【天才落語家・立川談志の最期】〈3〉期せずして弟子への“遺言”となった四文字

スポーツ報知
楽屋で弟子と談笑する立川談志(2009年2月撮影)

 意識がなくなり息を引き取るまでの約3週間、そして懸命に介護した8か月間を長女・松岡ゆみこは「神様のくれた時間」と称した。最愛の父との別れを前に、心の準備をする貴重な時間だった。

 「坊主は呼ぶな」「ディキシージャズの『ザッツ・ア・プレンティー』を流せ」「戒名は“立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)”にしろ」など“遺言”に沿うように葬儀社と打ち合わせすることも出来た。

 亡くなる直前に病院に駆けつけた最後の弟子・談吉は、すぐさま席を外した。「最後の最期は親族だけにした方がいいのかなと思って、いったん外に出たんです」。何も知らされない兄弟子たちへの配慮もあったのか、談志が息を引き取ったとの連絡を受けて再び病室に戻った。

 静かに眠る談志の姿に「亡くなったとは思えなかった」。それでも体に付けられていた機器、管などが次々と取り外され病室はガランとした。自宅に戻り、紋付き袴を着せると、師匠の死を実感し涙があふれボロボロとこぼれ落ちた。声を出して泣きじゃくった。

 なきがらは車で自宅に向かった。生活していた根津のマンションにはうわさを聞きつけたマスコミが張り込んでおり、その横を素通りして別の場所へ着いた。今後、夫人が生活するために購入して間もないマンションだった。翌22日にそこで通夜を行った。

 「立川談志が亡くなったらしい」。マスコミ各社は確認に追われた。弟子たちにも真偽の確認についての電話が殺到し、弟子同士も連絡を取り合った。立川談四楼や立川談之助は、立川左談次(故人)に連絡した。左談次は、談志行きつけの銀座のバー「美弥」で毒蝮三太夫と会っていた。「俺たちが知らないからガセだろう」。何かあれば自分のところに連絡が来るはずだと弟子たちは信じていた。8月に「談志死去」の誤情報が駆けめぐったこともあり、またガセネタかとの思いもあった。

 8月19日だった。一門の立川文都の三回忌、立川談大の一周忌として直弟子のほとんどが「美弥」に集まった時に、談志が姿を見せた。両脇を抱えられ階段を上り下りする姿だったものの、弟子にメッセージをとの願いに談志は筆談で女性器を示す四文字を書き、弟子をウケさせた。弟子たちはXデーがそう遠くないこともうすうす理解していたが、それが“遺言”になるとは思わなかった。(高柳 義人)

(2019年4月25日、紙面連載「あの時より)

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