日経ビジネスは2018年10月29日号で特集「星野リゾート 世界への成功方程式」を掲載。関連記事を日経ビジネスオンラインで随時、公開する。

 星野リゾートでは社員の働き方やサービスのあり方などをめぐってさまざまな「事件」が起こる。星野佳路代表は「事件のなかにこそ、課題を解決するヒントがある」と前向きな姿勢で臨む(以下敬称略)。

星のや京都は星野リゾートの最高級施設の一つで、京都・嵐山にある(写真:大亀京助)
星のや京都は星野リゾートの最高級施設の一つで、京都・嵐山にある(写真:大亀京助)

 星野リゾートは、現場のスタッフに権限を委譲し、仕事を任せている。背景には、米国の経営学者、ケン・ブランチャード氏の著書『社員の力で最高のチームをつくる――1分間エンパワーメント』がある。

 1991年に現トップの星野佳路が父から経営を引き継いだとき、企業体質は古く非効率が目立った。このため、星野はトップダウンで改革に着手。成果が出始めたとき、別の問題が浮上した。社員の離職だ。

 宿泊業はスタッフが定着しなければ、安定したサービスを提供するのが難しい。そのままでは顧客満足度は上がらないし、売上高も伸びない。星野は「辞めないでほしい」と説得したが、とどめることができなかった。

 トップダウンの星野に対し、社員は言われた通りに動くことに疲れていた。社員は考えを主張する機会もなく、不満だけが募っていた。そしてそれが退職につながっていた。状況を打開するために星野が参考にしたのが、ブランチャード氏の『社員の力で最高のチームをつくる――1分間エンパワーメント』だった。

 同書を参考に、社員に自由に発言してもらうことによって社内の議論を活発化。フラットな組織作りによって前向きな気持ちになった社員に対して仕事をどんどん社員に任せた。モチベーションアップが進む中で清掃、調理、フロントなどの業務を兼務する独自の「マルチタスク」の働き方を導入。一連のエンパワーメントの取り組みがその後の成長の礎となった。

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社員の力で最高のチームをつくる――1分間エンパワーメント
ケン・ブランチャード著
社員の能力を生かして組織を再生する手順をストーリーによって示す

 「わかりやすく言えば、いい仕事をしたいと社員は思っている。適当にやればいいなどと誰も思っていない。その力をどう引き出すかが大切だと本書によって知った」と星野は話す。

 そのためにはスタッフの力を信じる。そして、管理するのでなくスタッフを自由にする。目標や価値観、ビジョンを決めて取り組んでもらう。「情報の格差が自分の権益になっている中間管理職を除けば、この手法に反対する人はいない。ポイントはスタッフを自由にするということなのだから」と星野は説明する。

 同書の特徴は、エンパワーメントの実現には困難な時期が来ることを記している点だ。

 なかなか成果が出ない「混乱と不満の段階」では、この手法に対して抵抗感が出てくる。星野はそのことを自らの経験からよく知っている。このため、「困難を切り抜ける覚悟を固めておくことが大切。中途半端にしないで信念を貫く必要がある」と強調する。実践度は高く、組織づくりを進めるうえで、同書の考え方を一貫して参考にしてきた。

船着き場のベテランの決意

星のや京都の宿泊客は船で旅館を訪れる(写真:大亀京助)
星のや京都の宿泊客は船で旅館を訪れる(写真:大亀京助)

 エンパワーメントによって盤石に見える星野リゾートの働き方だが、ときには亀裂が入りそうになることがある。

 星のや京都(京都市)は客室稼働率が9割と高いうえに、客室平均単価が9万3000円というハイグレードな施設だ。それだけスタッフの働き方の異変はサービスに影響を与える可能性がある。

 同施設で働くスタッフはパートも含めて約100人いる。その1人である野口義洋はホテルの専門学校を経て2001年に新卒で星野リゾートに入社。先代までの温泉旅館があった時代を知る数少ないメンバーだ。

 入社してからずっとマルチタスクで働いてきた野口は、創業地である長野県軽井沢町のホテルブレストンコートや界出雲(島根県松江市)での勤務を経て09年、星のや京都の開業と同時に赴任した。

野口は先代までの温泉旅館があった時代を知る数少ないメンバー
野口は先代までの温泉旅館があった時代を知る数少ないメンバー

 星のや京都の宿泊客は嵐山の渡月橋付近の船着き場から船に乗って旅館を訪れる。船を操るのは星野リゾートのスタッフだ。野口もこの業務のために船舶免許を取得。当初はフロント、清掃などのマルチタスクのなかで船の業務も担当する形だった。

 それが台風のときに船の係留も任されるなどするうちに、野口は「替えのきかない業務」との思いが強くなり、ほかの仕事にないやりがいを感じるようになった。その一方、船以外の通常のマルチタスクの業務について、野口はいつしか「皆が同じようにできるのだから、自分でなくても仕事は回る」と思うようになり、力が入らなくなった。

 さらに「フロントでのチェックインなどの業務はおじさんである自分よりも若い社員が担当したほうが、アンケートによる顧客満足度調査で高い評価が獲得しやすい」ととらえるなど、消極的な姿勢が目立つようになった。

 マルチタスクの星野リゾートだが、ジョブローテーションの組み方によっては業務に偏りが出てくることがある。野口の場合、船の業務にこだわるようになった結果、活動領域はそれまでにないほど狭くなった。

「組織がおかしくなる元凶に自分がなってしまう」

星のや京都の船を操るのは星野リゾートのスタッフ(写真:大亀京助)
星のや京都の船を操るのは星野リゾートのスタッフ(写真:大亀京助)

 周囲はそんな野口の姿を心配するようになった。

 ユニットディレクターを務めていた廣岡太郎らが「もっと仕事の幅を広げてほしい」とアドバイスしたことが、野口が考えを改めるきっかけになった。

 当時の野口は、船の業務に力を注ぐなかで周囲との距離が気になり、どこか孤立感を感じることもあった。それだけに廣岡らの心遣いが身に染みた。

「このままでは組織がおかしくなる元凶に自分がなってしまう」

 ではどうすべきか。野口は、マルチタスクに対して、皆としっかり取り組むべきだととらえた。「入社以来ずっと取り組んできた働き方に帰れば、周囲に伝えられることがある。チームに貢献ができるのではないかと思えた」と野口は振り返る。マルチタスクのさまざまな現場に積極的に入り、再び全業務に集中して取り組むようになった。

フォルクローレ音楽と総支配人

廣岡は星のや京都の総支配人を務める(写真:大亀京助)
廣岡は星のや京都の総支配人を務める(写真:大亀京助)

 野口にアドバイスを送った一人である廣岡は17年12月、星のや京都の総支配人に就任。同じタイミングでユニットディレクターに鈴木麻里江が就いた。2人を中心に星のや京都ではスタッフの働き方を見つめ直す取り組みが始まった。

 廣岡は大学院の修士課程で南米の地域研究を専攻。現地のフォルクローレ音楽にはまり、ボリビアに研究と音楽家としての修業を兼ねて滞在したこともある。星野リゾートには07年に入社。創業地である軽井沢のホテルブレストンコートやアルツ磐梯などを経て10年、星のや京都に異動した。

ユニットディレクターの鈴木は入社後、星のや京都に配属(写真:大亀京助)
ユニットディレクターの鈴木は入社後、星のや京都に配属(写真:大亀京助)

 一方、ユニットディレクターの鈴木は大学で美学・美術史を学んだ後、13年に星野リゾートに入社。星のや京都に配属となった。

 星のや京都は当時から業績自体は右肩上がり。顧客満足度調査においても、設定した目標を達成していた。このため表面上、問題がないようにみえた。しかし、内側ではスタッフの働き方についての課題が見え隠れし、スタッフにはどこか閉塞感が漂っていた。

 廣岡と鈴木がそれぞれのマネジメント職に就く少し前、調理がメーンのスタッフが退職。スタッフは本来マルチタスクだが、詳しく調べると辞めたスタッフに特定の単純作業が集中していた。

フラットになりきれていなかった

 なぜ、そんなことになったのか。星のや京都では、作業内容ごとに目標時間を細かく設定している。スキルを高めるのが本来の目的だが、いつの間にか「スキルを習得しないとモノが言えない」「議論するとき、知識や経験が大きい人ほど声が大きくなる」雰囲気が生まれていた。そんななかで一部のスタッフは働き方がマルチタスクから遠ざかっていた。

 廣岡は振り返る。

 「自由に発言する状態でなかった。フラットになりきれていなかった」

 背景には新たな船待合をつくるプロジェクトが一年半がかりで進行し、チームビルディングにあまり力を入れられなかった事情もあったが、廣岡、鈴木は「目線が合っているようで合っていなかった」と受け止めた。2人は数人のリーダークラスのスタッフとともに、星野リゾートのミッションやビジョンなどを確認することから始めた。

 話すうちに鈴木らが痛感したのがリーダーの役割だ。振り返れば、それまではリーダーがオペレーションを回して顧客満足度の向上を目指すことで手一杯になっていた。このため、スタッフは気づきやアイデアがあっても、気軽に言える状態でなかった。

星のや京都は内側でスタッフの働き方について課題を抱えていた(写真:大亀京助)
星のや京都は内側でスタッフの働き方について課題を抱えていた(写真:大亀京助)

フラットな組織文化にためには、スタッフ一人ひとりの思いや悩みに向き合うことが大切になるーー。連日の議論を通して廣岡、鈴木はこう確認したうえで、ほかのスタッフも含めてマルチタスクのあり方について議論を重ねた。

これまで以上にマルチタスクを徹底

 「星野リゾートのスタッフは日々の業務を通じて事業に参画する」「だからこそ、議論するスタッフは皆、施設全体について責任を負う」「お互いの業務を知ってることによって建設的な議論ができる」「マルチタスクだからこそ、さまざまな戦略間のフィット感を生む」などを自由に話しながら、スタッフは目線をそろえていた。そのうえで、働き方の見直しを進めた。

 出した結論は「仕事の幅を広げ、これまで以上のマルチタスクに取り組む」こと。星のや京都では18年5月からスタッフを3チームに分けて、4カ月に1回のペースで早番、中番、遅番を順番に担当する方向が見えてきた。

話し合いを重ねた結果、これまで以上にスタッフはマルチタスクを徹底することになった(写真:大亀京助)
話し合いを重ねた結果、これまで以上にスタッフはマルチタスクを徹底することになった(写真:大亀京助)

 一方、導入に否定的な見方もあった。「経験とスキルがあるからこそ、高い顧客満足度を維持できている」と考えるメンバーもいたからだ。これまでの働き方を変えたくない人もいた。何年も遅番だけを担当してきたスタッフは「これまでの働き方、スタイルが自分には合っている」と主張した。

 それでも話し合いを重ねた結果、マルチタスクを徹底するために全スタッフが可能な限りすべての仕事をできるようにすることが決まった。遅番だけを担当してきたスタッフは当初、新たな働き方に踏み込むのにちゅうちょうしていた。それでも実戦してみると大きな問題は生じなかった。試行錯誤する場面もあったが、時間をかけて議論した分、スタッフは新しい働き方に納得感があり、思いのほかスムーズだった。

「考えることをしなくなっている」と気づく

代表の星野は「チームメンバー全員が、会社の未来を一人ひとり考えるべき」と強調する(写真:森本勝義)
代表の星野は「チームメンバー全員が、会社の未来を一人ひとり考えるべき」と強調する(写真:森本勝義)

 星野リゾートにとって「当たり前」のはずのフラットな組織やマルチタスクだが、ときには揺らぎそうになる場面がある。代表の星野はことあるごとに星野リゾートの働き方の意義について問いかける。

 同社は先日、若手のマネジャー人材を集めた合宿を一泊二日でアルツ磐梯で開催。この席で星野は「マネジメント担当者だけではなくて、チームメンバー全員が、会社の未来を一人ひとり考えるべき。それが星野リゾートが目指している組織の在り方だ」と強調した。

 この合宿に廣岡と鈴木は参加。一歩引いた視点から日々の業務を見つめ直した結果、「日々のオペレーションに携わるうちに、考えることをしなくなっていると改めて気づいた」と話す。これからもスタッフとともに働き方について考え続けていく。

星のや京都のスタッフはこれからも働き方について考えていく(写真:大亀京助)
星のや京都のスタッフはこれからも働き方について考えていく(写真:大亀京助)
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