を築いてゆくのでした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1538年、本多正信は三河国(みかわのくに)・小川的場丘城(まとばおかじょう)に本多俊正の次男として生まれます。徳川家康が独立する前から仕えますが、三河(みかわ)一向一揆で一揆勢に加わり対立。一揆が鎮圧されると出奔(しゅっぽん)して、一揆が盛んな加賀国(かがのくに)に移りました。その後、大久保忠世のとりなしで徳川家に復帰し、鷹匠(たかじょう)としてふたたび家康に仕えます。

江戸幕府の中核へ

武田家滅亡後の遺領を治める大役を任され、やがて家康の側近になると江戸幕府の政治中枢を担い、智略(ちりゃく)を尽くして徳川氏の統治を盤石(ばんじゃく)なものにしました。江戸初期の幕政を牛耳(ぎゅうじ)った大物ですが、周囲から(ねた)まれ、政敵とのいざこざが絶えませんでした。

最後と死因

一度でも家康を裏切った事実を払拭(ふっしょく)するために腐心(ふしん)し、晩年まで働きつづけましたが、家康が亡くなった2か月後に本多正信はあとを追うように亡くなりました。1616年7月20日、死因は不明。79歳でした。

領地と居城

本多正信の領地・勢力図(1603年)

相模国(さがみのくに)・玉縄2万石ほどが本多正信の領地でした。多大な影響力を持った政治参謀であったにもかかわらず、これ以上の加増を欲しませんでした。

本多正信の性格と人物像

本多正信は「腹立たしいほど察しがいい人」です。

自分のアイデアであっても、上司が思いついた名案であるかのように(うなが)します。出しゃばった真似はしません。上司が考えと合わないことを言っているあいだは寝たふりでスルーします。

家康が正信にべったりなので、周囲からはご機嫌取りと(うと)まれました。

東国一と称された豪傑(ごうけつ)・本多忠勝とは、8代前のご先祖さまが兄弟という遠い親戚です。

が、出戻りであるうえ戦場で役に立たないとして、忠勝ら武功派から「腰抜け」「腸が腐っている」と毛嫌いされています。

自らの所領を少なく保ったのは、正信を(こころよ)く思わない武功派を刺激しないためでした。

鷹匠(たかじょう)を務めていたので(たか)の扱いが上手です。妻子そっちのけで一向一揆に加わるほど熱心な一向宗の信者。墓所は京都西本願寺にあります。

いくさで(ひざ)を負傷し歩行障害があり、足を引きずっていました。

天下国家の統治について記した『本佐録(ほんさろく)』の著者とされていますが、引用されている文献が死後の時代のものであることから、おそらく著者ではありません。

能力を表すとこんな感じ

本多正信の能力チャート

本多正信は、およそ武将というよりも行政官の能力に優れています。ズルい発想も黒い部分も含めて政治力がありました。武道はからっきしです。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する本多正信の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

本多正信の面白い逸話やエピソード

家康のもとを出奔していた時期は謎だらけ

三河(みかわ)一向一揆で徳川氏(当時は松平氏)から離脱したあと、正信がどう過ごしたのか諸説あります。

家康のもとに復帰した時期についても、1570年復帰説、1582年復帰説があり、謎です。


爆死で有名な
松永久秀に仕えた?

三河(みかわ)から大和(やまと)に流れて、松永久秀を頼ります。松永らが将軍を暗殺する事件を起こしたので出奔(しゅっぽん)して加賀(かが)に移りました。

久秀は本多正信のことを「徳川の侍には珍しく武勇一辺倒(いっぺんとう)ではなく、強くも弱くも卑怯(ひきょう)でもない。非常の器である(並の者ではない)」と評したといいます。


加賀一向一揆で
織田軍と戦った?

加賀(かが)での正信は、三河(みかわ)一向一揆で家康と戦った武将として歓迎されます。

信仰心が強い一向宗門徒である正信は加賀(かが)一向一揆に加わり、織田氏の北陸征伐軍を率いる柴田勝家と戦ったとされます。

しかし、勝家が加賀(かが)一向一揆と戦ったのは1580年頃ですので、1570年に正信が徳川家に復帰していたとすれば、この可能性はほぼありません。

秀忠の将軍就任には反対だった

関ヶ原の戦いのおり、家康の三男・徳川秀忠は上田城の真田昌幸を攻めました。秀忠が徳川軍本隊3万8千の兵を連れていたため、正信はなるべく早く関ヶ原に向かうべきと説きます。

秀忠はこれを無視して上田城を攻め、惨敗したうえに関ヶ原に参陣できませんでした。

秀忠に失望した正信は、家康の次男・結城秀康を推しメンにします。

結局、2代目将軍には徳川秀忠が就任し、数年後、ここでの秀忠不支持が正信の跡を継いだ本多正純の改易(クビ)というブーメランになって返ってきてしまいました。

石田三成の遺児を助けた

関ヶ原で家康に敗れた石田三成は処刑されました。

三成の遺児・重家をどうするべきか?と正信は家康から相談を受けます。

敗軍の大将の嫡男(ちゃくなん)であればふつうなら殺されるところですが、三成が敗れた直後に重家は臨済寺(りんざいじ)の坊さんになってしまいます。
そのうえで徳川氏に歯向かわないことを誓っていました。

おいそれと斬るわけにもいきません。

そこで正信は「重家の父・三成は徳川家に大きな功を立てましたから、それを考慮すべきでしょう」と答えます。

家康が「大きな功?どんな?」と訊きます。

正信「三成は西国(さいごく)大名を集めて関ヶ原という無用の(いくさ)を起こしました。おかげで日本中が徳川家に服しました

家康「なるほど。一理ある」

家康は石田重家を赦免(しゃめん)しました。

本多正信の有名な戦い

桶狭間の戦い おけはざまのたたかい 1560.6.12 ● 今川軍2万5千 vs 織田軍3千 ○

尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。

桶狭間の戦いで本多正信は敗れています。

家康の指揮下で織田領・丸根(とりで)を攻めています。その際、(ひざ)を負傷してしまい後遺症が残りました。

三河一向一揆 みかわいっこういっき 1563.?〜 1564.2.27 ● 一向一揆? vs 松平軍? ○

上宮寺や勝鬘寺(ともに愛知県岡崎市)などの寺社を拠点とした本願寺門徒と松平元康の争い。今川氏から独立して三河の支配を強める松平氏が、上宮寺から無理に兵糧を奪ったことを発端とする一向一揆。本多正信らが一揆に加担し、松平家中で家康に反する内紛が起きた。

三河一向一揆で本多正信は敗れています。

本多正信のターニングポイントになった戦いです。
家康に反して一揆勢に加わりました。しばらく争ったのち、一揆が鎮圧されると同時に出奔(しゅっぽん)します。これ以降、しばらくのあいだ一向宗を率いた将として過ごしています。

姉川の戦い あねがわのたたかい 1570.7.30 ○ 織田&徳川軍3万 vs 浅井&朝倉軍2万 ●

浅井&朝倉軍と、織田信長の援軍で参陣した徳川家康が姉川(滋賀県長浜市野村町)で激突した合戦。本多忠勝が一騎討ちで真柄直隆と渡り合うなど、徳川軍の活躍が目覚ましく、榊原康政の突撃で朝倉軍は敗走。激戦で姉川は血に染まり、血原や血川橋という地名を残した。

姉川の戦いで本多正信は勝っています。

この頃から徳川家に復帰した正信は、いいところを見せようと敵陣に深入りして、捕まりそうになりました。

本多正信の詳しい年表と出来事

本多正信は西暦1538年〜1616年(天文7年〜元和2年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

15381本多俊正の次男として三河国に生まれる。
156023”桶狭間の戦い”織田信長との戦に参加。松平元康(徳川家康)の指揮下で丸根砦を落とす。膝を負傷し後遺症が残る。
156326”三河一向一揆”松平氏に叛いて弟・正重と一揆勢に加わる。
156427松平元康に一揆勢が鎮圧される。松平氏を出奔。加賀国に移住する。
※三好家臣・松永久秀に仕えたかもしれない。
156528長男・正純が生まれる。妻子を大久保忠世に保護してもらう。
157033大久保忠世のとりなしで鷹匠として徳川家康に仕える。
”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。
158245織田信長のもとに出向く徳川家康に同行して上洛。摂津国・堺の見物を楽しむ。
織田信長が死亡。【本能寺の変】
明智光秀の軍勢に追われる徳川家康を護衛して畿内を脱出。土豪を懐柔する。【伊賀越え】
武田旧臣を徳川氏に取り込む。旧武田領の甲斐国と信濃国の統治を任される。【天正壬午の乱】
158447”小牧・長久手の戦い”羽柴(豊臣)秀吉との戦に参加。
159053徳川家康から相模国・玉縄を拝領する。
160063”第2次上田合戦”徳川秀忠の指揮下で真田昌幸との戦に参加。上田城に苦戦し関ヶ原に遅刻する。城攻め中止を進言するも無視される。
160164徳川家康を将軍に擁立するために朝廷と交渉する。
本願寺の内乱に乗じて分裂策を徳川家康に献策する。本願寺の勢力を弱める。
160366徳川家康の側近として幕政を主導する。【江戸幕府の創設】
160467次男・政重を上杉家臣・直江兼続の娘(於松)の婿として養子に出す。
160568主君・徳川家康が隠居。次代・徳川秀忠に仕える。
161275長男・正純の家臣・岡本大八が朱印状偽装で処刑される。【岡本大八事件】
161376讒言により大久保長安を失脚させる。【大久保長安事件】
161477方広寺の釣鐘に彫られた「国家安康」の文字が不敬であるとして豊臣秀頼を責める。【方広寺鐘銘事件】
161679主君・徳川家康が死去。
長男・本多正純に家督を譲って隠居。
死去。
戦国時代で本多正信が生きた期間の表
本多正信の顔イラスト
お仕事のご依頼はこちら