ケネス・J・アロー (Kenneth J. Arrow), 1921-

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K.J. アローの写真 アローのサイン

 20 世紀の最も重要な経済理論家の一人であるケネス・J・アローは、各種の分野で根本的な貢献を行ってきた。そのほとんどは新ワルラス派一般均衡理論と厚生経済学の周辺に集中していて、これらについてアローは主要な構築者の一人として見ることができる。

 ケネス・アローはとことんニューヨーク産の人物だ。生まれ育ちもニューヨーク市、教育はニューヨーク市立大学 (CCNY) で、その後コロンビア大学院でハロルド・ホテリングとエイブラハム・ワルド の下、数理統計学を学んだ。かれが経済学の方に接近するのは、コロンビア大学でのことだった。

 1942 年に博士課程の単位を取得し終えた後のアローの博士論文は、10 年にもわたる大作業となった。第二次世界大戦中に、アメリカ空軍の気象部門に一時所属してから(これが 1949 年の論文につながる)、アローは 1946 年にコロンビアに戻って、博士論文のテーマがまだ決まらないまま、民間セクターへの移住に向けて手を打つようになる――一連の保険統計試験に合格して、保険業界での職探しを始めたわけだ。この期間、アローはヤコブ・マルシャックの数学セミナーに参加した。ホテリングとワルドは、アローの迷走ぶりに呆れて、1947 年にシカゴのコウルズ委員会でマルシャックの下で研究助手をやれと説得した。

 コウルズ委員会で、アローはマルシャッククープマンスが設定したワルラス派の研究プログラムをほとんど吸収した。アローは在庫方針についての論文をマルシャックとハリスと共著して、有名な 1951 年のクープマンス編「活動分析に関するコウルズモノグラフ」に一編を寄稿した。

 非常に刺激の多いコウルズでの二年間を経て、アローはアメリカ空軍と縁の深いランド研究所に移った。その後かれは、スタンフォード大学で教鞭を取ることになる――そして今日にいたるまで、1968 年から 1979 年までのハーバード大在籍をのぞけば、ずっとそこに居座っている。

 ランド研究所での研究テーマの一つは、国際紛争や戦略の分析に、当時としては目新しかったゲーム理論を使うことだった。でも、ゲーム理論そのものが、参加者たちがある種の効用関数を持つことを前提としている。参加者が個人であるようなテーブルゲームでならこれも許されるけれど、でも戦略的な状況におかれた総体としての国を扱う場合、「アメリカの」効用とか「ソ連の」効用となると、話はまったく別だ。そこでアローは、国のような集合体が、きれいにふるまう効用関数を持つと想定できるにはどんな条件が必要なのかな、と考えた。そしてやっとのことで、博士論文の主題が見つかり、それが書かれ、そしてかの記念碑的な古典論文「社会的選択と個人の価値観」(Social Choice and Individual Values) (1951) が発表された。

 アローの 1951 年の博士論文の中核にあるのは、社会的選択の順番は、個人の選択の順番に基づいて、単純な公理的やりかたから導き出せる、という想定だった。アローの驚異的な結論(これはその後、「アローの不可能性定理」と呼ばれるようになる)は、社会的選択の順番についての、特に変わったところのない公理が、必然的に「独裁者」の存在を意味する(つまりある特定エージェントが結果に対して持つ嗜好が、他のみんなの嗜好を圧倒してしまうということ)ということだった。この見事な結果は、それ以来社会福祉理論において、大規模な研究産業を作り出したし、またアロー自身もそこに無数の貢献を追加で行っている (e.g. 1952, 1967, 1973, 1977)。このためかれは、倫理や正義の哲学といった、はるか遠い分野にも足を踏み入れることとなった (e.g. 1967, 1973, 1977, 1978)。

 アローの博士論文は、もう一つコウルズに刺激を受けた重要な研究論文とほぼ同時に刊行された。それが一般均衡理論における厚生経済学の第一、第二基本定理の証明 (1951) だ。当時コウルズにいたジェラール・ドブリューも、同じ定理を独立に証明した。アローとドブリューは有名な共同研究を開始して、それが高名な「アロー=ドブリュー」の競争均衡存在証明 (1954) となった。

 またその間、アローは一般均衡の文脈に不確実性を導入しようと苦闘していた。この道の先駆的な論文で、アロー (1953) は簡単なやり方として「条件つき財 (state-contingent commodities) を考えればいいことを示した。結果としてかれは、条件つき市場のすべての集合(完備市場)における均衡状態では、最適なリスク配分があることを示した。でもアローは、条件つき財の完備集合というのはあまりに非現実的に見えるかもしれないことも指摘した。同じ論文で、アローは有名な「アロー証券」を考案してみせた。これは、ある状態では一定ユニットの支払いが行われるけれど、それ以外では何も支払われない証券だ。アローは、条件つき財の完備市場は、各種の可能な状態にまたがるアロー証券のずっと少数の集合で置き換えられることを実証した――つまりは、最適なリスク配分は条件つき完備市場でのアロー=ドブリューモデルでの場合とまったく同じになるということだ。

 続いてアローは関心を新しい問題に向けた――複数市場における競争均衡の「安定性」の問題だ。この問題についての関心はマクマナス (McManus 1958) と共同の「D 安定性」に関する研究が発端で、これはハーウィッツ (Hurwicz 1958) と共同の局所安定性に関する有名な論文でさらに展開された。この面でアローの一番有名な業績は、ブロック (Block) とハーウィッツとの共著論文 (1959) で均衡の大局的安定性に関する十分条件 (i.e. WARP) を求めたことだったろう。その後ハーウィッツと共同で薦められた拡張や厳密化 (1960, 1961) は、安定性理論の成果と問題を同時に示すものだった。

 その間、アローは数理計画法への関心も保ち続けていた。ハーウィッツ (Hurwicz)宇沢弘文 (1961) と共著で、かれは非線形計画法問題の局所解のサドルポイント的特徴 (saddle point characterization) を得るための、有名な弱い制約想定を作った(これはクーン=タッカーの条件に代わるものとなった)。エントーベン (1961) と共著で、maximand と制約関数が両方とも準凹の場合の最適化問題を特徴づける有名な結果もいくつか生み出した。

 同時にかれは、生産と成長の問題に手を出した。1961 年には、ホリス・チェネリー、B.S. ミンハス、ロバート・ソローといっしょに、アローは有名な「代替弾力性一定 (Constant Elasticity of Substitution)」 (CES) 生産関数を提案。1962 年には、現代内的成長理論の先駆となる「learning-by-doing (実践による学習)」についての論文を二本発表している。

 画期的な貢献はさらに続く。初期の保険統計での経験を活かして、アローは医療保険に関する有名な 1963 年論文を書いた。これはモラルハザードの概念を経済学に導入し、情報理論の夜明けを告げるものだった。1965 年の講演集 Aspects of the Theory of Risk Bearing (リスク負担理論の諸側面) は、有名な「アロー=プラットのリスク(危険)回避度」の概念や、わかりやすくした非対称情報と「モラルハザード」条件、そして「逆選択」などの概念を導入している。モラルハザード、最適保険や最適リスク負担配分に関するアローの業績のほとんどは、有名な 1971 年の著書 Essays in the Theory of Risk- Bearing に収められた。アローの教育と人種差別に関する研究 (1972, 1973) は、非対称情報のもとでのシグナリングとスクリーニング機構の応用として有名な練習問題となっている。

 アローはリンドと共著の有名な論文 (1970) で、公共投資の理論と不確実性を結びつけ、政府のリスク負担役割を主張した。数理計画法と公共政策に対する関心は、自然と最適政策の問題に向かうこととなった――特に、資源配分や在庫政策、公共投資を導く最適制御理論をどう使うか、と言う問題だ。モルデカイ・クルツ (1969, 1970) と共同研究で (これはやがて有名な 1970 年の共著書となった) 、アローは当時はほとんど使われていなかったハミルトニアンの応用と拡張をたくさん示した。アローの有名な、最適化のための「十分」条件は、マンガサリアン条件を一般化するものだった。

 1971 年に、ケネス・アローとフランク・H・ハーンは有名な論文/教科書 General Competitive Analysis (1971) を発表。これはごく最近まで、ワルラス的一般均衡理論の大権威だった。一般均衡研究は、その後はアローやハーンが考えたのとはまったくちがった方向に向かったけれど、でも一般均衡における貨幣、不確実性、安定性の扱いについてこの両者が批判的な見当を加えたおかげで、経済学者がこうした問題についてちがった見方をするようになったのはまちがいない。1981-83 年にかけて、アローは Handbook of Mathematical Economics の共編者として手を貸し、一般均衡理論の最先端を再びまとめてみせた。

 アローは、一般均衡理論や社会福祉理論、成長、生産、不確実性、情報、最適公共政策などについて圧倒的なほどの画期的貢献を生み出してきたけれど、大御所としての地位に甘んじることなく、精力的な研究を続けている。たとえばラドナーと共著で行った、1979 年の「チーム」の理論や、チャンと共同で行った天然資源の理論 (1980) は、組織理論や資源分配理論に新しい道を拓いた。もっと最近では、アローは再びハーンと組んで、「内的不確実性 (endogenous uncertainty)」 (1999) の問題に取り組み始めている。

 ケネス・アローは、たぶん存命中の経済学者の中で最も尊敬され、崇拝されている人物の一人かもしれない。多くの点で、かれの生涯で最も賞賛に値するのは、そのほとんど信じがたいほどの成功にもかかわらず、かれがどんな点でも専門学者にありがちな傲慢さやセコさに陥らなかったという点かもしれない。だれが見ても、アローはその学問的な深み、関心の広さ、個人的・知的な寛容さとオープンさ、そしてイデオロギー的なもめごとに関わることを断固として拒否する態度などの点で、経済学者・非経済学者、あるいは正統派・非正統派を問わず、高い評価を得ている。何はなくともアローは、「邪悪さと天才は決して共存することがない」(Pushkin, 1832) というプーシキンの法則を見事に体現している。

 でも、かれの業績はただのツキのおかげではないし、お手軽作業でいい加減に仕上げたものでもない。むしろそれは、しばしば苦労に満ちてはいるけれど、それでも継続的な学者としての仕事への献身ぶりからきている。これは忘れないようにしよう。その業績を通じて、アローが最高水準の厳密さを維持し、過剰な単純化やイデオロギー的なレトリックを避け、経済理論の適用の限界についてはっきり認識すると同時に、その線引きを積極的に行ってきたことは明らかだ。そうすることで、アローは経済学と、経済のプロセスについて、ほかのどんなやり方よりもはるかに深い理解を実現し、それをぼくたちに提供してくれた。

 ケネス・J・アローは 1972 年にノーベル記念賞を「一般均衡理論と厚生理論における先駆的な貢献」によって、これまた傑出した学者であるジョン・ヒックスと共同受賞している。アローがその知的業績の初期における最も影響力の強かった研究として、ヒックス自身の「価値と資本」 Value and Capital (1939) を挙げていることは、指摘しておいていいかもしれない。

ケネス・J・アローの主要な著書論文

ケネス・J・アローに関するリソース


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