2022.02.19

伝説の五輪メダリスト・バロン西の壮絶死の「伝説」が、日本人の心の支えとなった理由

最後の証言者が語る【後編】
隈元 浩彦 プロフィール

再び部下たちの待つ硫黄島に戻った西がどういう最期を遂げたのかは、不明である。ただ分かっているのは、戦車隊を率いながら、岩礁地帯のため肝心の戦車は車体を埋めて砲台として使われた。戦場を駆けめぐることを本分とする騎兵出身の西にとっては、不本意だったことだろう。

西の戦死は、硫黄島の日本軍守備隊の組織的な抵抗が終わろうとしていた1945年3月21日、あるいは22日とも伝わるが判然としていない。それも壮烈な討ち死に、あるいは自決とも言われる。中には、米軍の戦車を奪って敵基地に突撃したという話まである。それもまた、西という「伝説」に包まれた男に似つかわしいのかもしれない。

遺族が支えとした「バロン西」伝説

戦後しばらくして、生さんは西の妻武子さんからこんな話を聞かされた。

硫黄島玉砕の報にも夫竹一の死を信じなかったが、「玉砕」の大本営発表から1週間ほどたって愛馬のウラヌス号が死んだという知らせが西家にもたらされた。「その時、初めて夫はやはり死んだのだと、実感した」と。西の生涯にとって、エバーグリーンの時があったすれば、ロス五輪での金メダルであろう。それをともにした愛馬が逝った。ならば夫も……武子さんは、そういう心境だったのではないか。

西竹一と愛馬ウラヌス号 西竹一と愛馬ウラヌス号
 

西は硫黄島に行く前、東京・世田谷の馬事公苑でウラヌス号に最後の別れをしていた。愛馬は久しぶりの主人との対面に、体をすり寄せてきた。西は死を覚悟していたのだろう。たてがみを数本切り取って愛おしそうに持ち帰ったと伝えられている。

戦後の混乱期、武子さんが支えとしたのは、夫が残した金メダルと、「バロン西」伝説だった。それは硫黄島を攻撃した米軍が金メダリスト西を惜しんで、「バロン西、出て来なさい」と、その名を呼んで投降を勧告したという話だった。

広く流布され、西を題材にした城山三郎の短編『硫黄島に死す』にも言及されている。

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