殺人、虚偽、窃盗、近親相姦…ローマ教皇に突き付けられた「ヤバすぎる罪状」と「その末路」

11月新刊『ドイツ誕生』では、神聖ローマ帝国初代皇帝であるオットー1世の波乱万丈な人生から、ドイツという民族国家の成立過程までが丁寧に記されている。
今回は本書の第7章から一部抜粋し、オットーが行った第2次イタリア遠征について紹介しよう。

教皇ヨハネス十二世からのSOS

九六〇年末、レーゲンスブルクに教皇ヨハネス十二世の使者がやってきた。

別の史料によると反教皇派もオットーに使者を送り、ヨハネス十二世のローマ放逐を懇願したとある。ここらあたりがいかにもイタリアらしく一筋縄でいかないところだ。言えることはどちらもオットーを頼るしかなかったということである。 

いまやオットーはヨーロッパの盟主となったのである。

その盟主オットーに教皇の使者はベレンガーリオの傍若無人のふるまいを訴えた。

まずは五年前にベレンガーリオが東フランクがリウドルフの反乱で内戦となりバイエルン大公領が弱体化した隙を狙って大公領のヴェローナとアクィレイアを奪取したことが挙げられた。この火事場泥棒のような行為はオットーにとって到底許されぬものであった。

さらにベレンガーリオはミラノ司教の地位にも触手を伸ばした。それだけではなくミラノ司教区からオルタ湖に浮かぶ島を強奪しそこに要塞を築いた。次いで息子のアーダルベルトにアオスタ伯位を授け、アオスタ司教から関税収入を奪った。

九五六年、オットーの息子リウドルフが父の命令によりベレンガーリオ討伐にやってくると彼は要塞に立てこもり、カタツムリのように固く身を閉ざした。

しかしリウドルフがマラリアに斃れ、東フランクの軍勢がイタリアを離れるとベレンガーリオは性懲りもなく攻勢にでて、リウドルフに味方した貴族や司教を攻め立てた。常にオットーに忠実であったミラノ大司教ワルトペルトは半死の状態でアルプスを越えて逃亡した。コモ司教ワルドやミラノ辺境伯オベルトもリウトプランドを介してオットーに保護を求めた。ちなみにちょうどこの頃はオットーが病に掛っていた時である。

リウトプランドは最初ベレンガーリオに仕えていたが、九五〇年に不和となる。この頃はオットーの懐の深くに入り込み、クレモナ司教に任命されていた。彼は自著『報復の書』でベレンガーリオとその妃ウィラをさんざんこき下ろしているが、ちょっと激越すぎる。しかし彼がオットーのイタリア遠征の重要な助言者であったことは間違いない。

さて、ベレンガーリオはさらに侵食を重ね、教皇領であるラヴェンナを占領し、そこからスポレートまで侵攻する。

そしてベレンガーリオはオットーの介入を恐れイタリアの司教たちに忠誠の証として人質を供出するよう要請した。

そしてなんといっても決定的だったのはベレンガーリオが息子のアーダルベルトに直接ローマに侵入させたことであった。

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ローマの主である教皇ヨハネス十二世はパニックに陥った。なにしろこのとき彼はわずか二十三歳の若造に過ぎなかった。彼は九五五年、亡き父アルべリーコ二世の遺言により教皇になっている。それは教会法が定める叙階年齢の三十歳に達するはるか前の十八歳の時のことである。それでも気質が優れていればまだしも、軽佻浮薄を絵にかいたような人物であった。彼はオットーに助けを求めた時から三年後の九六三年にほかならぬそのオットーにより教皇を廃位させられているが、その際の彼に対する告発状は背教、殺人、虚偽の宣誓、聖遺物窃盗、近親相姦、悪魔の呼び出し、ビザンツとの結託と内戦の準備等々とこれでもかと彼の罪状を挙げている。もっともこれらがすべて信用できるとは言い難い。しかし火の無いところに煙は立たないという、やはり教皇ヨハネス十二世は稀代の破戒僧であったようだ。

そんな彼は恐怖に駆られてただ闇雲にオットーに助けを求めたのである。

こうして教皇の使者はベレンガーリオの暴挙を数え上げ、ローマの救済を懇願し、そして皇帝戴冠を申し出たのである。これは正式な要請であった。それが証拠に要請書にはミラノ大司教、コモ、ノヴァラ各司教、ミラノ辺境伯らの貴族も名を連ねていた。

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