2023.02.18
# 中国

清末の独裁者・西太后は、女傑か、悪女か? 側近女性が“盛り気味”に描く実像

中国と中国人を知るための必読書

西太后の一般的なイメージは「女だてらに国政を牛耳り、改革派を弾圧し、清を滅亡に追いやった悪女」である。ただし、彼女の実像や歴史的評価については、今日も議論が続いている。

彼女の生涯は幸運と不運の繰り返しだった。年齢的なめぐりあわせで宮女の選抜試験を受け、合格して咸豊帝の後宮に入り、帝の唯一の息子を産んだ。25歳(満年齢。以下同じ)のとき夫である咸豊帝が死に、5歳のわが子・同治帝が即位した。彼女は、亡夫の正室であった東太后や、亡夫の実弟らと組んでクーデターを起こし、宮中の反対勢力を一掃。幼帝の後見人として国政を総攬した。だが同治帝は18歳の若さで、世継ぎを残さぬまま病死してしまう。西太后は、自分が引き続きトップに君臨するため、自分の妹の子で三歳の光緒帝を立てた。

清朝第11代皇帝、光緒帝。西太后の甥。

近代中国の「開発独裁」は西太后に始まる

光緒帝は賢君だった。成人後、国際協調や立憲君主制への移行など、それまでの中国とは真逆の進歩的改革を志した。西太后を頂点とする保守派は、光緒帝を幽閉し、改革派をつぶした。

民衆の外国人憎悪が沸騰して義和団事件が起きると、西太后はこれを利用して列強に宣戦を布告した。だが清は敗れ、西太后は北京を捨てて西安に逃げた。戦後、北京に戻った西太后は、甥である光緒帝との確執を解決しないまま、近代化政策に転じた。
富国強兵のための改革は推進する。しかし自分の独裁権力を減ずる政治改革は絶対に認めない。そのような中国の「開発独裁」は、西太后に始まる。

彼女は半世紀近くも国政のトップに君臨したのち、1908年、73歳になる直前に病死した。その間、中国は半植民地化が進み、清の亡国は決定的になった。明治維新に成功した同時代の日本とくらべれば、清は「失敗国家」だ。しかし、完全に植民地化されたインドや、分裂・解体させられたオスマン帝国にくらべれば、清は領土の主要部を確保し、それを中華民国や中華人民共和国に受け継がせた。

西太后は私利私欲と保身のため国を滅ぼした悪女だったのか。それとも近現代への軟着陸を図った女傑だったのか。今も評価は分かれる。

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