電力改革から街づくりまで、震災10年目の今も完成しない被災地改革。その根底には、自律性に乏しく国に“従属”せざるを得ない地方自治システムがある。震災後に起きた「新しい自治」を模索する動きもまたゴールから遠い状況にある。

“万里の長城”と呼ばれた防潮堤の一部が壊れ津波に襲われた岩手県宮古市田老地区。今、新しい防潮堤の整備が進んでいる
“万里の長城”と呼ばれた防潮堤の一部が壊れ津波に襲われた岩手県宮古市田老地区。今、新しい防潮堤の整備が進んでいる

 「海が見えなくて寂しい。昔はここから海が見えて砂浜で遊んだ。毎日海を見られることがここに住む特権だと子供心に思っていた。“万里の長城”の建設は始まっていたけど、まだ海は見えた。でも“万里の長城”がどんどん長くなってね。それから40年、俺は“要塞暮らし”だよ」

 岩手県宮古市田老地区で生まれ育ったA氏(65)はこう話を切り出した。A氏が言う万里の長城とは、1934年から約40年かけてこの地に建設された「田老の防潮堤」のことだ。過去、何度も津波で被害に見舞われた歴史から、総工費50億円以上をかけて造られた長さ2433m、高さ10mの世界最大級の二重防潮堤。そんな巨大な壁に向き合っての暮らしをA氏は“要塞暮らし”と表現する。

要塞崩れ、4分で飲み込まれた街

 20代から始まった“要塞暮らし”。A氏がそれを受け入れたのは、津波が再び来ても“要塞”があれば、自分と仲間の命を守ってくれると思っていたからだ。しかし2011年3月11日、黒い巨大津波は防潮堤の一部を壊し、わずか4分で田老の街を飲み込んだ。地区全体で約1000戸以上が被災し、死者・行方不明者は180人を超えた。

 今、田老では、新しい防潮堤の整備が進んでいる。従来の防潮堤よりも4.7m高い“新・万里の長城”を目の前にして、A氏は「理想を言えば、この新しい防潮堤は造らなくてもよかったのではないか」と話す。

 10年前の事実が証明したように、どんなに防潮堤を高くしても万全の津波対策にはならない。一番の対策は高台に逃げることだ。実際、1896年には明治三陸大津波、1933年には三陸大津波と度重なる津波の被害を受けて来た一帯では古くから「津波起きたら命てんでんこだ」といわれてきた。「津波が来たら、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」という意味だ。「防潮堤に頼るな」は先祖からの警告なのだ。

 だとすれば、自分たちは東日本大震災を、“万里の長城”のさらなる増強ではなく、防潮堤に頼らない新しい津波との向き合い方を模索するきっかけにすべきではなかったのか――。これがA氏の思いだ。

 もちろん、12年に策定された地区の復興計画は、地元住民で何度も話し合って形の上では民主的に決めたものではある。だがA氏には、こと防潮堤の補強に関しては国や県からのプレッシャーを受けての結論ありきだったように思えてならない。

 「“万里の長城”が十分役に立たなかったからこそ、残りの時間は“要塞”の外で暮らしたいと願う住民は自分以外にも少なからずいる」。A氏はこうつぶやいた。

 東日本大震災であらわになった日本の課題は、原発に依存したエネルギー政策や地域の高齢化だけでもない。被災地を中心に多くの国民は、自立性に乏しく事実上国に“従属”せざるを得ない日本の地方行政の問題点も思い知らされることになった。

 「防潮堤問題は、自分たちの運命を自分たちで決めることができない今の地方自治の象徴」。行政学が専門の地方自治総合研究所主任研究員で、元福島大学教授の今井照氏はこう話す。

宮古市田老地区で被災したまま残るホテル。かつての防潮堤が十分役割を果たせなかったことを如実に示している
宮古市田老地区で被災したまま残るホテル。かつての防潮堤が十分役割を果たせなかったことを如実に示している

プレッシャーの中での合意形成

 「防潮堤に関しては、国がいきなり大きな計画を出してきた。自治体としては一時避難民もいることから時間をかけて議論したかったが、国から早期の決断を事実上要求されるプレッシャーの中で、慌てて合意形成せざるを得なかった。置き去りにされた人も少なくない」(今井氏)

 実際、被災地では震災後の防潮堤の建設に関し、計画が策定された後も各地で異論が相次いだ。岩手県大槌町では、2012年9月、NGO団体が防潮堤の高さを再考する機会を住民に与えるよう署名活動を展開し、町長に約6600人分の署名を提出。宮城県気仙沼市でも計画は県からの一方的なものとして市民が「防潮堤を勉強する会」を設立している。

 だが結局、被災地621カ所、総延長約400km、総事業費1兆円超の防潮堤計画は実行に移された。防潮堤の高さや堤防の位置を変更しつつも、現在、計画の75%が完成(20年9月時点)。皮肉なことに、被災者の高台移転などと並び、比較的順調に推移している被災地改革の1つとなっている。

 もっとも震災後、行政決定における自分たちの無力を被災者が痛感したのは、防潮堤の件だけではない。ここまで紹介した電力改革も新産業育成も街づくりも、その多くが震災10年目の今も完成しない根底には、国が首を縦に振らない限り何も物事を進められないシステムがあると言っていい。

毎年7月に開かれる伝統行事「相馬野馬追」では甲冑を着た騎馬武者たちの勇壮な姿を見ることができる
毎年7月に開かれる伝統行事「相馬野馬追」では甲冑を着た騎馬武者たちの勇壮な姿を見ることができる

 当然のことながら、震災後は、こうした状況を打開しようと「新しい自治」を模索しようとする人々が被災地の各地で生まれた。震災後すぐに非営利団体「相馬救援隊」(南相馬市)を発足させた相馬行胤代表理事もその一人だ。

 鎌倉時代からこの地を治めた藩主の末裔(まつえい)である相馬氏が、被災地への救援物資運搬など復興活動を手掛けながら目指したのは、「そこに暮らす人が自分たちの意思で地域の産業や文化を育むこと」。その一環として15年には、独自の構想を打ち出した。

 毎年7月に開かれる伝統行事「相馬野馬追」でも知られる地域の馬事文化をベースに、全国有数の“馬の里”を築くというものだ。具体的には、JRAで年間5000頭に及ぶ引退する競走馬を少しずつ受け入れ、やがて5万頭ほど養う広大なエリアを完成させる。強力な観光資源になる上、津波の被害を受けた農地の利活用策としても有効な手立てに思えた。

相馬救援隊の代表理事である相馬行胤氏は馬事文化をベースにした地域づくりを目指す
相馬救援隊の代表理事である相馬行胤氏は馬事文化をベースにした地域づくりを目指す

 だが、これまでのところ構想は実現していない。立ちはだかったのは農地法による農地転用規制だ。農地法では、農地と定めた地域を農業以外の目的に使うことを原則禁じている。

 農地法の規制は、農地と農家を守るためのもの。「だが震災を機にかつての農地の多くは荒地となり、後継ぎがいない事業者も増えている。当の農家の方からも『いいアイデア』という声を頂いた」。相馬氏はこう振り返る。なぜ、地域に暮らす者が地域の未来を決める仕組みになっていないのか――。

国のルール、勝手に曲げられない

 福島県の海沿いに面する南相馬市で、コワーキングスペースを運営する小高ワーカーズベースを経営する和田智行社長も震災後、「自分たちの地域の問題を自ら決められない現状」に不満を抱いた起業家の一人だ。

 被災後、同じ福島県の会津若松市などに避難していた和田氏が帰郷したのは14年。故郷に戻った後、移住者を雇いながら会社を運営した。コワーキングスペースを使いながら事業を起こそうとする少しずつ人が増える中で、若い人材を地元に呼び込めないかと考えたのが、空いている市営住宅を活用し移住者を受け入れることだった。

小高ワーカーズベースを経営する和田氏は「自分たちで地域の将来を考え、自分たちで未来をつくっていかないと」と話す
小高ワーカーズベースを経営する和田氏は「自分たちで地域の将来を考え、自分たちで未来をつくっていかないと」と話す

 南相馬市が管理する市営住宅は、罹災者(りさいしゃ)向けを除けば1000戸余り。入居率は70%台で、余裕はある。安いところでは1万円程度だ。例えば起業家志望の若者を集め、コワーキングスペースでビジネスを生み出す。うまくいけば、地域の若返りと産業振興を同時に進めることが可能になる。

 しかし市の反応は鈍かった。国の補助金を使って建設した市営住宅の利用条件を、自分たちの都合で変えるわけにはいかない、というのだ。現状のルールでは利用は原則として家族単位で、単身者であれば60歳以上でなければならない。

 「街には何もないのだから、自分たちで地域の将来を考え、自分たちで未来をつくっていかないと。それができなければ街はさらに沈んでいくのではないか」。和田氏は当時の思いをこう話す。

 震災後に起きた「新しい自治」を模索する動きもまた、ほかの被災地改革同様、ゴールからはまだ遠い状況にある。

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