2016.05.09
# 本

いま明かされるパナソニック社長交代劇の「舞台ウラ」

嗚呼、人事はかくも難しい
岩瀬 達哉 プロフィール

神様も女房には頭が上がらなかった

事業の難しさ、厳しさを骨身に沁みる思いで噛みしめながらも、しかし生きていかなければならない。夫人のむめのは、着物の裾をからげ、ソケットの素材となる「アスファルトと石綿、石粉」などを真っ黒になりながら昼夜を問わず練り上げる一方、たびたび実家の淡路島に帰ってはカネの工面に奔走した。

幸之助を支えた妻・むめの

はじめは親に泣いて頼み、やがて親戚中に頭を下げて回っては、資金の調達を続けたのである。

むめのの実家のある兵庫県東浦町(現淡路市)で町長を5期20年つとめ、むめのとは遠縁の関係にあたる新阜京一は、祖父の新阜文吉から伝え聞いた話としてこう語った。

「文吉さんの話では、むめのさんは、実家にようお金を借りに来た、いうことや。事業をはじめた端の頃で、お母さんのこまつさんも一生懸命こしらえてな。ほんでも足らん分は親戚の井戸藤吉さんや井戸熊吉さんなんかが、それじゃウチが用意しようかいうて貸したいうことですわ」

銀行が洟も引っかけなかった時代、むめののおかげで幸之助は事業を続けることができたのである。家族経営のささやかな作業場は、70年後には資本金1849億円、売上高6兆円、本社だけで約4万人の従業員を抱える世界的企業へと発展することになった(幸之助が逝去した平成元年度の決算書等)。

だからこそ、幸之助は、むめのの意思を無下に退けることができなかったのである。

むめのにしてみれば、正治はひとり娘幸子の夫であり、かわいい孫の正幸の父親である。将来、孫の正幸に社長を継がせるためにも、正治が社長の座に居続けることを強く望んだ。

しかし丁稚奉公からたたき上げ、事業を成してきた幸之助には、人情にとらわれることなく、事実に忠実であろうとする習性が備わっていた。幸之助は、早くから正治の経営能力を見限っていたのである――。

(続きは、『ドキュメント パナソニック人事抗争史』をお読みください)

岩瀬達哉(いわせ・たつや) 1955年、和歌山県生まれ。ジャーナリスト。2004年、『年金大崩壊』『年金の悲劇』(ともに講談社)で講談社ノンフィクション賞を受賞。また、同年「文藝春秋」に掲載した「伏魔殿 社会保険庁を解体せよ」で文藝春秋読者賞を受賞した。他の著書に、『血族の王 松下幸之助とナショナルの世紀』(新潮文庫)、『新聞が面白くない理由』(講談社文庫)などがある。

 『ドキュメント パナソニック人事抗争史』著者: 岩瀬達哉
(講談社+α文庫、税別630円)

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