源頼朝と結ばれ、頼朝亡き後は尼将軍となり、鎌倉幕府を支えた北条政子。朝廷が起こした承久(じょうきゅう)の乱の際、御家人たちを奮い立たせ、鎌倉幕府の勝利につなげた演説でも知られています。政子は、日野富子(ひの・とみこ)や淀殿(よどどの)と並んで日本三大悪女などとも呼ばれますが、実は、つらい運命を生きた悲劇の女性でした。その壮絶な人生を、振り返ってみましょう。

北条政子と弟の義時。「中世の女性がそうであったように、政子も実家と強いつながりあり、実家が栄えるように努めました」(加来氏)(画:中村 麻美)
北条政子と弟の義時。「中世の女性がそうであったように、政子も実家と強いつながりあり、実家が栄えるように努めました」(加来氏)(画:中村 麻美)

 初代鎌倉殿、源頼朝の御台所(みだいどころ:正妻)で、後に尼御台、尼将軍などといわれた北条政子。実は「北条政子」という名は、本名ではありません。仮の名です。

 中世日本には言霊(ことだま)信仰があり、声に出した言葉が現実の事象に何らかの影響を与えると信じられていました。その1つに女性の名前があり、本名を語る、あるいは公表すると、その女性に凶事が起こるとされていました。

 あの紫式部も清少納言も、宮中で呼ばれていた通称で、本名は不明です。天皇家の皇女は○○内親王と呼ばれ、系図などに表記されていますが、おそらく家族の間で呼び合っていた本名は別にあったと思います。

 貴族の系図にも、藤原○○女などと記され、名前が載っていないことが多いのは、読者の皆さんもご存じのことと思います。

 女性の本名を知っているのは父母、兄弟姉妹、それに夫だけでした。

 これはイスラム教の世界で、女性は親族の男性以外には、髪や顔、肌を隠したのと、同じような感覚と考えてよいでしょう。

「北条政子」の名前の由来

 ちなみに男性の名前は、隠しません。ですが本名で呼びかけられるのは、親や主君、本人より身分の高い人などに限られていました。

 それ以外の人が、本名で呼びかけることは無礼とされていたのです。

 例えば織田信長のことを、羽柴秀吉が「信長様」と呼ぶなど、絶対にあり得ないことでした。「信長」と呼べるのは、身分が上の足利将軍か天皇くらいのもの。

 家来は、主君のことを例えば「お館(やかた)様」と呼びます。信長が「天下布武」の印を使い始めてからは、「上(うえ)様」と呼ばれていました。家来ではなく、所領持ちの武家同士の場合は、官位で呼んでいました。例えば徳川家康は、信長を「右府(うふ:右大臣の別称)殿」と呼んでいたでしょう。

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で頼朝は坂東(ばんどう)武者たちから、“鎌倉殿”と呼ばれる前は、佐(すけ)殿と呼ばれていました。これも頼朝が13歳のとき「右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)」という官位に任ぜられていたことから、このように呼ばれたものでした。

 では、「北条政子」という名前はどこで生まれたのでしょうか。

 頼朝が亡くなって19年後、政子の次男・源実朝(さねとも)が3代鎌倉殿だった健保(けんぽう)6(1218)年4月、62歳となった政子は、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)から従三位(じゅさんみ)に叙せられることになりました。このときに手続き上、位階(貴族の序列)を与える相手の名前が必要になったのです。

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